第16話「帰る場所はもう決めてあります」
返事を書く前に、私は棚の奥から、あの箱を下ろした。
古い毛布をほどくと、手のひらふたつぶんの木の小箱が現れる。蓋には母が彫った唐草の細工。金具はとうに私が磨きあげて、傷ひとつない。
私は癖で、蝶番に一滴だけ油をさし、ゆるんでもいない留め金を締め直した。何度そうしても鳴らないと知っていて、それでも手が、この箱の世話をやめられない。母が死んだあの日から、この箱は沈黙している。
この箱の中身なら、私がいちばんよく知っている。何度も裏蓋を開けて、音を刻む円筒も小さな櫛も香箱のぜんまいも、ぜんぶ検分してきた。どこも壊れていない。
歯車は噛み合い、ばねは生きて、櫛の歯も欠けひとつない。それなのに鳴らない。壊れていないものを、どうやって直せばいいのだろう。
修理屋になって1年、よそさまの魔導具は数えきれないほど直してきたのに、この問いにだけはいまだに答えを出せずにいる。指の腹で蓋の唐草をなぞると、母の彫り跡のわずかな深浅が伝わってくる。ここを彫っていたときの母の手つきを、私はまだ、覚えている。
私はためしに想像してみた。この箱を絹の風呂敷に包んで、坂の上の、磨き抜かれた廊下を運んでいく自分を。侯爵家の令嬢の私室に、油と鑢の匂いのするこの箱を置く自分を。
——似合わない。どうしたって、似合わない。あの世界では母のこの手仕事は「はしたないもの」だった。
父はそれを嫌い、私と母は小部屋に隠れて、こっそり工具を握った。戻るというのはこの箱をもう一度、毛布の奥へ隠すということだ。
それはどうしてもできそうにない。
箱を膝に抱えたまま、私は今朝の路地の音を聞いていた。井戸の滑車、乾物屋の呼び込み、パン屋の香ばしい湯気。ピコが表で近所の子と何か言い合っている。
壁の向こうから、規則正しい槌の音。——ここには私を家名で値踏みする声がない。壊れたものを抱えて、私を頼ってくる人がいる。
母の手仕事を隠さなくていい。
毛布に箱を戻していると、ピコが表から駆け込んできた。近所の子と喧嘩でもしたのか、頬をふくらませている。私の顔を見るなり、あの書状のことを思い出したらしく、急に気まずそうに言葉を引っ込めた。ゆうべから、この子はずっと私の顔色をうかがっている。
「ピコ。魔石の粉、切らしそうなの」
「……ふうん」
「冬のあいだは魔石が要り用になるもの。あとで一緒に、ヴィムさんのところへ買いに行きましょう。少しずつ、蓄えていかないとね」
冬のあいだ、と言った瞬間、ピコの顔がぱっとほどけた。冬も蓄えるということは、冬もここにいるということだ。子どもはそういう言葉の裏を大人より早く読む。
「……しょうがねえな、付き合ってやるよ」とわざとらしくそっぽを向いたが、その足はもう井戸端へ水を汲みに跳ねていた。
午後、魔石の粉を仕入れに隣を訪ねた。ヴィムは炉の前で、私が返事を書いたかどうか聞きもしない。だから私のほうから切り出した。
「王宮へは、戻らないことにしたの」
槌の音が一拍だけ止まった。ヴィムは炉に鉄を差したまま、こちらを見ずに言う。
「……そうか」
よかったともばかだとも、あの人は言わなかった。けれど次に鉄を打つ音が、心なしか軽くなった気がした。ヴィムは炉から離れ、抽斗から粉魔石の袋を取り出して、小さな秤で量りはじめる。
細かな青い粒が紙の上でさらさらと小さな山を作った。冬のあいだ、竈も火鉢もこの粉をよく食う。あの人はいつも私が頼んだ量より少しだけ多く紙に落とす。
多いと言えば「目分量だ」と返ってくるのがわかっているから、私はもう指摘しない。粉を包んでよこすとき、ヴィムはいつものように「あんた」とは言わなかった。
「持ってけ。冬は魔石を食う。——足りなくなったら、また来い。リーゼ」
リーゼ。あの人が私の名を呼んだ。初めてだった。
長いこと「あんた」だった呼び名がふいに名前に変わって、私は一瞬、返事のしかたを忘れた。なんでもない、二文字の名前。それなのに、油と炭の匂いのするその声で呼ばれた自分の名が、やけに手ざわりよく胸に落ちる。
私は「ありがとう、ヴィム」とだけ返して、粉を抱えて店へ戻った。頬がまだ少し火照っている。
その夜、私は御用の柱時計の隣で、テオへの返事をしたためた。
久しぶりに握る羽根ペンが、指の間で妙によそよそしい。かつては一日に何通も、招待状の礼だの見舞いの言葉だのを、澱みなく書いていた手だ。今はもう、工具のほうが手になじむ。
蝋燭の芯がじじと鳴って、便箋のうえで炎の影がゆらめく。向かってみると、恨み言も皮肉も、不思議なくらい浮かんでこない。1年前はあの人の裁きの言葉を一生忘れまいと思っていた。
憎み続けることこそが、失ったものへの手向けなのだ、と。けれどいざ筆を走らせると、胸にあるのは、もっと凪いだ何かだった。
お心遣いに感謝します。沙汰の見直しが正しく行われるなら、それは亡き母の名にとって何よりのこと。けれど、そのために私が戻る必要はありません。
私はもうアッシュフォードの娘ではなく、錆び横丁の修理屋リーゼとして、帰る場所を決めてあります。——そう書いて少し迷ってから、最後にもう一行だけ添えた。あなたもどうか前を向いて。
過ぎたことは過ぎたこととして。
封をしながら、私は気づいた。あの夜のことを思い返しても、もう指先が冷えなくなっている。断罪の記憶は消えない。消えないまま、少しずつ、遠い岸辺の出来事のようになっていく。憎しみで縛りつけておかなければ、思い出はちゃんと過去になっていくものらしい。
返事はあの使いの者がまた顔を出したときに渡せばいい。急がないと言ったのは向こうのほうだ。御用の柱時計はもう直り、魔導灯もじきに仕上がる。
もっとも王宮府の御用は断っていないから、壊れた道具はこれからも坂を下りてくるはずだ。あの世界と私をつなぐ糸は、貴族の名ではなく、修理の腕で結び直された。それくらいの細さが、私にはちょうどいい。
書き終えた便箋を胸に抱えて、私は開けはなした戸口から、坂の上の夜空を見上げた。かつて私のいた丘は、今夜も遠くで灯りをともしている。きれいだと思う。
もう、まぶしくはなかった。帰りたい場所はあの光の下ではない。振り返れば、私の店の小さな軒灯が、路地の闇にぽつんと点っている。
私の帰る場所はもう、ちゃんとここにある。
次話:「隣に立てなかった人の、後ろ姿」




