第24話「母の子守唄は、どこにも鳴らない」
初雪は夜の音をまとめて連れていく。
荷車の軋みも井戸の滑車も、酔っ払いの千鳥足も。降りはじめて半時もすると、錆び横丁は綿の中に沈んだみたいになった。店じまいの戸締りをしながら見上げた空は、雪のむこうでぼんやり明るい。
あの雲の上には星が出ているのだろう。今夜は見えなくても、この路地の屋根の下には、もうひとつの星空がある。
星籠はあれから毎晩灯っている。
金物屋の奥はちょっとした夕涼みの場——いえ、夕暖まりの場になった。子どもらが床に寝転んで星を数え、年寄りが椅子ごと運ばれてきて口を開けて見上げる。
寄合は星籠を役所の詮議に持ち出す算段を進めていて、ヴィムは受け座の頁を写しては、商会に突き返す偽銘石の目録まで作っている。前を向いた人の背中は、見ているだけでこちらの背筋まで伸びる。
ピコは毎晩通っては、星の名前をひとつずつ覚えて帰ってくる。今夜は南の大河のいちばん明るい星の名を、夕飯のあいだじゅう3回も自慢して、湯たんぽ代わりの温石を抱えて先に寝てしまった。健やかな寝息が二階から薄く降ってくる。
だから、というわけでもないのだけれど。
その晩、私は棚のいちばん奥から、母の箱を下ろした。
毛布ごと作業台に置いて、布をめくる。飴色の木肌、細かな唐草、白く擦れた蓋の合わせ目。何も変わらない。変わらないことが、こんなに応える夜もある。あちらの直らないものは直った。ならばこちらもと思ってしまうのが人情で、その浅ましさも道具を並べる手は知っている。
分解は何度目かをとうに数えなくなった。
蓋の蝶番を外す。響き板を留める小ねじを右から順に抜く。香箱を開けて、ぜんまいのほどけ具合を確かめる。
円筒を抜いて、突起のひとつずつを布で拭う。櫛歯を外して、歯の並びを光に透かす。欠け、なし。
曲がり、なし。錆、なし。調速の風切り羽は指で弾くと乾いた音を立てて回り、油は先週差したばかりの艶を保っている。
響き板を指の腹で叩けば、こん、と張りのある返事。楽器としてなら、この箱は健やかそのものだ。
どこも悪くない。
組み直して、ねじを巻く。ぜんまいが素直に力を溜めて、円筒がゆっくり回りだす。それなのに突起が櫛歯にかかる寸前で、回転は必ず止まってしまう。何度組み直しても、止まるのはきっかり同じ場所。だから音はいつまでも生まれない。まるで箱ごと、歌うことを拒んでいるみたいに。
機構は嘘をつかない。それが手仕事の信条で、私はその信条に食べさせてもらってきた。なのにこの箱の前でだけ、信条は毎回、黙って首を横に振る。
窓の外で雪が積もっていく。手を止めると、指先から夜の冷えが上ってきた。火鉢の粉魔石が残り少ないのを思い出したけれど、立つのが億劫で、私は箱の蓋にてのひらを置く。
母がこれを巻いてくれたのは、決まって寝る前だった。
工房ではない。寝室でもない。母の私室の、窓際の長椅子。
膝に毛布、毛布の上に私、私の前にこの箱。窓の外では夏の虫が鳴いていた。母の指がねじを巻くと、箱は小川みたいに歌いだして、母はその旋律に低い声をそっと重ねた。
ねむれ、ねむれ、と始まる古い子守唄。油と石鹸の匂いのする指が、拍子を取って私の髪を撫でる。歌の三つ目の節で、母はいつも少しだけ音を外した。
わざとだったのか、癖だったのか。訊きそびれたまま、確かめる相手はもういない。
旋律なら、覚えている。今でも一音ずつ、譜面に起こせるくらいに。
だから私は息を吸った。箱が歌わないなら、私が歌えばいい。あの晩の続きを、ここへ呼び戻せばいい。そう思って唇を開いて——、
声が出なかった。
喉の奥が蓋をしたみたいに固まっていた。息は通る。唇も動く。なのに歌になる手前で、何かが音を握り潰してしまう。ねむれ、の「ね」の一音さえ、形にならない。代わりに出てきたのは、掠れた吐息だけだった。
もう一度吸って、もう一度。だめだった。三度目は吸った息がそのまま震えて、私は口を閉じた。
歌えないのだ。母が死んだあの日から、私はあの歌を一度も声にしていない。鼻歌でさえも。気づかないふりをしてきたけれど、本当は知っていた。あの旋律を自分の声でなぞったら、母がもうどこにもいないことを、喉が先に認めてしまう。
雪は降り続いている。窓の桟に、白がまた一段積まれる。
箱は作業台の上で、口を開けたまま黙っていた。責めるでもなく、急かすでもなく。この箱と私は似た者どうしなのかもしれなかった。機構はどこも壊れていないのに、歌だけが出てこない。
戸を叩く音がしたのはそのときだった。
開けると、雪をかぶったヴィムが立っていて、借りていた細目の鑢を無言で差し出してきた。こんな刻限に、こんな雪の中を、鑢一本返しに来る人があるだろうか。受け取って、礼を言いかけて、あの人の目が私の肩越しに作業台へ向いているのに気がついた。
開いた箱。並んだ工具。散らかしたままの、敗北のあと。
ヴィムは何も言わなかった。訊きもしなければ、慰めもしない。代わりに土間へ一歩入って、消えかけの火鉢に、懐から出した紙包みの粉魔石をひとつまみ足した。ぼ、と小さく火が起きる。
「……飯は、食ったのか」
「……ええと。パンを、朝に」
「食え。手が冷えてるやつの半分は、腹が減ってるだけだ」
それきり、雪の降る路地を戻っていった。金物屋の戸が閉まる音がして、あたりはまた綿の底に沈む。私は少し笑って、それから笑いきれなくなって、火鉢のそばで硬いパンをちぎって食べた。
ちゃんと噛んで、ちゃんと飲み込んだ。誰かが起こしてくれた火を、無駄にしない程度には、私はまだ大丈夫らしい。
箱を組み直して、布でくるみ、棚のいちばん奥へ戻す。路地のむこうの星籠は、今夜も布なしで眠るのだろう。うちの箱にだけ、私はまた布を掛ける。
ねむれ、ねむれ。歌の出だしを、唇の内側だけでなぞってみる。音のない子守唄が、雪の夜のどこにも届かないまま消えた。
次話:「小さな形見を、小さな手に返す」




