第20話「二人がかりでも、直らないものがある」
朝いちばんに触れた軒先の鈴が、指を刺すほど冷えていた。吐く息が白い。錆び横丁に、霜の季節が来たのだ。
冬の修理屋は忙しい。夜が長くなると灯りの魔石の減りが早く、取り替えの客がひきもきらない。土間の火鉢に粉魔石をひとつまみ焚き、私は朝から魔石座の緩みを締めては、使い切った石を新しい固体魔石に入れ替えていく。
かじかむ指はいけない。ねじをひとつ落とすたび、拾う腰から冷えが染みてくる。
昼下がり、戸口の光がふいに翳った。顔を上げると、ヴィムが立っていた。
「あんたには、貸しがある」
挨拶より先にそれだった。ぜんまいの一件だ。私が安請け合いでしくじった仕事を、あの人の腕が救ってくれた。いつか取り立てが来ると覚悟はしていたけれど、まさか自分から出向いてくるとは。
「返してもらうぞ。……手を、貸せ」
手伝ってくれ、とは意地でも言わないらしい。俯きがちの目が路地の向かい——自分の店の奥の方角を指している。私は火鉢の灰を払って立ち上がった。断る理由なんて、どこを探してもありはしない。
その晩から、金物屋の奥が私たちの仕事場になった。
夜の金物屋は底冷えがする。炉の残り火で店の奥だけがほの赤く、表を夜回りの足音が通り過ぎていく。工具を持つ手を時々火鉢へかざしてはまた籠へ戻る。その繰り返しで夜が更けていった。
埃よけの布を外された星籠は灯りの下で見るとなお気が遠くなる代物で、真鍮の骨組みに刻まれた星図を指でなぞっては、私はため息をつくばかり。仕事は分けた。骨組みと金具はヴィム、魔導線と魔石の座は私。
錆を拭い、たわんだ吊り糸を張り替え、外れかけた硝子の珠を星の位置へ戻していく。珠は指先で包むと嘘みたいに軽くて、息を止めないと扱えない。ヴィムの大きな手が、その細工を私より器用にあしらうのだから恐れ入る。
「じいさんの図面だ」
三日目の晩、ヴィムが作業台に古い紙束を広げた。端が茶色く波打って、余白まで書き込みで真っ黒だ。珠の目方、線の太さ、石の等級。
字は几帳面なのに、隅のほうに子どもの落書きめいた星の絵が躍っている。この几帳面な字の主は、きっと笑いながらこれを描いたのだろう。図面の上の小さな星に、私は思わず頬がゆるんだ。
ピコは毎晩覗きに来た。星が点くところをおれは絶対に見るんだと言い張って、隅の木箱に陣取って——四半時もすると必ず眠りこける。毛布を掛けてやるのが私の役目で、担いで帰るのがヴィムの役目になった。
おっさんの肩は寝にくい、と翌朝に文句を言うのだから、いい度胸だと思う。
七日目の晩、機構が組み上がった。
骨組みの内側に、硝子の珠が星図のとおりに浮かんでいる。珠のひとつずつに米粒ほどの魔石を嵌め、中心には光をくばる心臓——図面が主珠と呼ぶこぶし大の珠を据えた。魔導線は一本残らず張り終えて、座の緩みもない。
あとは動力の石から送りを開けば、この籠の中に夜空が降るはずだった。
「開けるぞ」
ヴィムの指が送りの均し輪にかかる。かちり、と最初の刻み。
珠がいっせいに薄く灯った。
木箱のピコが跳ね起きる。私は声も出せずに骨組みの中を見つめた。硝子の珠のひとつずつに、ほのかな光の芯が生まれて——生まれて、それきりだった。ふ、と蝋燭を吹き消すみたいに光が引いて、あとには冷えた硝子だけが残る。主珠は目を開けもしなかった。
「……線か?」
「張りは全部見ました。座も」
それから幾晩も私たちは同じ夜を繰り返した。
線を張り替える。座を磨く。石を選び直す。図面と首っ引きで珠の目方を量り直す。どこにも悪いところは見つからないのに、送りを開けるたび、光は生まれかけては引いていく。機構は組み上がっているのだ。それなのにこの籠は、夜空になる一歩手前で毎晩息を止めてしまう。
「送りを、もう少し開けてみたら」
ある晩、私は言った。最初の刻みのままでは、主珠まで力が届いていないのかもしれない。理屈としては素直な思いつきのはずだった。
均し輪にかけたヴィムの指が止まった。
ほんの一呼吸ぶん。それから指は輪を離れて、工具を布の上へ戻しはじめた。
「……今夜はここまでだ」
その手つきは職人の判断というより、何かから目をそらす人の速さに似ていた。送りを開ける。力を流す。
大きな仕掛けが目いっぱいに力を呑み込む、その瞬間を——あの人の手は、まだどこかで赦していないのだ。式典の夜に暴れた大仕掛けと人の悲鳴と。あの記憶の上に立って、この人は毎晩ここまで来ている。
誰が悪いわけでもない。そういう傷の癒えかたを急かす言葉を私は持っていない。
十幾晩めかの夜、私たちはとうとう工具を置いた。
ヴィムが火鉢に粉魔石を足して、生姜湯をふたつ作った。生姜の香りが油の匂いを割って立ちのぼる。欠けた湯呑みの熱が、ささくれた指に染みた。星の入らない籠のそばで、油だらけの手がふたつ、同じ形にくたびれている。
「うちの棚にもね」
湯気の向こうで私は言った。
「どこも悪くないのに、鳴らない箱があるの。分解も組み直しも、何十回したかわからない。歯もばねも、欠けてなんかいないのに」
「……知ってる」
ヴィムは籠を見たまま、短くそう返した。壁一枚の隣人だ。私が夜中に何を開けて、何を諦めて仕舞い直しているかくらい、灯りの消える刻限でわかるのかもしれない。
「直らねえもんを前にしてる時の顔だ、と思ってた。リーゼ、あんたの店で時々な」
「お互いさまでしょう」
「……そうだな」
生姜の辛さが喉の奥で小さく灯って、私たちはそれきり黙った。敗北の夜のはずなのに、不思議と背中は丸まらない。直らないものをひとつ抱えて生きるのがどういうことか、この人は知っている。
私も知っている。鳴らない箱と、点かない星籠と、口の重い職人がふたり。冬の夜のまんなかで、それはずいぶん悪くない取り合わせに思えた。
「明日も来ていい?」
帰りぎわに戸口で振り向いて訊くと、ヴィムは籠に布を掛けようとして——掛けずに、畳んで作業台の端に置いた。
「貸しは、まだ返しきれてねえだろ」
直らない夜がまたひとつ増えて、それでも布は畳まれたまま。私は襟元に顎を埋めて少し笑い、路地を三歩だけ渡った。
次話:「居場所がぐらりと傾く」




