第三話 明日の昼まで
翌日の昼、お義母さんから電話が来た。
「明日、還暦のお祝いをするから。駅前のホテルに50人」
「50人、ですか」
「田舎のみんながね、還暦なら一回くらい都会でやれって言うのよ。お彼岸のあとで、ちょうど集まりやすいし」
「田舎からバスを一台借りて、みんなで出ていくの。こっちの親戚も呼んだから。料理もお酒も、一番いいのにしてちょうだい」
「明日は土曜ですね。雄介は知ってるんですか」
「あの子にはとっくに言ってあるわよ。あんたが最後」
お義母さんは50歳のときから毎年、誕生会を開いている。支払いは、毎年うちだった。
「お金は、どなたが」
一秒、電話の向こうが黙った。
「あんた、私が年に何回60歳になると思ってるの」
「一回です」
「その一回に、ちょっと出してって言ってるだけでしょう。あんな広い家に住んで、二人で働いて」
「子も産めないくせに、お金を墓まで持っていく気?」
私は返事をしなかった。受話口の向こうで、お義母さんがひとしきり誰かに聞かせるような声を出し、それから急に調子を変えた。
「いいわ。宴会は私が出す」
「ありがとうございます」
「そのかわり、あんたはそれなりの贈り物を用意して。うちの還暦なんだから」
「何がよろしいですか」
「明日になれば分かるわよ」
「明日、ですか」
「絵津子さんなんか、金のブレスレットをくれるって。あの子は気が利くからね」
電話はそれで切れた。
*
2階のトイレへ上がって、便座をよく見た。
蝶番の脇に、髪の毛ほどの細いひびが入っている。指でなぞると、爪がわずかに引っかかった。
アプリを開いて、ログの最後の行を確かめる。火曜の朝から記録は増えず、37回のままだ。
一人で座るぶんには、まだ持つだろう。3か月で37回、130kgを受け止めてきた便座だ。
アフターサービスの番号を出して、親指を発信ボタンに乗せた。
そこで止めた。
明日、私が家を空けている間に、あの重さはまた来るだろうか。
ホームセンターで接着剤を買った。帰ってきて便座を半分まで外し、そこで手を止める。
ひびの写真を撮った。撮影日時と位置情報が残る設定のまま、開発部の長峰さんに送る。
返信は一時間ほどで来た。
『便座が変形しています。使用を中止してください。異常荷重が続き、便座変形の進行を検知した場合、登録ユーザーに保護モードの確認が表示されます。』
『速硬化フォームで便座の裂け目と蝶番を仮固定し、破断による怪我を防ぐための機能です。フォームは人体に無害で、温水で除去できます。』
『固まった状態からの取り外しには時間がかかるため、現場での除去には専用液を用います。通常機能を停止しても、荷重監視と保護通知は作動します。』
『ご自身で補修しても、点検前には使用を再開しないでください』
「分かりました。ありがとうございます」と返して、画面ごと保存した。
*
その夜、自分で補修した。
外しかけた便座を戻し、ひびに接着剤を流す。一層では薄い気がして、乾くのを待ってもう一層重ねた。
補修後の写真も撮った。見た目では、ひびがどこにあったのか分からない。
アプリから通常機能を停止する。洗浄も温水も止まり、荷重監視の表示だけが残った。
「何してんだよ、こんな時間に」
戸口に雄介が立っていた。
「便座にひびが入ってたの」
「ひび? アフター呼べばいいだろ。自分の会社のなんだから」
「ひびが入ったら、接着剤で留めるものでしょう」
「そういうもんか」
「明日の昼までは座らないで」
「下のトイレ使えってこと?」
「そう。明日の昼まで」
「はいはい」
雄介は戸口から動かなかった。
「それで、明日の贈り物は? 母さん、楽しみにしてるみたいだけど」
「お義母さんは、明日になれば分かるって」
「……ふうん。ならいいけど」
「何か聞いてるの?」
「別に。母さんの考えることなんか、俺に分かるかよ」
雄介はあくびをして、寝室へ戻っていく。
接着剤のチューブの口を拭いて、キャップを閉めた。
私は賭けた。
来なかったら、月曜にアフターを呼ぶだけだ。
*
脱衣所で手を洗った。
指に残った接着剤が、石鹸ではなかなか落ちない。
タオル掛けのタオルから、洗濯表示のタグが一枚はみ出していた。
洗面台の縁に手を置く。父が選んだ木の縁は、蛇口のそばだけ色が浅くなっている。
廊下の向こうで、2階のトイレのドアが閉まったままになっていた。
明日の昼には乾く。




