第15話「戻っておいで、と風が言う」
その日、坂の上から王宮の荷が届いた。
先の使者が言い置いたとおり、御用の品が木箱に納められて運ばれてきた。飴色の柱時計と、燭台のかたちをした魔導灯。どちらも王宮のどこかの部屋で、長いこと時を刻み、長いこと人を照らしてきた品だ。
私は木箱を店の隅に据え、まず柱時計の背板を開けた。歯車には宮廷の職人らしい几帳面な刻印が並んでいる。かつて暮らした家にも、こういう道具のこういう匂いがあった。
懐かしさは鼻の奥から不意打ちにやってくる。
荷を運んできた者たちが引き上げると、入れ替わりに地味な身なりの男がひとり、店の前に残った。使いの者と名乗ったその人が、懐から書状を一通取り出し、両手で私に差し出す。封蝋は星獅子ではなく、月と剣を組んだ、見覚えのある個人の紋。心の臓がひとつ大きく打った。
テオバルト。第二王子。かつて私の婚約者だった人の、個人の印だ。
使いの者は「お返事は、急ぎませぬ」とだけ言い置いて、坂を上っていく。私は油で汚れた指を前掛けでぬぐい、それでも封を切るのをためらった。中身は開ける前からなんとなく知れる気がする。
書状の文字は記憶にあるより少しだけ乱れていた。あの人はいつも手本のような字を書く人だったのに。噂に聞く錆び横丁の修理師の名が、まさかと思って人をやって確かめた、と綴られていた。
あの夜の裁きは早計だったのではないかと、長く悔いてきたこと。今からでも名誉を回復し、アッシュフォードの娘として貴族籍へ戻れるよう、自分が力を尽くすこと。そして最後の一行に、印の乱れた字でこう添えてあった。
「戻ってきてほしい。」
その一行を私は何度も読んだ。
正直に打ち明ければ、心が動かなかったといえば嘘になる。けれど私を揺すぶったのは、温かい湯でも柔らかな寝台でもなかった。名誉の回復。
その言葉が指すのは、私ひとりの名ではない。アッシュフォードは、母が嫁いで、母がそのまま逝った名でもある。娘が罪人のままでいるかぎり、母は「罪人を育てた侯爵夫人」として社交界の記憶に残りつづける。
母さまの名前が私のせいで俯いたままでいる。それを起こしてやれる道があると言われて、何も感じないほど、私は強くできていない。
けれど、と思う。あの世界で私はいつも、誰かの後ろから聞こえる声で家名を値踏みされていた。母と二人、油の匂いのする小部屋にこもっていたあのひとときだけが、息のつける場所だった。戻るというのはあの息苦しさの中へもう一度帰るということでもある。
物思いにふけっていると、店の隅からピコの声がした。いつのまにか帰ってきていたらしい。作業台の上の、上等な封蝋の書状を、この子はじっと見ている。
「姉ちゃん……その手紙、王宮の、えらい人の?」
「そうよ」
「姉ちゃん、どっか行っちゃうの」
豆を口に運ぶ手を止めて、ピコは上目づかいに私を見た。子どもの勘は鋭い。私が答える前に、ピコは目をそらした。「べつに、おれ、どうでもいいけど」そう言ってそそくさと奥へ引っこんでしまう。どうでもいい、と言うときのこの子がいちばん不安なのを、私はもう知っている。
その晩、乾物屋のダリア婆さんが、頼みもしないのに味噌の壺を抱えてやってきた。ついでのようにして、封蝋の紋をちらりと見やる。
「ずいぶん、たいそうな客が続くじゃないか」
「……ええ。ちょっと、返事に困る用向きで」
婆さんは壺を作業台に置いて、私の顔をしばらく眺めた。それから、いつもより低い声で言う。
「お嬢ちゃん。あんたがどこの生まれで、なんでここにいるのか、あたしは聞かないよ。聞かないと決めて店を貸した。……けどね、行くも残るも、あんたが決めることだ。まわりの顔色で決めるんじゃないよ」
突き放すようで、その実、いちばん優しい言いようだった。まわりの顔色で決めるな。それはつまり、この人自身も、私に行ってほしくない側の顔色をそっと隠しているということだ。
翌朝、道具を返しにヴィムがやってきた。木箱の御用の品を見て、それからまだ作業台に置いたままの書状の封蝋に目を留めた。星獅子ではない個人の紋を、あの人は正しく読んだらしい。
「……戻るのか」
ぶっきらぼうな声だった。私が「まだ、決めていないの」と答えると、ヴィムはしばらく黙ってからぼそりと言った。
「あんたの手は、もうここの仕事を覚えちまってる。宮仕えの令嬢に、その油染みは戻せねえぞ」
行くなという意味なのか、ただの憎まれ口なのか。あの人らしく、どちらとも取れる言いかたを残して、ヴィムは炉へ戻っていった。
その夜、私は御用の柱時計と向き合った。止まった原因は心臓部の脱進機だ。時を一定に刻ませるための爪が、長い年月ですり減って、歯車を送りきれなくなっている。
宮廷の職人が組んだだけあって、部品のひとつひとつに惚れ惚れするほど無駄がない。私は摩耗した爪を外し、手持ちの鋼から寸法の近いものを選んで、やすりで少しずつ形を似せていく。刃先の角度を、光にかざしては確かめ、また削る。
指先が油と真鍮のあいだで、昔の手つきをひとりでに思い出していった。
こういう上等な道具を、私は幼いころ、母の隣でいくつも覗き込んだ。屋敷の時計係が留守のあいだ、母は面白がって時計の背板を開け、私に歯車の名を教えてくれた。脱進機、香箱、天符。
舌を噛みそうなその名を、私は歌のように覚えたものだ。あれが私の手仕事のいちばん最初だった。戻れば、この手はまた、こういう道具ばかりに囲まれるのだろう。
けれど、隣で歯車の名を教えてくれる声はもうどこにもない。
削り出した爪を据え、振り子を吊って魔石を新しくし、時計を壁に立てかける。ひと呼吸おく。こち、こち、と規則正しい音が動きだした。狂いのない、行儀のいい時の刻みかた。止まっていた歳月などなかったかのような、涼しい顔の音だ。
戸を閉めるとき、深まりはじめた秋の風が路地を吹き抜けた。乾いた葉を巻き上げて、坂の上の、私がかつていた方角へ流れていく。戻っておいで。風がそう言っているように聞こえた。戻っておいで、昔のおまえの場所へと。
私は棚の奥へ目をやった。古い毛布にくるまれた、鳴らないオルゴール。母の形見のあの箱だけは、坂の上のどの部屋にも似合わない。似合わないものを抱えて行くのか、それとも残るのか。答えの出ない夜の隅で、風だけがいつまでも路地の屋根を鳴らしていた。
次話:「帰る場所はもう決めてあります」




