第五話 家族四人
鍵を最後まで回した。
ドアが開く。玄関のたたきに、男物の革靴と女物のパンプスが一足ずつ並んでいた。
リビングに人はいない。ローテーブルの上で、スマホが二台、並んで光っていた。
「……忘れていったのね、二人とも」
「二人一緒に?」
伯母さんがお義母さんの顔を見た。
2階で、何かがドアに当たる鈍い音がした。続いて、掛け金の落ちる小さな金属の音が一つ。
お義母さんが、廊下の真ん中で両腕を広げた。
「はい、もう見たでしょう。家は見たんだから、ホテルに戻りましょう」
「伯母さん、まだ売ってない新型で、座った人の体重まで量れるんです。ご覧になります?」
「さっきの38万の? 見る見る」
伯母さんが階段に足を掛ける。お義母さんがその前に回りこんだ。
「トイレなんか見てどうするのよ」
「新しい機械を見るくらい、いいでしょ。どいて、文乃」
伯母さんが上がり、私が続いた。親戚が一人ずつ狭い階段に列を作り、入りきらない人は玄関と門の外で待っている。
2階のトイレのドアは、廊下側へ引いて開ける。伯母さんがノブを引いた。
開かない。もう一度引くと、内側から引き戻す力が返ってきた。
「中に人が?」
「まさか」
お義母さんの声が、階段の途中から上がってくる。
「まさかって、今、引っぱり返されたよ」
*
手の中のスマホが震えた。
『便座変形の進行を検知。保護モードを起動しますか』
初めて見る画面だった。「起動する」を押すまでに、3秒かからなかった。
画面の下に、提案の時刻と起動の時刻が、二行並んで記録される。
ドアの向こうで、何かが噴き出す音がした。続いて、温風の唸り。
「止めて!」
女の悲鳴だった。
「おい、何だよ、これ」
押し殺した男の声。
廊下にいた全員が、同じドアを見た。
「今の、絵津子さんの声よね。男の声もした」
「何でトイレに二人で」
「雄介くん? いるの?」
「大丈夫? 開けて」
誰かがドアを叩く。返事はない。
「……修理をしてるのよ」
ドアの内側から、お義姉さんの声がした。
「動かないで、動くと余計に固まる!」
後ろの誰かが、スマホを構えた。
*
財布から、表面のくすんだ十円玉を出した。ドアノブの下に、非常解錠の溝がある。
お義母さんが、私の手首に飛びついた。
「開けないで!」
「お義母さん、どうして開けてはいけないんですか」
「私がだめと言ったらだめ!」
十円玉を溝にはめて、回した。カチ、と掛け金の外れる手応えがある。
ノブを引く。中から押さえる手があった。
伯母さんと、後ろにいた親戚の男性が二人、ノブに手を添えた。
「せーの」
ドアが開いた。
二人は便座の上にいた。どちらも、服が乱れていた。
便座の縁から白いフォームが盛り上がり、下ろした服の裾を噛んでいる。
脱げば立てる。50人の前では、脱げない。
雄介は片手で顔を隠していた。もう片方の腕は、まだお義姉さんの体に回ったままだ。
「あんたたち……トイレの修理?」
後ろで、誰かが吹き出した。
「義理の弟と兄嫁で、修理? 脱いで修理?」
「宗悟が死んで何年だ。兄貴の嫁の面倒を、自分の懐で見てたのか」
お義姉さんが裾を直そうとした。噛まれた布に引っぱられて、また便座に座り直す。
雄介が顔から手を離して、私を見た。
「お前が仕組んだな! 便座に何をした!」
「私が何を。あなたたちこそ、どうして二人でうちの便座に」
「誤解です。壊れたから、ちょっと見てもらってただけで」
「ベルトを外して修理するの?」
お義母さんが、親戚を押し分けて戸口に入ってきた。
「撮らないで。家の中の話よ。撮らないでってば」
私は狭いトイレに一歩入った。
雄介の頬に、平手を一発。
「死んだお兄さんに、顔向けできるの」
「家族の冗談よ、こんなの」
「息子と長男の嫁が脱いで冗談? 派手な家だね」
*
大人の脚の間から、小さな頭が出てきた。
大樹くんが、伯母さんのスカートの横をすり抜けて、戸口に立っていた。
「パパ、どうしてまたママと一緒にこのトイレに座ってるの? この前も、ぼくに外で待っててって言ったよね」
「また」のところで、廊下の声が止んだ。
お義姉さんが裾に引かれながら身を乗り出し、大樹くんの口を手で塞いだ。もう遅かった。
「大樹……今、パパって。宗悟の子じゃないの」
大樹くんは母親の手から顔を振りほどいた。
「おばあちゃんが、人がいないときだけパパって呼んでいいって」
「悪いおばさんが家をおばあちゃんにあげたら、一緒に住めるって」
私はしゃがんで、大樹くんの肩に手を置いた。
「大樹くん、下に行こうか」
肩を押して、階段を一段ずつ下りる。親戚が壁際に寄って、通り道を空けた。
玄関を出たところに、伯母さんの娘さんがいた。
「少しだけ、お願いします」
「うん。大樹くん、おばちゃんとお庭にいようか」
私は何も聞かずに、2階へ戻った。
お義母さんは、トイレの戸口の柱をつかんで立っていた。
「今日の家は、お義姉さんのためだったんですね」
「違う。子どもの言うことよ。子どもは何でも」
お義母さんは最後まで言わなかった。
*
手洗いカウンターの上に、小さなスマホが一台置いてあった。庭先で、雄介が内ポケットから出していたものだ。
手に取ると、画面が点いた。パスコードの入力画面が出る。
雄介の顔が、少しだけ緩んだ。画面の上の端では、小さな顔のマークが点滅している。
雄介は首をひねって、顔を壁へ向けた。
私はスマホを手に持ったまま、何もしなかった。雄介の顔にも、体にも触らない。
廊下で誰かが言った。
「雄介くん、何で壁見てんの」
「見せられないもんでも入ってんのか」
雄介の肩が震えた。首が、こちらへ戻ってくる。
「お前が仕組んだな!」
振り向いた顔に、手の中の画面が反応した。鍵のマークが外れる。
メッセージのアプリを開いた。一番上のスレッドの登録名は「絵津子」で、その下の番号は9836で終わっていた。
画面を、戸口の伯母さんたちのほうへ向ける。
『お母さんの還暦の日に、あの女を追い出す』
伯母さんが、画面と、便座の上のお義姉さんを見比べた。
LINEに切り替えた。トークの一覧に、『家族四人』というグループがある。
メンバーは三人。雄介、絵津子、文乃。
指で送って、雄介の名前の吹き出しで止めた。
『家の名義が変わったら、あなたと息子はここへ』
前の列の誰かが、声に出して読みかけてやめた。
「あなたと息子って……」
「絵津子さんと、大樹くんのこと?」
もう少し下へ送る。
『子どもに人前でパパと呼ばせるな』
伯母さんが、階段のほうを振り返った。玄関の外に、大樹くんがいる方向だ。
最後に、もう一つ。
『カメラは抜いた』
「カメラって、この家の?」
画面を消さずに、そのまま持っていた。
*
廊下の目が、一つずつお義母さんへ移っていった。
「返しなさい。それは、うちの」
お義母さんが、私の手のスマホに飛びついた。伯母さんが、その前に立った。
「還暦の贈り物が欲しかったんでしょ。これが、お嫁さんからの贈り物よ。親戚50人に見届けてもらって、これ以上の還暦祝いがある?」




