第10話 これまでの話に何度も出てきた日本の四人。東洞・南涯・榕堂は師と子と弟子の線でつながり、湯本だけは一冊の本から入ってきた。
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第10話 閑話休題B 東洞から湯本まで
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「これまでの話に、日本の四人が何度も出てくるでしょう」
「東洞、南涯、榕堂、湯本」
「湯本は東洞を褒めたり叱ったりするし、南涯に味方して榕堂を退けたりする」
「誰が誰の何なのか一度ちゃんと並べたい」
「今日はそれをやろう。私の側の人たちだから私が話すね」
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■吉益東洞 1702〜1773
東洞は安芸の国(今の広島県)の人だ。30代で、『傷寒論』と『金匱要略』を基にした自分の医学をつくった。
東洞の考えは「万病一毒」。病はただ一つの毒から成る。病の原因や病の名は要らない。目当ては毒で、毒の多くは腹の中にあり、腹を診ればつかめる、と。
「腹を診て証を決めて、証に処方を当てる」
「陰陽五行のような途中の理屈はどうでもいい、とまで言った人なの」
講義をした花輪壽彦は、東洞が出てから、日本の漢方は伝統の理論によらず、処方と証を対にする「方証相対」を主とするようになった、と言う。
『類聚方』は、『傷寒論』と『金匱要略』の220の処方の条文を処方ごとに並べ直し、自分の意見を添えた本だ。
「第9話の、合病の説は医者の仕事じゃない、っていう一言」
「病の名は要らない人ならそう書きそう」
■吉益南涯 1750〜
南涯は東洞の子だ。長男と言われることが多いが、実は千之助という兄がいて、4歳で亡くなった。次男の南涯が跡を継いだ。東洞が1773年に亡くなったとき、南涯は24歳だった。
南涯は気血水の説で知られる。南涯自身は、気血水の弁は自分の新しい説ではなく、傷寒論の書はみなこれによる、と書いた。父の万病一毒の旨にも背かない、とも。
「毒は一つで形が無い。それが気・血・水のどれかに乗って病を起こす」
「父の説を補う形にしたのね」
旧い門人からは万病一毒に背くと批判された。それでも臨床で役に立ち、多くの支持を得た。門人は3000人を超え、その一人に華岡青洲がいる。
「気血水って今の日本漢方でも使う言葉だよね」
「講義をした矢数芳英は、南涯の気血水は今の気血水とは違う、と言ってる。病の状態と薬と処方を分ける物差しに使ったから」
「中医学の気・血・津液とも混ぜないのよね」
「混ぜない。第8話で湯本が南涯に味方したのは、去芍薬の読みのほう」
■尾台榕堂 1799〜1870
榕堂は越後の国、今の新潟県十日町市の医者の家の4番目の子だ。13歳で麻黄湯を出して、祖父に「でかしたり」と褒められた。
師は尾台浅嶽。浅嶽は東洞の弟子の岑少翁に学んだ人だ。
「東洞から見ると孫弟子のさらに弟子」
「講義をした寺澤捷年は、榕堂が最晩年の岑少翁に直接教わったとも考えてる。そこは寺澤さんの考証」
浅嶽が江戸の大火で亡くなり、榕堂は夫婦で尾台家の養子に入って跡を継いだ。『類聚方広義』は1853年に書き、1856年に出版した。同じ1853年には、東洞の『薬徴』の写本を校べ直している。
「第7話から引いてる『類聚方広義』の中に、東洞の『為則按』もそのまま入ってたね」
「東洞の本に榕堂の頭注が重なってる。OCR だと、どこからが頭注か分けにくかった」
晩年には榕堂の弟子の多くが蘭方に移った。その嘆きが『方伎雑誌』に残っている。
■湯本求真 1876〜1941
湯本は石川県七尾の人で、1901年に金沢医学専門学校を出て医者になった。
医者になって10年ほどたったころ、疫痢で3歳の長女と、祖父母を2か月のうちに失った。『皇漢医学』の序文に、学んだ医術の頼りなさを恨み、何か月も悩み、心が乱れかけた、と書いている。
そのとき読んだのが和田啓十郎の『医界之鉄椎』だ。湯本は和田に弟子入りを願う手紙を送った。和田の返事は、弟子にはしないが、同じ道を歩く同志としてなら教えよう。蔵書を送り、手紙でやりとりした。二人は一度も会わないまま、和田は1916年に亡くなった。
「一度も会っていない師」
「それで『皇漢医学』を書いた。1927年から28年」
講義をした秋葉哲生は、『皇漢医学』を、日本の漢方のあり方を長く決めた基本の資料と呼ぶ。
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■並べてみる
◇吉益東洞
生まれと没年:安芸 1702〜1773
誰とつながるか:弟子に岑少翁ら
この読み物で出た本:類聚方
◇吉益南涯
生まれと没年:京都 1750〜
誰とつながるか:東洞の次男
この読み物で出た本:(湯本の引用で、第8話)
◇尾台榕堂
生まれと没年:越後 1799〜1870
誰とつながるか:東洞→岑少翁→尾台浅嶽→榕堂
この読み物で出た本:類聚方広義
◇湯本求真
生まれと没年:石川 1876〜1941
誰とつながるか:和田啓十郎の本から
この読み物で出た本:皇漢医学
「湯本だけ東洞からの線がつながってない」
「講義には、湯本と三人を結ぶ師弟の線は出てこない。湯本は和田の本から入った」
「なのに『皇漢医学』では、東洞を褒めたり叱ったりして、南涯と榕堂の説も並べてる」
「本で会ったってことね」
「南涯の没年が空いてる」
「今回の講義には書いていなかった。わからない所は空けておく」
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「東洞は腹、南涯は気血水、榕堂は頭注、湯本は全部まとめて実験」
「最後のは言いすぎじゃない?」
「言いすぎ。湯本が茯苓を実験で確かめたって書いたのは、第8話の一か所だけ」
「じゃあ、湯本は本で三人に会った人、にしておこう」
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第10話 まとめ
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■覚えておく四人
◇吉益東洞
年:1702〜1773
一言:万病一毒。腹を診て証を決め、方証相対へ。類聚方
◇吉益南涯
年:1750〜
一言:東洞の次男。気血水(今の気血水とは違う)
◇尾台榕堂
年:1799〜1870
一言:東洞→岑少翁→尾台浅嶽の線。類聚方広義(1853 著・1856 刊)
◇湯本求真
年:1876〜1941
一言:和田啓十郎『医界之鉄椎』から漢方へ。皇漢医学(1927〜28)
■わかっていること
・東洞・南涯・榕堂は、親子と師弟の線でつながる。湯本と三人を結ぶ師弟の線は、今回の講義には出てこない。
・南涯の気血水は、病態・薬物・処方の分類に使ったもので、今の気血水とは違う(講義)。中医学の気・血・津液とも混ぜない(この読み物の決まり)。
■まだわかっていないこと
・南涯の没年(今回の出典に無い)。
・榕堂が岑少翁に直接学んだかどうか(講義の話し手の考証)。




