第4話 勝手にうちを映した配信者が、炎上して謝りに来た
うちには看板がありません。
それでも、映されれば場所は分かります。
足音が、階段の下から上がってきた。
軽い。装備を着けていない人間の足音だ。この階層では、あまり聞かない。
のれんをくぐってきたのは、赤茶の癖毛の若い男だった。
パーカー一枚。防具らしい防具は、膝当てくらいしかない。
胸元に、小さな箱がぶら下がっている。
それを、両手で外した。
外して、カウンターの上に置いて、そのまま頭を下げた。
「すみませんでした」
厨房の奥で、すずが息を止めたのが分かった。
「本当に、すみませんでした。勝手に映しました。消しました。でももう、たぶん、全部残ってます」
男は、頭を下げたままだった。
「成田陽向といいます。配信者やってます。……やってました」
* * *
一昨日の夜に上がった配信だ。
九条冴がうちで飯を食った、その日の夜だった。
――――――――――
十九階に飯屋あるんだが
のれんに定食って書いてあるだけ 看板ねえ
だから、さだ食堂って呼ばれてるらしい
店主映すなよ
それ無許可営業だぞ
庁に見つかったら潰されるって
消せ
――――――――――
昨日、うちの前に三十人並んだ。今日は十人まで落ちた。
飽きられたからじゃない。映した本人が、焼かれているからだ。
* * *
「顔、上げろ」
男は上げなかった。
「上げないと飯が出せない」
「……飯」
「注文がないなら出ていってくれ、って言うところだが」
俺は、卵の箱を開けた。
「あんた、どう見ても食ってないだろ」
成田が、ようやく顔を上げた。
目の下が黒い。唇が乾いて、端が切れている。
二日、まともに寝ていない顔だ。
「あの、でも、僕」
「座れ」
「僕、ここを潰しかけて」
「座れ」
* * *
すずが、カウンターに茶を置いた。
置き方が、いつもより五割増しで強かった。
「熱いですよ」
「……あ、ありがとうございます」
「すっごく熱いです」
「すず」
すずは、俺を睨んでから、厨房に引っ込んだ。
引っ込む前に、湯呑みの位置を一センチだけ成田のほうへ寄せていった。
昨日の夜、この娘は遅くまで皿を洗っていた。
三十人ぶんの皿だ。手が水でふやけて、指の皮が白くめくれていた。
俺が代わると言ったら、断られた。
「店長は明日も作るんでしょう」と言われて、それ以上は言えなかった。
* * *
迷宮鶏を捌く。
五階層で獲れるやつで、味は地上の鶏とほとんど変わらない。違うのは卵だ。三倍ある。
殻を割ると、黄身が丼の底で座る。箸で触ると、跳ね返してくる。
鶏はもも肉を使う。皮は外さない。皮から出る脂が、割下と混ざって初めて親子丼になる。
小鍋に割下を張って、鶏を並べて、火を入れる。
煮立てない。煮立てると鶏が締まって、後から何をしても戻らない。
白く濁りかけたところで、粗く割りほぐした卵を回し入れる。
半分だけ。残り半分は、火を止めてから入れる。
この二回に分けるやつを、俺は三年かけて覚えた。
一度目の卵が鶏を包んで、二度目の卵が汁を留める。
蓋をして、十秒。
開けた瞬間、湯気が顔に来た。
出汁と醤油が、卵に温められて丸くなった匂いだ。生姜焼きのように暴れない。低いところを這ってくる。
黄色が揺れていた。まだ固まっていない。
迷宮鶏の黄身は三倍ある。半分に散らしても、鍋の中にまだ二つ、橙色の塊が沈んでいた。
固まる手前で丼に移す。移してから、余熱で勝手に固まる。
三つ葉を散らす。青い匂いが、上から一度だけ抜けた。
「はい」
成田が丼に手をかけて、熱くて持ち替えた。
* * *
成田は、丼を見下ろしていた。
それから、カメラのほうを見た。
外してカウンターに置いたやつだ。まだそこにある。
「……あの」
「何だ」
「変なこと言っていいですか」
「言え」
「それ、そこにあると、食えないんです」
成田は、自分の膝を握っていた。
「三年、毎日回してたんです。飯食う時も、寝る時も。切ると、なんか、こう」
言葉を探して、諦めた顔をした。
「……いないみたいになるんで」
成田は、自分の膝当てを見ていた。安物だ。片方だけ留め具が違う。
「……僕、E級なんです。三年やって」
そこで止まった。続きは言わなかった。
「配信だと、三千人いるんですよ」
湯呑みに手を伸ばして、やめた。
「……今は、三万人ですけど」
店の中が、静かになった。
だしが、カウンターの端でぷるりと震えた。
こいつは、店の空気が重くなると出てくる。役に立った例はない。
* * *
俺は、カメラを手に取った。
「預かる」
「え」
「飯食ってる間だけだ」
手のひらの上で、箱が消えた。
音もしなかった。重さが、すっと無くなっただけだ。
出すのが仕事で、しまうのは滅多にやらない。
久しぶりに、何かをしまった。
「……は」
成田が、俺の手とカウンターを二度見した。
「ど、どこ行きました」
「しまった」
「しまった?」
「出せば戻る。だが、預かるのは一度きりだ」
「一度きり」
「一度しまったものを出したら、そいつは二度としまえない。俺のスキルはそういうやつだ」
成田は、自分の胸に手をやった。
三年ぶん、そこにあったものが無い。手が、行き場をなくして止まっていた。
「じゃあ、次からは」
「次からは、自分で切れ」
俺は、丼のほうを顎で示した。
「今日だけ、代わりに切ってやる」
成田は、しばらく黙っていた。
それから、丼を見て、カメラがあったはずの場所を見て、もう一度丼を見た。
「……いただきます」
* * *
最初の一口で、成田の肩が落ちた。
卵が、まだ汁を持っている。噛むというより、押すと崩れる。
崩れた卵が割下ごと飯に落ちて、そこから米が一粒ずつ甘くなっていく。
鶏は、皮のところだけ少し歯ごたえが残る。
そこを噛むと、閉じ込められていた脂が出てきて、卵の甘さを一度断ち切る。
断ち切られた口に、また卵が入る。
その繰り返しだ。親子丼というのは、要するに、それだけの食い物だ。
成田は、三口目で箸を止めた。
止めて、丼を見て、それからまた食い始めた。
今度は速くなった。汁の染みた米を、端から崩すようにして食っている。
丼物は、崩す順番で味が変わる。
端から食えば最後まで汁が残るし、真ん中から行けば最初の三口が一番濃い。
この男は端から行った。長く食いたいやつの食い方だ。
途中から、何も言わなくなった。
丼を持ち上げて、中をのぞき込むようにして食っている。
三年ぶんの癖なのか、時々、誰もいないほうを見て何か言いかけて、やめていた。
そのうち、それもやめた。
* * *
食い終わって、成田は長いこと丼を持っていた。
「……静かですね」
「そうか」
「静かです。ずっと静かです。さっきから」
俺は、鍋の火を細くした。
成田は、丼を置いた。
「僕、三年、こんな静かなの、初めてかもしれない」
そう言われて、俺は店の中の音を数えた。
鍋が鳴っている。すずが皿を重ねている。だしが、カウンターの上で水音を立てた。
静かというほど静かでもない。
泣きはしなかった。
ただ、丼の底をじっと見ていた。二日ぶんの疲れが、そこでようやく顔に出たという感じだった。
「あの、黒木さん」
「ああ」
「僕、なんで配信してたんだっけ、って、今、思い出せなくて」
* * *
会計は三百五十円だった。
「安すぎませんか」
「卵は自前だ」
「いや、そういう話じゃなくて」
「高く取ったら、あんた、次に来られなくなるだろ」
成田が、顔を上げた。
「……次、来ていいんですか」
「客だからな」
成田は、五百円玉を出して、釣りを受け取って、それを財布にしまってから言った。
「……あの。炎上、僕のせいなんで。なんとかします」
「何をだ」
「この店のこと、みんなに、その、忘れてもらうように」
「あんたを焼いてるのが誰か、分かってるか」
成田が、顔を上げた。
「……アンチ、ですけど」
「うちの客だ」
成田の口が、止まった。
「昨日から、代わる代わる教えてくれた。あの配信者は場所が分かる形で映した、庁に見つかったら潰される、あそこは潰れたら二度と戻らない。
全員、飯を食いながらだ」
俺は、布巾を絞った。
「惜しがる理由をやったのは、あんただ」
成田は、何も言わなかった。
しばらくして、丼の縁を指で一度だけ叩いた。
俺は、カメラを出した。
カウンターの上に、置いた時と同じ向きで戻った。成田がびくりとした。
「触るな、とは言わない」
「え」
「だが、次にここを映すなら、断ってから映せ」
成田の口が、半分開いた。
「い、いいんですか」
「あんたが勝手に映したのは腹が立つ。だが、あんたが焼かれてるのは俺のせいじゃない」
俺は、布巾を取った。
「別の話だ。混ぜるな」
* * *
成田が立ち上がったところで、すずが厨房から出てきた。
「あの」
成田が振り返る。
「……おかわり、しなかったですよね」
「え」
「二日食べてない人は、一杯じゃ足りないです。あたし、知ってるんで」
すずは、それだけ言って引っ込んだ。
三年前、うちで飯を食って泣いて帰った娘だ。
あの時も、おかわりはしなかった。
* * *
成田が帰った後、すずがカウンターを拭きながら言った。
「店長、甘くないですか」
「そうか」
「そうですよ。三十人ですよ。あたし、まだ腕が上がらないんですから」
「腕は上がってるだろ」
「気持ちの問題です」
すずは、ふきんを絞ってから、ぼそりと続けた。
「……でも、あの人、ごはん食べてなかったですね」
「食ってなかったな」
「二日くらい食べてない顔でした」
すずは、それきり黙って、拭き残しのないカウンターをもう一度拭いた。
* * *
翌日。
成田は、また来た。
カメラは、胸に着けていた。着けていたが、のれんをくぐった時点で、それを手で押さえて止めた。
「あの。撮っていいですか」
「だめだ」
「はい」
あっさり引いて、成田はカウンターに座った。
「親子丼、ください」
「今日は鯖だ」
「……鯖、ください」
「日替わりは、毎日変わるから日替わりなんだ」
「はい」
俺は、魚を焼いた。
成田は、焼けるまでのあいだ、何もしていなかった。
三年ぶんの癖で、胸のあたりに手をやりかけて、途中で下ろした。
それだけだ。
すずが、何も言わずにおしぼりを置いた。熱いやつだ。
昨日より一センチ近い位置だった。
成田は、それを顔に当てて、しばらく動かなかった。
「……あったかい」
「そりゃ、おしぼりですから」
すずは、そう言って厨房に戻った。
戻る途中で、一度だけ小さく笑ったのを、俺は見なかったことにした。
第5話は【幕間】です。時任久遠の視点で、五年前、この店ができた日の話を書きます。




