第六話 送った便座
フォームの固まった便座は、二人を乗せたまま本体から外すしかなかった。
二人にバスタオルが掛けられる。電源コードを抜く前に、便座が最後の音声を流した。
『定格荷重を超えています。お一人でご使用ください』
伯母さんが、階段の手すりにもたれて息を吐いた。
「38万の価値はあったわ」
担架の上から、雄介が私を見ていた。
「お前が仕組んだんだ」
救急車が二人を乗せて、路地を出ていく。ドアが閉まる直前に、雄介がもう一度言った。
「これで済むと思うな」
一時間後、警察官が二人、家に来た。
「黒岩美里さんですね」
「はい」
2階のトイレと、外された便座の跡と、脱衣所の棚に置いた接着剤のチューブを、一つずつ写真に撮っていく。
お義母さんはその後ろに立っていた。さっきまでの青い顔に、少し血の気が戻っている。
「息子に何かあったら、あんたは刑務所よ」
「傷害の通報がありまして。署のほうで、お話を伺えますか」
「この人、中に二人いるって知ってて、接着剤を塗って機械を動かしたのよ! 50人が見てるんだから」
「それに、叩いたじゃない!」
「伺います」
鞄の中には、ひびの写真と長峰さんの書面が入っている。
警察が来ることは、接着剤を買った時から分かっていた。
*
署の待合の壁時計は、秒針の音が大きかった。
小さな部屋に通された。刑事が、現場の写真を机に並べる。
「便座を直したのは」
「私です」
「接着剤を買ったのは」
「私です」
「保護モードを起動したのは」
「私です」
「ご主人を叩いたというのは」
「はい、一度」
「それは、被害届が出れば別に」
「分かりました」
「なぜ、便座を直したんですか」
スマホを机に置いた。ひびの写真には、撮影した日時と場所が残っている。
次に、長峰さんの書面を開いた。指で示したのは、使用中止の一文と、保護モードの確認が出る条件と、フォームが人体に無害だという一文だけだった。
最後にログ。提案が出た時刻と私が起動を押した時刻の間は、3秒。
「技術者から使用中止と言われていた。それなら、なぜ使用禁止にしなかったんですか」
「通常機能は止めました。写真も、技術者に送っています。夫には、明日の昼までは座らないで、と言いました」
廊下のほうから、お義母さんの声がした。
「知っていたくせに!」
刑事は廊下を見なかった。
「起動する前に、中にいるのが誰か、確かめましたか」
「誰が入っているかは、確かめていません。便座が割れると警告が出たから、保護モードを入れました。夫には、使わないでと言いました。割れるのを、見ていればよかったんですか」
二人だと思っていたことは、聞かれなかったので言わなかった。
その夜のうちに、ハルセラの品質保証と開発の担当者が、本体は家から、二人から外された便座は病院から引き取っていった。長峰さんからの連絡で、それを知る。
刑事が立ち上がった。
「今日のところはお帰りいただいて結構です」
廊下に出ると、お義母さんが長椅子から腰を浮かせた。刑事はそちらへ向き直った。
「現時点で、故意をうかがわせるものはありません」
「親戚を連れてきて、恥をかかせたのよ!」
「ご親戚に家を見せたことと、傷害とは別の問題です」
*
タクシーで家に戻ると、門の前にお義母さんが先に着いていた。手に、紙を一枚持っている。
「名義を変えて、治療費の200万を払いなさい。そうしたら、雄介には被害届を出させないでおくから」
紙を受け取って、目の前で二つに裂いた。重ねて、もう一度裂いた。
「息子さんたちが壊したのは、うちの会社の38万円の試作機です。請求書は、息子さんに届きます」
「……何よ、それ」
「おやすみなさい、お義母さん」
私は玄関の鍵を回して、中に入った。
*
その夜、居間のテーブルで、保存した画面を一枚ずつ見直した。
あの日、前の列に見せたあと、私は雄介のスマホを遡りながら、自分のスマホで画面を撮っていた。
一枚目。日付は、3か月前の火曜。
『あの子は火曜いない。息子を連れて泊まりなさい』
送り主は、お義母さんだ。出張の予定表と並べて、フォルダに入れた。
二枚目。リビングのカメラの、電源プラグが抜かれた写真。
『抜いた』
送り主は、雄介だ。カメラが落ちた時刻と、同じ日付で保存した。
三枚目は、贈与契約書のデータと、お義姉さんの一言。その下に、お義母さんの返信が一つ。
『先に受け取って、それから息子へ』
『あなたは賢いわね』
同じ画面のまま保存した。
37件のログ、カメラが落ちた二つの時刻、出張の記録、親戚から送られてきた動画。それも同じフォルダに入れた。
*
雄介が退院してきたのは、4日後だった。食卓の向かいに座った雄介に、離婚の話をした。
「いつから」
「……6年になる。兄貴が、まだ生きてたころから」
「そう」
「魔が差したんだよ」
「6年も、魔が差し続けたの?」
雄介は湯呑みを両手で持った。中身は空だった。
「大樹のためだったんだ。あいつには、父親が要るだろ」
「あなたの子だから」
「美里と結婚したときは、本気だった。本当に。でも、あの人が一人で子どもを抱えてて、放っておけなかった」
「どうして、私だったの」
雄介は答えなかった。湯呑みの底を見ていた。
「両親がいない。家がある。仕事がある。兄弟がいない。それで私を選んだ」
*
あの日の動画は、親戚のグループにいくつも流れた。お義母さんは50人に一人ずつ電話をかけて、消してほしいと頼んで回ったらしい。
家は、父が建てて私が継いだまま、私の名義だ。瓦一枚、向こうへは渡らない。
雄介からお義姉さんへ流れたお金は、数百万になった。
「黒岩さんの口座から出た分は返還を、ご主人のお給料から出た分は財産分与の中で、不貞の慰謝料はご主人と相手の女性に、それぞれ求めていきます」
弁護士はそう言って、書類を揃えた。
「お願いします」
翌月、離婚届を出した。
38万円は、雄介の側が払った。ハルセラは便座を点検して処置を済ませ、現物の扱いを私に確認してくる。
私はアプリの登録を解除して、同じ便座を雄介の住所へ送った。
送り状の控えをしまった翌日、お義母さんから電話が来た。受話口の向こうで、誰かを怒鳴りつける声がする。
「38万もしたのに、このバカ息子が」
雄介は、会社であの日の話が広まって、居づらくなって辞めた。
*
その冬、お義母さんがうちに来た。雄介が起訴されたあと、判決が出る前で、相手の男性に払う示談金を貸してほしいという。
お義母さんは、玄関の上がり框に座って泣きながら話した。
二人は還暦祝いの3か月後に、式も結納もなしに籍を入れた。籍を入れる前に、二人は鑑定を受けたらしい。
雄介はあの日の怪我で、しばらく通院していたそうだ。半年も経たないうちに、お義姉さんは雄介に冷たくなった。
出張のはずだった夜、雄介が予定を切り上げて帰ると、玄関に男物の靴があった。トイレから笑い声がして、便座が『定格荷重を超えています』と言ったという。
中にいたのは、お義姉さんと若い男だった。
「出張じゃなかったの」
誰だ、いつからだ、と雄介は聞いたという。
「取り調べ? 夫婦に信頼もないの?」
私に言った言葉だ。
「あんたが私に隠れて来たのと、何が違うの。あんたとは、もう無理」
雄介は、木の椅子を振り上げたのだという。男は腕に怪我をし、お義姉さんも怪我をした。
近所の人が通報して、雄介は逮捕され、起訴された。
お義母さんは占い師に、あの子は便器と相性が悪いと言われて、あの便器を叩き壊したという。
あとで、判決が出たと聞いた。お義母さんは田舎の家を売って、示談金を払ったという。
大樹くんは、母親と一緒に暮らしている。
*
お義母さんが帰ったあと、脱衣所で手を洗った。
父が選んだ洗面台の木の縁に、濡れた手を置く。
二人が籍を入れてから裏切るまで、半年だった。




