第13話「懐かしい紋章が扉を叩く」
その朝、坂の上で馬車の音が止まった。
錆び横丁の路地は狭くて、馬車は入ってこられない。だから身なりのいい客は坂の上で馬車を捨てて、歩いて降りてくる。けれどその足音は、今までのどの客とも違っていた。革の長靴の、硬くて迷いのない歩調。従者をひとり連れて、その人は私の店の前でぴたりと止まった。
そのとき私は隠居のヨナじいさんの魔導時計と向き合っていた。文字盤の針が一日に半時も遅れるようになった、年季の入った振り子時計。亡くなった連れ合いと店を構えた記念に買った品なのだと、じいさんは照れくさそうに話していた。
振り子の魔石座を開けて、弱った石を替え、歯止めの爪を磨き直す。地道で、手ざわりのいい仕事の最中だった。
濃紺の外套に、旅塵ひとつない襟元。年のころは父と同じくらいだろうか。役人らしい油断のない目が、看板と私とを順に検分した。
「こちらに、リーゼという名の修理師がおられると伺ったが」
「……私ですが」
男が外套の前を軽く開いた。胸元で、銀の徽章がひとつ光る。星を抱いた獅子の紋。
手にしていた鑷子が、指の中でわずかに滑った。
考えるより先に、体のほうが覚えていた。あの紋章は王家のもの。大広間の垂れ幕に織られ、玉座の背にも彫られていた。そして1年前のあの夜——断罪の言葉を聞く私を、幾つもの旗の上から見下ろしていたのもこの獅子だ。
「王宮府から参った。……取り込み中かな」
「いえ。どうぞ」
声が上ずらなかったのは、手の中に仕事があったおかげだ。私は直しかけの魔導時計をそっと台に置いて、油で汚れた手を前掛けでぬぐった。使者は店の中を——部品の棚も、煤けた梁も——値踏みするでもなく眺めてから、用件を切り出した。
王宮の魔導具の、修理の御用である。
王宮には古い工法の魔導具が数多くあり、王宮工房だけでは手が回らない。ついては市井の腕利きにも御用を頼みたい。さる方の推挙もあって、錆び横丁のリーゼの名が挙がった——使者の口上は、そういう筋のものだった。
さる方、という言葉に、すみれの香水の匂いがふっと鼻の奥によみがえった。あのお忍びの貴婦人は、いったい何者だったのだろう。
「品はいずれ、こちらへ運ばせる。仔細はその折に。受けてもらえるかな」
受けてもらえるかな、と言いながら、男はすでに懐から書状を出していた。封蝋には胸元と同じ星獅子の紋。答えを疑ってもいない手つきだった。
断りたい。喉の奥まで、その言葉は出かかっていた。王宮はかつて私が立っていて、追われた場所だ。
近づいていいことなど何ひとつない。けれど同時に、断ったあとのことも頭をよぎる。王宮府の御用を袖にした路地裏の修理屋。
役人の心証ひとつで、この横丁ぜんたいに睨みが利くようになる。ダリア婆さんの乾物屋にも、ヴィムの金物屋にも。それに、ろくな理由もなく固辞すれば、かえって問われるだろう。
おまえは何者だ、と。
空になった蓄えの瓶が、頭の隅をかすめたことも白状しておく。けれど頷いた理由はお金ではなかった。
「……つつしんで、お受けします」
「結構」
男は書状を作業台に置き、来たときと同じ迷いのない足取りで坂を上っていった。従者の靴音が遠ざかって、路地はいつもの音を取り戻す。荷車の軋み、井戸の滑車、乾物屋の呼び込み。何も変わっていないのに、作業台の上の封蝋だけが、別の世界の色をしていた。
「姉ちゃん、いまの誰? すっげえ偉そうだった」
「王宮の、お役人」
「王宮ぅ!?」
ピコの声が裏返る。王宮の仕事なんてすごいじゃん、と跳ねまわる声を聞きながら、私は書状に手を伸ばせないでいた。かわりに、落ち着かない手をヨナじいさんの時計に戻す。
歯止めの爪をひとつ磨くごとに、指先から順にいつもの私が帰ってきた。仕事はいい。仕事だけは私が何者かを問わずにいてくれる。
夕方、借りていた道具を返しに来たヴィムが、作業台の封蝋に目を留める。彼はしばらく黙っていたがやがて低く言った。
「……星獅子か。受けたのか」
「断れる空気じゃなかったの」
「だろうな。あそこの御用は、断るときのほうが力が要る」
それきりヴィムは何も言わなかった。けれど戸口を出るとき一度だけ振り向いて、「妙だと思ったら壁を叩け」と言い残していく。壁一枚向こうにあの人がいる。その事実が今夜はいつもより頼もしかった。
日暮れどきにはダリア婆さんまで顔を出した。噂の早さは相変わらずで、「王宮のお使いが来たんだって?」と店先の床几にどっかり腰を下ろす。事の次第を話すと、婆さんは腕を組んでしばらく唸っていた。
「……気をつけな、お嬢ちゃん。上の連中はね、路地の人間を道具みたいに使うんだ。嫌なら嫌って言うんだよ。横丁のことなら、あたしがどうとでもする」
どうとでもする、の中身は聞かないでおいた。けれどその言葉で、肩のこわばりがすこしほどけた。この路地には私の帰る店と、気にかけてくれる人たちがいる。1年前の私にはどちらもなかったものだ。
夜、私はようやく書状をひらいた。御用の口上が形式どおりに並ぶだけで、品目も日取りも書かれていない。修理師リーゼ殿、とだけ宛名にある。
リーゼロッテでも、アッシュフォードでもなく。向こうは私を知らないのか。それとも知っていて知らぬふりをしているのか。
封蝋の獅子はどちらとも答えなかった。
気づけば、開けはなした戸口から入る夜風がうっすらと冷たい。祭りのころの、肌に貼りつくような夜気はいつのまにか抜けて、風の底に乾いた葉の匂いが混じりはじめていた。夏が終わろうとしている。過去に追いつかれないように駆けてきた1年の、その先の季節が来る。
作業台の隅で、直したばかりの魔導時計がこちこちと律儀に時を刻んでいる。止まっていてほしいと思う時間ほど、正しく進んでいくものらしい。
次話:「あなたのせいだと、言えたら楽なのに」




