第17話「隣に立てなかった人の、後ろ姿」
数日後の夕方、私は御用の魔導灯の、最後の仕上げにかかっていた。返書はもう、あの使いの者の手で坂の上へ運ばれている。
燭台のかたちをした、王宮の品だ。枝分かれした7本の腕の先に、蝋燭ではなく小さな魔石の灯をともす造りになっている。長年の煤で鈍った反射板を、綿と灰でひと拭きずつ曇りを落とし、擦り切れた魔導線を一本ずつ張り替えていく。
銀の照り返しが戻るにつれて、店の薄暗がりが、腕の一本ごとに明るんでいった。6つ目の腕までは、魔石を据えるそばから、なんの淀みもなく灯が点っていく。7つ目の魔石を座に落とそうとしたそのとき、店の入り口で、床板の軋む音がした。
振り返って、私は手を止めた。
濃紺の外套。けれど今度は胸に星獅子の徽章がない。従者も連れず、フードを目深にかぶって、その人はひとりで立っていた。影の下から覗く顔は、記憶よりずいぶんやつれている。テオバルト。第二王子。かつて、私の隣に立つはずだった人だ。
工具を持つ手は今日は滑らなかった。1年前、あの紋章を見るだけで指を震わせていた私はもういない。私は魔導灯を作業台に置いて、油の匂いのする手を前掛けでぬぐった。
「……いらっしゃいませ。壊れたものの、ご相談ですか」
修理屋の挨拶を、私はこの人にも選んだ。テオが痛みをこらえるような顔をする。
「突然、すまない。使いをやるべきだとわかってはいたが……手紙を読んで、どうしても自分の足で来たくなった。アッシュフォード嬢。……いや」
彼はそこで言い直した。
「リーゼ。少し、話をさせてもらえないか」
私は客用の木の椅子をすすめた。テオは腰かけるのをためらってから、結局その粗末な椅子にぎこちなく座った。磨かれた宮廷の調度に慣れた人だ。
煤けた梁も油じみた作業台も、彼にはさぞ見慣れないものだろう。それでも彼は部屋を値踏みするような目をしなかった。かわりに、まぶしそうな目で、私の並べた工具ばかり見ている。
「あの夜のことを、詫びに来た」
テオは膝の上で両手を組んで、言葉を選びながら話した。あの断罪の場で、自分はどこかに違和感を抱えていたこと。おまえがあんなことをする人間か、と胸の底で問う声があったこと。
けれど大臣たちの居並ぶ気配と父王の視線が、その声に蓋をさせたこと。動かぬ証拠を前に、自分はとうとう口をつぐんでしまったこと。
「私は、怖かったんだ。あの場で君を庇えば、私自身の目が疑われる。第二王子の分別が問われる。……その保身が、正しさより重かった。隣に立つべき場所にいながら、私は一歩も動けなかった」
声が途中で掠れた。この告白を口にするのに、この人がどれだけの時間を要したか、その掠れかたで知れる気がする。
「あの夜から、幾度も同じ夢を見た。あの場でひと言、『待て』と言えばよかっただけの夢だ。たった一言。それが、どうしても言えなかった」
この人は昔から、正しさを重んじる人だった。だからこそ、正しくあれなかった自分を、誰より許せずにいるのだろう。婚約者だったころ、私はこの人の生真面目さを、少し退屈にすら感じていた。
今ならわかる。生真面目でいることと、いざというとき勇気を出せることはまるで別のものだ。正しさを知っているのと正しく振る舞えるのとのあいだには、あの大広間の床くらい、渡りにくい距離がある。
テオはその距離の前で立ちすくんだまま、1年を過ごしてきたのだ。
私はすぐには答えなかった。灯の消えた魔導灯を手のなかでゆっくり回す。
「謝ってくださったことは、受け取ります。……でも、なかったことには、できません」
テオの肩がこわばる。私は続けた。もう恨みで眠れない夜はないこと。あなたを憎んではいないこと。けれど、あの夜に失ったものは戻らないし、戻すつもりもないこと。私はもう、この路地で生きているのだということ。
「あなたに赦しを差し上げれば、あなたは楽になるのでしょうね。でも——それは、あなたが自分の足でやり遂げることです。私に肩代わりさせては、あなたはまた、いちばん楽なほうへ逃げてしまう」
言ってから、少しきつすぎたかと思った。けれどテオは殴られたような顔をしたあとで、ふっと、泣き笑いのような表情になった。
「……君は、強くなったな」
「いいえ。弱いまま、隠れる場所を見つけただけです」
テオはしばらく黙って、それから立ち上がった。もう一度、私をここへ連れ戻すための言葉を、彼はきっと用意してきたのだろう。それを、飲み込んだのがわかった。かわりに彼はこう言った。
「君の名誉は、正しい筋道で回復させる。君が戻ってこないと、わかっていてもだ。それは、君のためというより——」
「あなたが、正しくあるために」
私が引き取ると、テオは少し驚いた顔をして、それから深くうなずいた。初めて、彼の背筋がまっすぐ伸びたように見える。
戸口で、テオは振り返らなかった。振り返らないことが、たぶん今日の彼にできる、精いっぱいの誠実だった。フードをかぶり直し、坂を上っていく背中を私は見送る。
かつて私の隣に立てなかった人が、今、自分の足で自分の坂を上っていく。その後ろ姿は来たときより、ほんの少しだけまっすぐに見えた。彼のこれからは彼のものだ。
私が振り付ける筋書きはもうどこにもない。
入れ替わりに、ピコが表から滑り込んできた。夕餉の使いに出していたはずが、籠の中身は芋がふたつだけ。途中で引き返して、外の樽の陰で聞き耳を立てていたらしい。
「姉ちゃん、今の誰だ? えらく上等な靴はいてた」
「昔の、知り合い」
「ふうん。……あのひとさ、来るとき坂の下で迷ってたぜ。錆び横丁の修理屋はどこかって聞くからさ、案内賃に銅貨1枚もらっといた」
「ピコ!」
「なんだよ! あの靴なら銀貨って言わなかっただけ、ありがたいと思ってほしいね」
第二王子から案内賃をせしめた子は、この国広しといえども、この子くらいのものだろう。想像したらこらえがきかず、私は声を出して笑ってしまった。胸の底に残っていた重たいものが、笑い声と一緒にほどけて出ていく。
ピコは訳がわからないという顔で、芋の入った籠を抱えたまま口を尖らせていた。
芋の残りを買い直しに行かせてから、私は作業台へ戻った。手のなかの魔導灯には、まだ7つ目の灯がともっていない。冷えた真鍮を膝に抱え直し、張り替えたばかりの魔導線の端を、指の腹で丁寧にならしていく。
ほんのわずかな毛羽立ちも、光の通り道では滞りになる。だから、ここは念入りに。整えた線の端を接点にあてがい、魔石を座へそっと落とした。
かちり、と小さく嵌まる。次の瞬間、7つ目の腕にぽっと灯が咲いた。先に灯った6つの光と溶けあって、7つの粒が、磨きあげた反射板の上でやわらかく重なりあう。
夕闇の店がふいに明るくなる。この7つの灯はいずれ王宮のどこかの部屋を照らすのだろう。同じ場所へ帰る灯りを、私は帰らずに送り出す。
壊れたものを直して、送り出す。それが隣に立てなかった誰かにも坂を上る力をいくらか分けられたのなら——今日の仕事は、灯り7つぶんより、ほんの少しだけ大きかった気がした。
次話:「許すより先に、お茶を淹れましょう」




