第19話「師匠の忘れ物はまだ眠っている」
ことの起こりはピコの好奇心だった。子どもの好奇心というのは猫より始末が悪い。
その日、私はヴィムに借りた大やっとこを返しに、ピコを使いにやった。置いてくるだけよ、寄り道しないで。そう念を押したのに、この子は前々から、隣の金物屋の奥に鎮座する謎の布のかたまりを気にかけていたらしい。
しばらくして、隣から派手な物音と、ヴィムの怒鳴り声が響いた。慌てて暖簾をくぐると、店の奥でピコが崩れた鉄材の山に埋もれて、しりもちをついている。そのかたわらで——人の背丈ほどもある大きな布が、半分ずり落ちて、下のものを晒していた。
息をのんだ。
布の下から現れたのは、見たこともない魔導具だった。真鍮と硝子でできた、大人がふたりで抱えるほどの球体。細い骨組みが幾重にも交差して、その内側には無数の小さな硝子の珠が、蜘蛛の巣のような魔導線で吊られている。
珠のひとつひとつに、米粒ほどの魔石の座。まだ石は入っていない。未完成のまま、途中で時が止まったように、それは埃よけの布の下で眠っていた。
近づくと、真鍮の骨組みには髪ほどの細さで、うっすらと線が刻まれているのがわかった。北の空をめぐる七つ星。南に横たわる大河。
秋のひし形。夜空の地図がそっくりそのまま金属の上に写しとられている。硝子の珠はその星のひとつずつと同じ位置に吊り下がっていた。
石を灯せば、屋根の下に、本物の星空がまるごと降りてくる。そういう仕掛けなのだと見ただけで知れた。気の遠くなるような、途方もない根気の結晶だ。
ひと目で、それが並の道具でないともわかった。骨組みの精緻さ、魔導線の走らせかたの緻密さ。作った人がどれほどの夢をこれに込めたか、未完成の骨組みからでも痛いほど伝わってきて、私は指先が痺れるような心地がした。
「ピコ、けがはない?」
抱き起こすとピコは半泣きで「ごめんなさい、おれ、見るだけのつもりで」と震えている。ヴィムが大股でこちらへ来て——けれど、怒鳴りはしなかった。ずり落ちた布を拾い上げ、もう一度かけ直そうとして、その手を途中で止める。
長いあいだ、あの人はその球体を見下ろしていた。それから、ぼそりと言った。
「……師匠の、忘れ物だ」
ヴィムの師は王宮魔導具工房でいちばんの腕と謳われた職人だったという。この球体——「星籠」と呼んでいたそれは、師が生涯をかけて作ろうとした、最後の作品。屋根の下に、本物の夜空を降らせる。
そんな途方もない仕掛けだという。師はこれを完成させないまま、病で逝った。あとを託されたのが、弟子のヴィムだった。
「じいさんは、いつも言ってた」
ヴィムがめずらしく自分から口をひらく。夜空を見上げられない人間がいる。牢の中の者、寝たきりの病人、坂の下から出られない年寄り。
そういう連中の天井に、星を灯してやりたいんだ——師は、そう言っていたのだという。忘れたふりをして、あの人は師の夢を、ひとことも忘れていなかった。
「俺が継いで、仕上げるはずだった。……できなかった」
あの式典の事故のことだと私にはすぐわかる。ヴィムが手入れした大型の魔導具が暴走して、人が傷ついた。あの日から、あの人は自分の手を信じられなくなり、大きな仕掛けには二度と触れられなくなった。
師の最後の夢を仕上げる資格が自分にはない。そう思い決めて、この星籠を布の下に眠らせたまま、小さな鍋や包丁ばかりを直して生きてきたのだ。
私はその球体から目が離せなかった。触れられないのに捨てられない。忘れたいのに、埃だけは払い続けてしまう。
——知っている。私の棚の奥にもそれとそっくりな沈黙が、毛布にくるまれて眠っている。あの人にとっての星籠が、私にとってのオルゴールなのだと、いつか胸のうちで思ったことがあった。
今、それが目の前で、埃よけの布を半分脱いで私を見返している。
私はそっと手を伸ばして、吊られた硝子の珠のひとつに触れた。指の腹で転がすと、珠の内側で、光を受けるための細工がきらりと角度を変える。見れば、吊り糸の一本がたわんで、珠がひとつ傾いて垂れていた。
私は無意識に、その糸をつまんで張りを整えてやる。傾いた珠がすっと水平を取り戻した。——直して、しまった。
手のほうが勝手に動いている。壊れたものが目の前にあると、頭で考えるより先に指が伸びてしまう。この1年で、すっかり染みついた癖だ。
ヴィムの視線を感じて、私は慌てて手を引っこめる。
「ヴィム。これ、私にも……」
手伝わせて、と言いかけた私を、ヴィムはさえぎった。
「よせ。……これは、俺の荷物だ」
そう言ってから、あの人は硝子の珠を見つめて、低く付け足した。
「リーゼ。あんたの手は、いい手だ。だからこそ、こんな古い夢に巻き込みたくねえ」
巻き込みたくない、と言いながら、あの人の目は私が張りを直したあの珠をじっと追っていた。誰かの手がもう一度この星籠に触れた。その事実がヴィムの中で長く閉じていた何かを、かすかに軋ませたのがわかる。
私だって、同じだ。あと一歩で夜空になるはずだった夢を、いちど覗いてしまったら、もう見なかったことにはできない。胸の奥が指先が疼いて仕方がなかった。
それでも私はそれ以上は言わなかった。無理にこじ開けないこと。この横丁に来て、私が覚えたことのひとつだ。
けれど、布をかけ直すヴィムの手つきは、今日はいつもより名残おしそうに見えた。半分だけ姿を見せた星籠が、また布の下へ沈んでいく。眠りにつく、というより——起こされるのを待っているように私には思えた。
店に戻って、私は棚の奥のオルゴールをそっと膝にのせた。直せない箱と仕上がらない星。似た者どうしの沈黙が、路地を挟んでひとつずつ。
……あなたも起きたい? 鳴らない箱に尋ねてみても返事はない。それでも今夜はその沈黙が、前ほど寂しく感じられなかった。
同じ荷物を抱えた人が、この路地に、もうひとりいると知ったから。
次話:「二人がかりでも、直らないものがある」




