第二話 9836
37件のログを、仕事用ではないメールアドレスに送った。送信済みの表示を確かめたところで、雄介からメッセージが届く。
『早く寝ろ。変なこと考えるな』
変なことを考えているとは、一言も言っていない。
荷物をまとめ、まだ暗い駐車場から車を出した。家に着いたのは、5時を少し過ぎたころだ。
通りの家はどこも暗い。うちだけ、2階の窓が明るかった。
車庫には、雄介の車が入っている。300km先の実家にいるはずの人の車だ。
玄関を開けると、木の靴べらがいつもの釘に掛かっていた。
「ただいま」
階段を下りてくる足音がした。
雄介はもう着替えていて、髪が濡れていた。
「……美里? なんで帰ってきたんだよ」
「仕事が早く片づいたから」
「明後日までって言ってただろ」
「お墓参りは?」
「済ませたよ。線香上げて手を合わせるだけだろ。夜のうちに戻ったんだ」
「早いのね」
「早くて悪いのかよ。そっちこそ、連絡くらいしろよ」
「したら、何か変わった?」
雄介は答えずに、首のタオルで髪を拭いた。
*
リビングを見回す。
玄関に知らない靴はなかった。ソファの上も、ゴミ箱の中もきれいに片づいていて、ゴミ箱には新しい袋まで掛けてある。
「カメラ、また落ちてたね」
雄介の口元から、笑いが引いた。
「俺が抜いたんだよ。それでいいだろ」
「どうして」
「スマホばっかり見て。俺を監視する気か」
雄介は自分のスマホをテーブルに放った。画面が天板に当たって、硬い音がする。
「ほら、調べろよ。LINEでも写真でも、好きなだけ見ればいい」
「いい」
「いいって何だよ。見ろって言ってんだろ」
「見なくていい、って意味」
私はスマホを見た。手は伸ばさなかった。
向こうから差し出される物は、差し出してもいい物だ。そこに何が残っていて何が消えたのか、私には確かめようがない。
「疲れたから、少し寝る」
「おい、美里。話の途中だろ」
返事をせずに、スーツケースを引いて階段を上がった。
*
寝室のベッドは整っていた。枕の位置も、出かける前と同じに見える。
ヒールを脱ぎかけたとき、爪先が何かを弾いた。
かつん、と小さな音。何かが床を滑っていった。
屈んで、ベッドの下を覗く。
親指の爪ほどの青い積木で、表に白い星が半分だけ印刷されている。うちに子どもはいない。
指でつまんで、しばらく手のひらの上で転がした。それから上着のポケットにしまう。
スマホに通知が出たのは、そのときだ。
『夫が位置を更新しました』
位置情報共有アプリ。出張や残業の多い私が運転中に返信しなくて済むように、と雄介が入れさせたものだ。
地図を開く。私の位置は、家の上に青い点で出ている。
雄介の点はなかった。設定を見ると、彼の位置は非表示になっている。
私が高速を下りたところも、この人には見えていた。
*
それから二日、何も聞かなかった。
雄介は堂々としていた。スマホを食卓に伏せずに置き、風呂にも持って入らない。
「美里、それ返信しといて。課長に、了解ですって」
「自分で打てば」
「手が濡れてんだよ」
二日目の夜、雄介は電話だと言って庭先へ出た。食卓には、彼のスマホが置いたままになっている。
窓越しに見ると、雄介は上着の内ポケットから小さなスマホを出して、耳に当てていた。
私が台所の明かりをつける。雄介はそれをポケットに戻した。
戻ってきた雄介は、私が口を開く前に言った。
「会社の予備機。急ぎの連絡が来るんだよ」
「そう」
「そうって何だよ」
「お疲れさま、って意味」
「……風呂、先に入るから」
*
翌日、雄介が出社してから、リビングのカメラの電源を差し直した。雄介には言っていない。
その夜は残業だった。9時を回ったころ、カメラのアプリが人の動きを知らせてくる。
画面の中で、雄介がソファに座っていた。手にしているのは、あの小さなスマホだ。
笑っている。付き合い始めたころ、私の向かいで見せていた顔だった。
画面を拡大した。画素が粗くなって、文字の大半は潰れる。
読めたのは、相手の番号の下4桁と、最後の一行だけ。
9836。
『お母さんの還暦の日に、あの女を追い出す。こんな日々はもう嫌』
自分の電話帳を全部めくった。9836で終わる番号は、一つもない。
お義母さんを「お母さん」と呼ぶ女を、紙に書き出した。
雄介の妹、雄介の部下でなぜかお義母さんに可愛がられている女性、従姉妹が二人。それから、お義姉さん。
お義姉さんの名前には、線を引いた。親戚の誰に聞いても、貞淑な人だと言うから。
誰であれ、その人はお義母さんの60歳の誕生日を知っている。その日に私がこの家を出ていくことも、もう決めている。
還暦の日に。




