第5話 【幕間】誰も入らない店の、最初の客
五年前、この店ができた日の話です。無許可の屋台に、三日のあいだ誰も入りませんでした。
三日目に入ったのは、二十階層から一人だけ帰ってきた十九歳です。
「時任さんって、いつからの常連なんですか」
おしぼりを置きながら、白瀬すずが聞いた。
私は湯呑みを持ったまま、少し黙った。答えを探したわけではない。答えていいかどうかを量っていた。
厨房から声がした。
「三日目だ」
「三日目? 何のですか」
黒木は答えなかった。キャベツを刻む音だけが続いている。
カウンターの端から、無色のスライムが私の袖まで寄ってきて、ぷるりと震えた。
だし、とすずが呼んでいる。この店のスライムは、人が黙ると寄ってくる。
開店から三日、この店には客が一人も入らなかった。
だから私は、三日目の客で、最初の客だ。
どちらの数え方をしても、あまり自慢にはならない。
* * *
十九階層のセーフゾーンは、広場と呼ぶには狭い。
当時の私は、その端の壁を背にして座っていた。
石が冷える。尻から順に体温を抜かれていく。寒いと思うのも、三日目には面倒になった。
私は、前を通る人間の数を数えていた。
数えるのをやめると、三人の顔が出てくる。だから数えていた。
三日で、四百七十二人が私の前を通った。誰も、こちらを見なかった。
膝の上に、配給の携行食の袋がある。
中を数えたのは、一度きりだ。四つあった。それきり、三日、開けていない。
一つは私のだ。残りは、持ち主が取りに来ない。
腹は減っていた。減っているのは分かっていた。ただ、袋の口に指をかけると、そこから先が動かなくなる。
* * *
二十階層の入口は、思っていたより明るかった。
はっきり覚えているのは、そこまでだ。
あとは順番がばらばらになっている。
誰かが私の肩を突き飛ばしたこと。後ろで金属が一度だけ高く鳴ったこと。壁の凹凸が、走るのに合わせて横に流れていったこと。
三人分の足音が、途中から聞こえなくなったこと。
私は、一度も振り返らなかった。
振り返っていたら死んでいた。それは本当だ。
今でも、後ろで金属が鳴ると、考えるより先に足が出る。
出張所の職員も、そう言った。あなたの判断は正しかった、と三回言われた。三回目で、私はその人の顔を見るのをやめた。
書類に判を押して、帰っていいと言われた。
誰も、私を怒らなかった。
* * *
地上へ上がるには、十八階から十五階の連絡路を抜けて、九階の昇降機に乗る。
上がれば、三人の家に行くことになる。
だから上がらなかった。
下りれば、それはただの後追いだ。あの時走った人間が、三日後に格好をつけて死にに行くのは、筋が通らない。
壁際には、私のほかにも何人か座っていた。
顔つきが同じだった。上にも下にも用がなくなると、人はここに溜まるらしい。それを知ったのは、ずっと後のことだ。
* * *
三日目の朝、広場の端が騒がしかった。
「あんなとこに店出しやがった」
装備を担いだ男が、連れに言っていた。
「庁の許可なんか下りるわけねえだろ。無許可だよ、あれ」
「関わるとこっちの資格に傷つくぞ」
「誰が入るかよ、あんなの」
私は、首だけ動かした。
セーフゾーンの一番奥、通路の壁にくっつくようにして、木と布でできた小屋があった。
建てたというより、置いたという感じの建物だった。
軒に、紺色の布が下がっている。
白い字で「定食」とだけ書いてあった。
店の名前も、品書きも、値段も出ていない。
あの小屋は、私が壁際に座ったその日の午後に建った。
三日のあいだ、その前を通った人間は、一人も中に入らなかった。
* * *
三日目の、たぶん夕方だ。地下に夕方はないが、体がそう言った。
私は立ち上がった。膝が固まっていて、立った拍子に一度よろけた。
そのまま、まっすぐ歩いた。
入りたかったわけじゃない。
あそこは無許可だ。入れば規則に触れる。触れれば、私に何か傷がつく。
誰も私を怒らないなら、自分で汚れるしかなかった。
十九歳の頭で考えられたのは、そのくらいのことだ。
* * *
布をくぐると、六席しかなかった。
カウンターだけの店だ。奥に厨房があって、男が一人、鍋を見ていた。
泥だらけの女が入ってきたのに、顔も上げない。
「座ってくれ」
私は、一番奥へ行った。
背中に壁が来る席は、そこだけだった。
座ると、隣に五つ空いた。
私は、そのうちの三つを数えた。
* * *
男が、ようやくこちらを見た。
二十代半ばの男だった。前髪が目にかかっていて、手拭いを首に引っかけている。
癖で、私はまず足元を見る。探索者は足の置き方で分かる。
この男の重心は、どちらにも逃げる用意がない置き方だった。地上のどこにでもいる飲食店の店員の立ち方だ。
だが、顔を見た瞬間に、私は息を止めた。
その顔を、私は知っていた。
十六の時、私は『暁』の踏破記録の映像を、擦り切れるまで見た。探索者になったのはそれが理由だ。
映像には四人が映る。剣と、槍と、盾と、術式。
その四人の後ろに、荷物を全部背負った男が、いつも一人だけ映り込んでいた。
画面の端にしか映らない男だった。字幕に名前が出たことは一度もない。
私は、主役の四人より、その男の背中のほうを長く見ていた。
なぜあの荷物が一人分の大きさに見えるのか、ずっと不思議だったからだ。
その男が、十九階の無許可の屋台で、鍋の蓋を開けていた。
* * *
言おうとした。
あなたは、と言いかけて、口が止まった。
言えば、この男はここを畳む。
理由は説明できない。ただ、そういう畳み方をしに来た人間の座り方だった。
私は、口の中でその名前を潰した。
「金がない」
代わりに、そう言った。
男は、まな板の上を片付けながら答えた。
「そうか」
「財布は、二十階に置いてきた」
嘘ではなかった。荷物ごと置いてきたのだから、財布も一緒だ。
男は、少しだけこちらを見た。
私の顔を見たのではなかった。私の首から下を、一秒だけ見た。
装備の壊れ方と、汚れの乾き具合と、たぶん、その両方が三日ぶんであることを見ていた。
「食ってけ」
「聞こえなかったのか」
「聞こえた」
男は、冷蔵箱から肉を出した。
「金は、あとで持ってくればいい。あさっても、ここでやってる」
* * *
肉が鉄板に落ちる音を、私はそのあと五年間、週に三度聞くことになる。
あの日が最初だった。
じゅう、と鳴った。
低い音だ。腹の底に届く。私は自分の腹が鳴るのを、生まれて初めて他人の前で聞いた。
男は何も言わなかった。
焼き色がついたところで、たれが回しかけられた。
そこから先は、匂いのほうが速かった。
醤油が焦げる。焦げた醤油に生姜が乗る。その二つが混ざって、鼻の奥を刺してから、上顎の裏に溜まった。
三日ぶん空けた腹に、それは暴力だった。
私は、膝の上の袋を強く握った。
* * *
皿が、目の前に置かれた。
肉と、切ったキャベツ。飯と、味噌汁。
気の利いたものは、何もない。
私は箸を取った。
取って、手が止まった。
震えていた。三日座っていた体が、いきなり命じられて、うまく動けずにいた。
一枚目を口に入れるまでに、ずいぶんかかった。
* * *
最初の一口は、味がしなかった。
舌が乾いていて、何も受け取らなかった。口の中で肉が転がるだけで、噛むという動作の順番を思い出せない。
喉が、一度詰まった。
吐きそうになって、慌てて味噌汁をすすった。
熱い汁が通った瞬間、喉の奥が開いた。
そこから、急に全部来た。
塩気。たれの甘さ。焦げた醤油。遅れて生姜が鼻に抜けて、脂が舌の上に薄く残る。
残ったところへ飯を入れると、脂が米に移って、甘くなった。
うまかった。
そう思ってから、少し遅れて、怖くなった。
* * *
箸が止まらなかった。
私は、止めようとした。
三人は、もう何も食えない。この味も、この熱も、二度と受け取れない。
それなのに私の口は、勝手に動いて、勝手に受け取って、勝手にうまいと言っていた。
三日かけて一度も泣かなかったのは、泣いたら楽になると分かっていたからだ。
それが、生姜焼きで壊れた。
顎が、噛む途中で言うことを聞かなくなった。
肉を咥えたまま、私は声も出さずに、顔中を濡らしていた。
自分が泣いているのだと気づくまでに、少しかかった。
汚い泣き方だった。
鼻水が出て、口の中のものは飲み込めず、皿の上に肘をついて、そのまま固まっていた。
* * *
男は、何もしなかった。
背を向けて、鍋の蓋をずらして、また戻した。意味のない手つきだった。
私が落ち着くまで、それを何度か繰り返した。
やがて、おしぼりが一つ、横に置かれた。
熱いやつだった。
私はそれを顔に押し当てた。熱くて、目の奥が痛くて、都合がよかった。
おしぼりの下で、私は言った。
「なんで、何も聞かない」
「何をだ」
「私が、何をしてきたかだ」
布越しだから、声が変になっていた。
「三日前に二十階に入った。四人で入って、帰ってきたのは私だけだ。振り返らずに走った。誰も私を怒らない。お前も聞かない」
布巾の動く音が、一度止まった。
それから、また始まった。
「腹が減ってる顔だった」
「そんな話はしてない」
「そうか」
男は、布巾を絞った。
「じゃあ、そんな話はしてない」
* * *
私は、おしぼりを顔から外した。
腹が立った。
あの時に欲しかったのは、飯ではなかった。怒鳴られるか、軽蔑されるか、どちらかだった。
この男はそのどちらもしないで、皿の脇に飯のおかわりを置いた。
「お前、私が誰か知ってるのか」
「知らん」
即答だった。
私は、息を吐いた。
この男は、私を知らない。私は、この男を知っている。
その日から、それを誰にも言っていない。
* * *
飯を二杯食って、汁を二杯飲んだ。
食い終わると、体温が戻ってきた。三日ぶりに、自分の指が自分のものになった。
私は、膝の上の袋をカウンターに置いた。
「これを、捨ててくれ」
「何だ」
「携行食だ。四つある。一つは私の分で、三つは違う」
男は、袋の口を開けて、中を見た。
「食えるだろ」
「食えない」
「そうじゃない」
男は、袋の中から一つ取り出して、掌に載せた。
「腐ってない、という意味だ」
そして、その手を、軽く握った。
消えた。
音もしなかった。重さだけが、掌からなくなったように見えた。
私は、椅子から半分腰を浮かせていた。
知ってはいた。映像で何度も見ている。『暁』の荷物があの男の手の中に入っていく場面を、私は何十回も再生した。
だが、目の前で見るのは初めてだった。
「――お前」
「預かるだけだ」
男は、残りの三つも同じようにして、空になった袋を私に返した。
「取りに来い。いつでもある」
「いつまでだ」
「腐らん。しまってある間は、置いた日のままだ」
男は、そこで初めて、少しだけ言い方を変えた。
「食う気になったら言え。あっためて出す」
* * *
その晩、私は上がらなかった。
次の日も上がらなかった。
その次の日に、一度だけ地上へ出た。三人の家を、順番に回った。
何を言ったかは覚えていない。どの家でも、私は立ったままだった。
その足で下りて、また店に行った。六百円を払った。
箸を持つ手は、もう震えていなかった。
* * *
「時任さん。おかわり、いります?」
すずの声で、私は湯呑みを置いた。
五年経って、この店にはまだ看板がない。相変わらず無許可で、品書きは五つしかない。
増えたのは、店員が一人と、スライムが一匹だ。
だしが、私の袖から離れて、カウンターの上をゆっくり戻っていった。
厨房の奥に、木の棚がある。
一番上の段を、私は入るたびに見てしまう。
何も載っていない。載っていない場所に三つぶんあることを知っているのは、この店で二人だけだ。
「黒木」
「何だ」
「まだあるか」
黒木は、こちらを見なかった。
「ある」
「……そうか」
「取りに来るか」
「まだだ」
「そうか」
それで終わった。すずが、私と黒木を順に見て、何か聞きたそうな顔をして、結局聞かなかった。
賢い娘だと思う。
* * *
一つでも食えば、あの日が動いてしまう。
だから五年、預けたままだ。
腐らないのはあの男のスキルのせいで、私のせいではない。
そういうことにしている。
「注文、どうしますか」
すずが、伝票を構えた。
私は、五つしかない品書きを見た。見る必要はない。五年、同じものしか頼んでいない。
「生姜焼き定食。大盛りで」
「はぁい」
厨房で、冷蔵箱の蓋が開く音がした。
じゅう、と鳴った。
私は、その音がするまで、いつも少しだけ息を止めている。
第6話「無許可営業につき、是正勧告に参りました」に続きます。




