第22話「店じまいなんて言葉は覚えたくない」
噂が紙になった。
路地の入り口の井戸小屋に、御用の判を捺した貼り紙が出たのだ。いわく、王都南下地区の地均し普請について詮議中につき、追って沙汰あるべし。役所の言葉は遠回しだけれど、意味はひとつしかない。おまえたちの足元は、もう図面に載っている。
貼り紙の前に人だかりができて、字の読める者が声に出して読み、読めない者が眉間の皺でそれを写し取った。同じ日の午後には、バルツァー商会の若い衆が路地を一軒ずつ回りはじめた。春までに立ち退く家には割増金を払う、という先触れだ。
算盤ずくの立ち回りの早さに、かえって本気を思い知らされる。
次の朝には測量人まで来た。
真鍮の水準器を三脚に据え、鎖を伸ばして道幅を測り、うちの壁に白墨でしるしを付けていく。他人の家の壁に断りもなく。爪先から頭のてっぺんまでかっと熱くなったところで、路地の奥から先客の声がした。
「通行料。ひとり銅貨3枚」
ピコが道のまんなかで仁王立ちしていた。測量人がふたり、困り顔で立ち往生している。
「ここは天下の往来だろう」
「往来はそっち。ここから先はおれの庭」
もっともらしく手のひらまで突き出したところで、乾物屋からダリア婆さんが出てきて、ピコの襟首を猫の子みたいにつまみ上げた。それから測量人ふたりへ、にっこり笑ってみせる。
「悪かったね、お客さん。寒かったろう。茶でも飲んでおいき」
婆さんは何食わぬ顔でふたりを床几に座らせ、干し杏と熱い茶を出し、世間話の網をゆっくり絞っていった。若い測量人は杏を三つ食べ終える頃にはすっかり口がほぐれて、聞いてもいないことまで喋っている。曰く、詮議はまだ揉めている。
窪地の埋め立てには思ったより銭がかかると分かって、後ろ盾の御貴族さまが渋りだした。商会は尻に火がついて、それで先触れを急がせている——。
「なるほどねえ。ご苦労なことだ」
測量人たちが帰ったあと、婆さんは湯呑みを片付けながら鼻を鳴らした。
「決まった話なら、割増金なんてばら撒きゃしないのさ。あれは迷ってる普請の顔だよ。押せばまだ動く」
「押すって、どうやって」
「寄合だね。今夜、うちの店で」
夜の乾物屋に、路地じゅうの顔が集まった。樽に腰掛ける者、立ったままの者、戸口から半身だけ入れる者。火鉢を二つ焚いても隙間風は防ぎきれず、誰かが喋るたび、言葉が湯気になって行灯の光をよぎった。
話は簡単にはまとまらなかった。割増金をもらって出るのも悪くない、と口にしたのは靴直しの親方だ。膝を痛めて久しく、坂の上の娘のところへ身を寄せる潮時かもしれないと言う。
責める声は上がらなかった。それぞれの暮らしに、それぞれの算盤がある。それでも最後に婆さんが言った。
出たい者は止めないよ、けど追い出されるのと出ていくのは別の話だ——その一言で、狭い店の空気がひとつに固まるのがわかった。
陳情書を出す。話はそこまで威勢よく進んで、いざ書くとなった途端に皆が顔を見合わせる。役所に通る文なんて、誰も書いたことがないのだ。
「私が書きます」
気づいたら手を挙げていた。礼法と一緒に叩き込まれた筆の作法が、こんなところで役に立つとは思わなかった。作り付けの帳場机を借りて、私は墨を磨る。
ひんやりした硯の重み、立ちのぼる墨の匂い。令嬢だった頃の書斎とそっくり同じ匂いなのに、紙に載せる言葉はまるで違う。役所の書式に時候の礼、丁重で引かない言い回し。
あの窮屈な教育で覚えたものが、初めて自分の望んだ場所で働いている。この横丁に何軒の店があって何人が暮らし、この1年でいくつの竈に火が入り、いくつの灯りが直されたか。数えられるものを全部数えて、私は一枚に収めた。
署名は文字と拇印が半々になった。皺だらけの指も油の染みた指も粉まみれの指も、順番に朱肉を押していく。ピコも真剣な顔で親指を捺した。だいぶ曲がったけれど、誰よりも濃かった。
「紙一枚じゃ心細いね」
署名を眺めて婆さんが言う。私は昼間から考えていたことを口にした。
「路地の街灯、直しませんか。辻の魔導灯、半分は何年も切れたままでしょう。暗くて寂れて見える場所は、図面の上でも軽く扱われます。……ここが生きて回っている場所だと、通る人の目に見えるようにしたいんです」
沈黙はひと呼吸ぶんだけで、次の瞬間には段取りの相談が始まっていた。梯子はどこの家にある、油はうちが出す、石の銭は寄合の箱から——。
翌日から、私とヴィムは辻の街灯を順に開けていった。
留め具は錆びて固まり、反射板は煤で曇り、座は緑青を噴いている。ヴィムが梯子の上で笠を外し、私が下で座を磨いて魔導線を張り替える。新しく仕入れた固体魔石をひとつ嵌めた時、灯りが妙に黄色くはぜて、ヴィムが眉を寄せた。
「……石が荒れてる。近ごろの卸は、どうなってやがる」
等級より下の燃え方だ、と梯子の上で吐き捨てる。買い直した石に替えると、灯りはようやく落ち着いた白になった。一基に二晩、6基で十と少しの晩。凍える指に火鉢や熱い汁を差し入れてくれる家が、日ごとに増えていった。
最後の一基が点った晩、路地の入り口から奥まで、灯りの列がまっすぐ通った。
貼り紙の上にも皮肉なくらい明るく光が落ちている。戸口という戸口から人が出てきて、自分の家の壁が照らされるのを黙って眺めていた。誰かの拍手がぱらりと鳴って、すぐ照れたみたいにやんだ。
「これで向こうも、値踏みの目つきくらいは変えるだろうさ」
婆さんが腕を組んで言い、ピコが灯りのひとつずつに向かって偉そうに頷いてみせる。ヴィムは畳んだ梯子を担いだまま、灯りの列をしばらく無言で眺めていた。じいさんなら——と口の中で何かを言いかけて、やめる。
何を飲み込んだのか訊く前に、あの人は梯子を鳴らして店へ帰ってしまった。けれどその横顔は、金物屋の奥で眠る籠の前で見せるものと同じ目をしていた。店じまい、という言葉が頭の隅をかすめて、私はそれを灯りの下に置いて踏んだ。
覚えたくない言葉は覚えないでおく。
その晩、寝る前に覗いた土間で、ピコの枕元から風呂敷包みが消えていた。解いたのか、押し入れの奥へ仕舞ったのか。どちらでもいい。訊かないでおくのも、たぶん大人の仕事のうちだ。
墨と油で汚れた手を、もうしばらく洗わずにおく。この横丁の続きを書くのは、きっとこういう手だ。
次話:「錆を落とせば、あの人は前を向く」




