第14話「あなたのせいだと、言えたら楽なのに」
閉店間際の客にはふた通りある。日暮れに追われた急ぎの客と、敷居をまたぐ覚悟に日暮れまでかかった客だ。
その日の店じまいどき、戸口に立った人影は、あきらかに後のほうだった。
夕暮れの路地はもう秋の色をしはじめている。私は軒のカンテラを外して、膝の上で直しているところだった。夏のあいだ働きづめだった軒灯は、魔導線が疲れて、灯りがまたたくようになっていた。
日が短くなるこれからは、この子が店の顔になる。笠を開いて細い線を一本ずつ確かめていた指が——戸口の気配で止まった。
地味な外套に目深なフード。既視感に、うなじのあたりがひやりとする。けれど今度の客は、香水の匂いをさせていなかった。かわりにフードの縁から金の巻き毛がひと房こぼれて、その人は消え入りそうな声で言った。
「あの……こちらに、リーゼ様は、いらっしゃいますか」
様、と呼ぶ人はこの横丁にいない。フードの影の顔を確かめるより先に、記憶のほうが答えを出していた。震えがちで、やわらかで、いつも誰かの後ろから聞こえてきた声。
ソフィア・メルダース。男爵家の令嬢。あの夜、大広間でシャンデリアのいちばん近くにいた、もうひとりの人。
「……いらっしゃい。壊れたものの、ご相談ですか」
私は修理屋の挨拶を選んだ。それ以外の挨拶を、まだ選べる気がしなかった。
フードの下の顔は、記憶より少し痩せて見える。ソフィアは敷居の内側で立ちすくんだまま、私の顔と油で汚れた手とを交互に見て、それから堰を切ったように頭を下げた。
「ご無事で……ご無事でいらしたのですね。わたし、わたし……」
「立ち話もなんですから、そこの椅子へどうぞ。あいにく、お茶を切らしているのだけれど」
動転している人には、座る場所と待つ時間があるといい。私は膝の上のカンテラに目を戻して、手を動かしつづけた。指先に仕事があれば、声は勝手に落ち着いてくれる。
魔導線の疲れた箇所を爪の先で探りながら、ソフィアが言葉を見つけるのを待った。王宮で私の噂を聞いたこと。まさかと思いながら、確かめずにいられなかったこと。
ここまでの道を、供も連れずに歩いてきたこと。とぎれとぎれの話を、カンテラと一緒に聞いた。
「リーゼ様。わたし、申し上げなければならないことがあって……あの夜のことです。建国祭の、あの、シャンデリアの……」
来た、と思った。手の中で、鑷子の先がわずかに重くなる。
「あの夜、先に手を触れたのはリーゼ様ではなくて、わたし——」
「ソフィア様」
私はその先を、落ち着いた声で塞いだ。
「その先は、口になさらないで」
「で、でも……! でしたらせめて、王宮に本当のことを。わたしが証を立てれば、リーゼ様の汚名は……」
「そうしたら、今度はあなたが失う番です」
鑷子を置いて、私はまっすぐにソフィアを見た。王家の宝を壊した罪。それがどれほどの重さか、身をもって知っている人間がここにいる。
婚約と、家名と、生まれ育った世界をまとめて持っていく重さだ。あの夜の私にはそれを受け止められるだけの理由があった。守りたい秘密があって、あの世界への未練が、こわいくらいに軽かった。
けれどソフィアは違う。この人の後ろには家があり、家族がいて、この人自身のこれからがある。
「わたしのせいで、リーゼ様は、何もかも」
「何もかも、ではありませんよ」
私は作業台と、部品の棚と、膝の上のカンテラの笠を目で示した。失ったものの数なら、たしかに両手でも足りない。けれどこの1年で拾い上げたものも、もう両手には収まらない。その言いかたに嘘はなかったけれど、ソフィアの目からは、こらえていたものがとうとうこぼれ落ちた。
「どうして……どうして、わたしを責めてくださらないのですか。あなたのせいだと、罵ってくださったほうが、わたし……」
あなたのせいだと言えたら、どんなに楽か。それはたぶん、私よりこの人のほうが身に染みて知っている。責められれば償う道ができて、罵られれば頭を下げる先ができる。
赦しも罰ももらえないまま抱えた荷物は、下ろす場所のないまま1年ぶん重くなっていた。この人はその荷物を、あの華奢な肩にのせて、今日まで歩いてきたのだ。
「責める気持ちが湧いてくれたら、私も楽だったのかもしれません。……でもねソフィア様、あの夜のシャンデリアは、とっくに壊れかけていたんですよ」
魔石の座が緩んで、光がまたたきはじめていたこと。私がそれに気づいて、直したい一心で手を伸ばしかけていたこと。あれは修理師としての見立てで、あなたを慰めるための作り話ではない。
あなたの手がふれなくても、あの光はあの夜のうちに落ちていた。そう告げると、ソフィアは口元を押さえて、しばらく声もなく泣いた。
「でも……罰を受けたのは、リーゼ様おひとりです」
「黙っていると決めたのは私です。あなたに頼まれたわけではないもの。だから、あなたが私のぶんまで背負う道理はないの」
ソフィアはまだ何か言いかけて、けれど言葉にならず、膝の上で両手をきつく握りあわせた。爪が食い込むほどのその握りかたに、この人の1年の夜の長さが透けて見える気がした。
ふと、その手元に目が留まる。外套の胸元の留め金が、ねじれて曲がっている。ここまで歩いてくるあいだ、よほど強く握りしめていたのだろう。
「ソフィア様、それ。——お直しします、貸してごらんなさい」
「え? あ、あの……」
返事を待たずに、私は小さなやっとこを取り上げた。銀の留め金は華奢な作りで、ねじれた羽根を素手で戻せば折れてしまう。布を当て、根元を押さえて、少しずつ角度を返していく。
手のひらの中の仕事に目を落としているあいだは、お互い、余計なものを見ないで済む。ソフィアは泣きやんで、私の指先をじっと見つめていた。
「……昔のリーゼ様は、遠くて、少しこわい方でした」
「あら」
「で、でも……今のリーゼ様は、その……」
「近い?」
「……はいっ」
直った留め金を胸元に留めてあげると、ソフィアは泣き腫らした目のまま、ほんのすこし笑った。この人の笑った顔を、私はあの世界で一度も見たことがなかった気がする。距離と高さでできたあの世界では、お互い、顔ではなく家名を見ていたから。
帰りぎわ、戸口でソフィアは振り返った。
「また……また、伺ってもいいですか。わたし、まだ、言えていないことが」
「ええ。——今度は、壊れたものでも持って」
言えていないことのほうは、聞かなかったふりをした。いつかこの人が言わずにいられなくなる日が来たら、そのときは、この人自身のために言えばいい。私のためには言わせない。それが庇った者の最後の意地というものだ。
ソフィアが夕闇の坂を上っていく。私は直したばかりのカンテラを軒に戻して、魔石に念を通した。ひと呼吸だけ大きくまたたいてから、灯りは何事もなかったように点りつづける。その明かりは小さな背中が角を曲がって見えなくなるまで、ちゃんと届いていた。
次話:「戻っておいで、と風が言う」




