第21話「居場所がぐらりと傾く」
その朝、路地の入り口に、上等な外套がふたつ立っていた。
毛皮の襟を立てた男たちは、うちの看板も乾物屋の樽も見ていない。ひとりが手袋の指で路地の奥を指し、もうひとりが革の帳面に何か書きつける。値踏みの目、というものを私は知っている。
かつて夜会で、令嬢たちの首飾りを品定めする商人が同じ目をしていた。人ではなく、物差しの先を見る目だ。
男たちは半時ほどで消えて、昼にはもう、噂のほうが路地を歩き回っていた。
「川湊まで新しい荷馬車道を通すんだと。バルツァー商会が音頭を取って、後ろにはお貴族さまが付いてるって話だ」
井戸端でそう声を張ったのは、川湊帰りの荷運びだった。道を通すには窪地をまるごと埋めて均すのだという。錆び横丁は王都のいちばん低いところにある。雨のたびに水がたまり、上等な靴では歩けない場所。図面の上ではきっと埋めるのにちょうどいい窪みでしかない。
「立ち退きだって」「まだ噂だろう」「商会が動くときは、噂の頃にはもう決まってるのさ」
バルツァー商会の名前は私も知っている。川湊の倉を三分の一は押さえている大店だ。荷が増えるほど道が要り、道が通るほどまた荷が増える。
その回り車に貴族筋の後ろ盾と御用の判が付いたのなら、これは誰かの意地悪でも気まぐれでもない。銭の理屈で転がってくる岩だ。理屈で来るものは、泣き落としでは止まらない。
言葉は火鉢の火の粉みたいに、乾いた店から乾いた店へ飛び移っていく。魔石を替えに来た客が世間話のついでに落としていき、パンを届けに来た小僧が拾って帰る。夕方までに、路地じゅうの空気が半音だけ低くなった。
午後に来た仕立て屋のおかみさんは、ランプの石を替えるあいだじゅう戸口の外を気にしていた。引っ越すにも銭がいるんだよ、と誰にともなく言って、直ったランプを抱えて帰っていく。その背中に掛ける言葉を、私はまだ持ち合わせていなかった。
預かる品は今日も変わらず直っていくのに、そのむこうにある暮らしのほうが先に軋みはじめている。
その夕方、私はダリア婆さんの乾物屋にいた。竈の隣の大きな火鉢が、朝から機嫌を損ねているという。
「送りの管ね。粉が湿気てるんじゃなくて、詰まってる」
火鉢の腹の蓋を開けて粉魔石を送る細い管を抜き、光にかざす。管の内側に、燃え残りの滓がびっしり張り付いている。近ごろ卸される粉魔石は質が荒れていて、燃え滓が多い。
冬で入り用が増えると、決まってこういう粉が出回るのだ。細い刷毛を通すと、黒い滓がぱらぱらと新聞紙の上に落ちた。
「値は上がるくせに、質は下がる。嫌になるね」
ダリア婆さんは店先の床几に座って、豆を選り分けながらこちらを見もしない。けれどその指はいつもより速い。
「婆さん。噂、聞いた?」
「聞いたよ。あたしの耳は路地の耳より早いんだ」
豆が笊の中で鳴る。選り分ける手は止まらない。
「50年前にもあったのさ、似たような話が。あの時は川向こうの染物町が消えた。跡地は倉が三つ建って、終わり。人がどこへ行ったかは、誰も帳面に書きゃしない」
「……ここも、消えるの」
「消させないよ」
初めて婆さんの手が止まった。
「あたしはここの大家だ。店賃を取るってことは、ここで暮らしていけるようにする義理を負うってことさ。噂ごときで店子に荷造りさせるほど、安い大家をやった覚えはないね」
言い切って、婆さんは豆をひと粒放って口に入れた。乾いた音が小気味よく鳴る。あたしも昔は流れ着いた口だからね、と付け足した声は、豆の音より少し柔らかかった。
この人がこの路地を守るのは顔役の意地ではなく、もっと古い借りの返済なのかもしれない。私は管を火鉢に戻し、送りの弁を開けて粉に火を入れた。ぼ、と柔らかい熱が立ち上がって、店の空気がひと回りゆるむ。
直せる詰まりなら、いくらでも直せる。問題は図面の上から降ってくるものが、刷毛の届かないところにあることだった。
店に戻ると、床で金槌の音がしていた。
ピコが四つん這いになって、床板に釘を打っている。それも一本や二本ではない。継ぎ目という継ぎ目に、釘の頭が行儀よく並んでいた。
「……何をしてるの?」
「補強」
振り向きもしないで言う。
「立ち退きってのはさ、店を持ってかれるんだろ。だから釘で留めとく。ついでに鈴の紐も三重にしといた。あれが取れたら姉ちゃんの店、開かなくなるからな」
軒先を見ると、錆びた鈴が荷造り紐でぐるぐる巻きに固定されていた。風が吹いてももう鳴れそうにない。笑ってしまってから、少しだけ喉の奥が痛くなった。この子は本気なのだ。持っていかれないように釘で。
「ピコ。鈴は鳴るのが仕事だから、紐は一重にしましょう」
「……鳴っても、飛んでかない?」
「飛んでかない。あの鈴はうちで一番の古株よ」
夜更けに土間を確かめに降りると、ピコの枕元に風呂敷包みがひとつ、きちんと結ばれて置いてあった。着替えと、親の形見の布包みと、たぶん硬くなったパン。いつでも背負って走れる形に整えられた、小さな逃げ支度だった。
この子が路地で独りだった頃の癖だ。屋根を借りたら、追い出される日の支度をしておく。うちに住み着いてから、そんな包みはとうに解いたはずだったのに。噂ひとつで、手が勝手に昔へ戻ってしまう。
ピコは寝息を立てている。私は包みをほどかなかった。ほどく資格が今夜の私にはない。大丈夫よ、と言い切れる証文を、私はまだ一枚も持っていないから。代わりに自分の毛布を持ってきて、丸まった小さな背中に重ねた。
「……姉ちゃん?」
「起こしちゃった? ごめんなさい」
「……店、なくなるのか」
「なくならないように、大人がこれから知恵を絞るの。婆さんも、私も」
暗がりの中で、ピコがもぞりと動いた。
「おれも絞る。釘なら、まだ打てる」
「頼りにしてる。でも床はもう十分だから、次は寝ること」
小さな笑い声がして、じきに寝息へ変わった。土間には打ちたての釘の匂いがうっすら残っている。噂はまだ噂だ。それでも今夜の錆び横丁は、昨日より確かに傾いで感じられる。
床板の釘の頭が暗がりでも足の裏にわかる。ピコが打ったちっぽけな錨のうえで、この店は今夜も眠る。
次話:「店じまいなんて言葉は覚えたくない」




