新しい物語
視界がぼんやりと開け始める。もうないかと思っていた寝覚めだ。
石造りの天井とともに懐かしい顔が目に入る。なつかしいと思ってしまうのは、もう自身の意識が戻ることなどないと決めつけていたからだ。
(ベラ……さ……ん……?)
奇妙なことが起きた。口が動いているのに声が出ない。喉を壊したのか。
必死に声を出そうとすると声帯が砕け散るかのような激痛が襲う。もがいてベッドの上をのたうち回る。ベラが用意してくれたバケツに血の混じった吐瀉物を吐いた。
「声を無理に出すな、もう少しで死ぬところだったんだぞ。王子もあんたも二人そろって無茶しすぎだ。性格は合ってもこれじゃ、長続きしそうにないぞ」
気を失う前に、王子の名前を力いっぱいに叫んだことを思い出す。あのときに喉がつぶれてしまったのだろう。
だが、幸い一生モノにはならずに済んだよう。ベラの話では数週間安静にしていれば、声は回復してくるということだ。それまでは当面、耳元で囁く程度の声しか出せない。それも出さない方がいいと言われた。
「話せないから一方的に報告する。ここは街医者だ。鉱山で何があったかは知らない。あのあと城はなんとかもぬけの殻にできたが、城そのものは甚大な被害を受けた。屋根がない部屋がいくつもできてなあ。屋根がある方が珍しいくらいだ。
こっちが助け出した王侯貴族とともに鉱山に向かった頃には、奴隷制の残党は逃げ出し、あんたらふたりがテントの中で倒れていた」
被害は決して少なくない。それでも最悪の事態は免れた。
虐殺されるはずだった奴隷制を撤廃しようとしていた政治家も大部分は命を落とさずに、被害を受けた街や城の修復に尽力しているという。
「そして安心しろ。王子は生きている」
何よりも胸を安堵させたのはその一言。じわりと目じりから露が溢れ出す。
ぼやける視界の中、枕元に彼がくれた赤い薔薇の花が一輪挿しに生けてあるのが見えた。彼が……、彼は生きていた。
(よかった……。よかっ……た……)
「こら、声を出すなっ」
「まったくこれでは余計に予後が悪くなりますよ」
憎まれ口を叩いてやって来たのは皮肉屋のセバスだ。王子に頼まれてあたしの看病をしに来たということらしい。右手には湯気の立つティーポットが乗せられたお盆を持っている。枕元にある机にティーカップを置いて、そこに温かいレモネードを注いでくれた。
(あ、あの……、王子は……)
聞き出さずにはいられなかった。
意識が戻ってからいち早く街を視察し、被害状況を調べ、政治活動に尽力していると。人が変わってしまったようで気持ちが悪いとも言っていた。
「あの重症であれだけ働かれては困ります。何度も言ってるのに、聞かん坊だから……」
そんな王子を頼もしいと思うと同時に、自分が思っていたよりも長い時間眠りについていたことを思い知らされる。丸二日は目を開けなかったとベラが付け加えた。
「言っただろ。もう少しで死ぬところだったって。
いてて……」
立ち上がると同時に小声でつぶやくベラ。すると、セバスがそっとその肩を担ごうとする。
「馬鹿っ、私も深手を負ってるのがバレたらどうするのよ」
「なんで私の周りはこんな奴らばっかりなんだ」
すっかり上体を起こしてレモネードを飲んでいるあたしに、抜け出したりするんじゃないよ念を押すベラ。企んでいたことがバレて肩がびくりと跳ねあがる。でも、もう動けるぐらいには回復しているし、声を出さなければどうってことなどない。まあ、彼を目の前にして、それを我慢できるとは思ってないが。そっとベッドから起き上がり、真昼の光に照らされた外の街へと。
エドワード王子、何処にいる?
あてもなく街を歩いてたどり着いたのは、街の広場だった。噴水を囲むようにして丸い石畳の回廊がある街の中心地。すべての通りはこの広場から放射線状に伸びている。人の行き交いも多い。そして、あのときは王子に会えなかったけど、あの日の待ち合わせの場所だ。
「レメトっ!」
後ろから声がした。温かい。
もうずっと聞けないと思っていた声だったから、たまらなく、たまらなく嬉しかった。
あたしは、その声の主のもとへと駆けて力いっぱいにその肩を抱き寄せた。
(エド……ワード……。生きてたんだね、よかった。よかった……)
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
耳元まで近寄らないと聞こえないくらいに小さいかすれ声しか出せない。本当はもっと大きな声を出したいのに。もっと、はっきりとした声でその愛しい名前を叫びたいのに。
(ごめん、今は声が出ないんだ……)
「そうか、でもちょうどいいや」
そして半ば乱暴にもあたしの手を引っ張って人気のない路地裏へと。今度は何を思ったのか、あたしを無理矢理おぶって歩き始めた。まだ衣服の間から包帯が見えているような重体で、人ひとりの身体をおぶって歩くなんて。そう言ったが、下してはくれなかった。
「こうすると君の声が近い」
聞かん坊だ。セバスの言う通り、王子はとんでもない聞かん坊だ。
あたしの小さな身体を彼の広く温かい背中が包み込む。いや、もう王子ではない。彼は自分でも言ったとおり、今や国王として国を背負おうとしているのだ。こんな幸せはおこがましいな。
「レメト、君に見て欲しい、とっておきの場所がある」
目をつぶっていてくれ。そう言われたから、噛みしめるようにゆっくりとそっと目を閉じた。瞼を抜けて漏れる光は少し薄暗い。人気のない路地裏を通ってどこかに向かっているらしい。
「ほら、目を開けるといいよ」
瞼を抜ける光量が一気に増えて、路地裏を抜けたのを悟ったところでそう言われた。瞳の中に飛び込んできた景色に、あたしは思わず息を飲んだ。見渡す限り、一面に広がっていた。彼にもらったものと同じ真っ赤な薔薇が。
(……ここは……?)
「あそこにツタだらけの古い家が見えるだろ? 昔の貴族の住まいで、ここを取り囲む薔薇園もそこで育てられていたものが、野生化して今に至るらしい。
あの花が枯れたら何時でも言ってくれ。ここまで摘みに来るから」
やはり、あの赤い薔薇はこの見事な薔薇園から拝借してきたもの。
彼は子供の頃からお城を抜け出してはこの場所に来ていたらしい。背中から降ろしてもらい、薔薇の花たちに触れる。薔薇の蜜を訪ねて、蝶や蜜蜂が飛んでいる。ここにいて深呼吸をするだけで心が洗われるようだ。
「トゲで怪我をするなよ」
そこまで間抜けじゃないよと頬を膨らます。薔薇の種類は赤だけじゃなく、白や黄色、桃色、黒。品種改良により開発された多種多様な色が揃っていた。最も手入れされていない今では、薔薇の色分けはきちんとなっておらず。色が混ざってしまったものもある。だがそれもまたいいと言える。
「レメト……、あのときの返事まだ変わらないのか?」
あのときとはなんだろうか。首をかしげる。
「あのとき、君は考えておくと言った。そのあと僕に相応しい人間になってからだって。でも、君の傍でおこがましいのは僕の方だ。君を守ると言いながらいつも君に奮い立たせられて、君がいなかったら、僕はこの場所に立っていられてなんかいない。だから――」
続きを離そうとする口を右手で閉じてやる。
どうせ、あたしに身分を用意するとかそんな話だ。そんな言葉彼の口から聞いたら、彼のことが嫌いになってしまいそうだから。その口を閉じてやった。
(いいんだ……。あたしが自分で努力したい人だってのは知ってるでしょ)
「で、でも……」
(大丈夫だよ、あたしなら。エドワードがびっくりするくらいの速さで追いついてやるから)
そう伝えると、王子は楽しみだなと笑ってくれた。遠くでわざとらしく咳払いの音がした。振り返って目が合う。思わずふたりして冷汗をたらりと流し、唾を飲み込んだ。しまった。街医者を抜け出してここまで歩いてきたのがセバスにバレていた。笑いながら眉をぴくぴくとさせている。王子曰く、あれが一番怒っているときの表情だと。セバスの背後にはしたり顔のラルスの姿が。どうやらこの場所をセバスに伝えたらしい。
ふたりして、こっぴどくセバスに叱られた。
――それから、あたしは鉱山で働いていた経験を生かして、宝石や鉱石の鑑定士となる修行を始めた。
学術書を読み、実地調査、硬度試験、品の見極めや値段の査定まで。宝石や鉱石が掘り出されて、値段が決められて、国を跨いで流通するまでを学んだ。すべては、あの人の隣に立つために。
もちろん辛いときもあったが、自分が慣れ親しんできた鉱石や宝石を生かした仕事ができることは嬉しかった。ベラやゴーシュを始めとして、マインゴールド鉱山の皆との繋がりも生かせる。何よりも、この道の先には、王城に仕える宝石鑑定師としての道がある。もともとマインゴールド鉱山の鉱業を以って発展してきたこの国において、宝石鑑定師の身分は高い。宝石は身を着飾るものだけではなく、他国に見せる国力の証。外交の重要な道具なのだ。
――修行を積むこと三年。ついに、あたしは王としての彼。エドワード国王陛下の玉座の前に跪いた。
「宝石鑑定師、レメト・ラファエリトよ。今日はこの国の政に提案があると。
知っての通り、レクトール議長の計画により王城が破壊され、そこにつけこんで国内の地主が国の資金を持って逃亡。今、この国は尋常ならざる貧困に陥り、王城の修復も私から最低限にとどめるよう願い出た。豪華なつくりも辞めさせてな」
一人称が変わっている。この三年の間も何度かは会っているが、会うたびにその瞳が頼もしくなっている。彼は権力になど溺れなかった。修復された謁見の間は城としての体は保っていても、かつてのような煌びやかな装飾はない。彼自身がそれを拒んだからだ。そしてこの王室に、あたしが宝石を持ち込むならば、またそれを拒んだだろう。
「宝石ではなく、政を持ってくるとは、変わった宝石鑑定師もいたものだ」
威厳を出すためか無精ひげを生やしていて、それをわざとらしく撫でる仕草をする。かつての彼と重ねると少し可笑しい。
となりでセバスがくすりと笑う。その隣には貴族の面々の中でひときわ浮いているラルスの顔もあった。王家専属の護衛係として正式に勤めてる今もアサシン風の出で立ちは変わらない。変わらない皆の面々に目配せをした後、もう一度王子の眼をまっすぐと見上げる。
「エドワード国王陛下。鉱山の鉱石や宝石に関税をかけましょう。そして鉱山への出入りを徹底監視し、これが国外へ漏れないように。特に燃料となる石炭は、かつての国から資金を持ち逃げし、財力のままに奴隷区などという自治を謳う地主たちに一泡噴かせるのに有効です。関税で値を吊り上げ、奴隷制撤廃を免税の条件に。同盟を結ばせ、かつての国土を取り戻す。そしていずれは国力も――
奴隷制などなくとも、豊かな国をつくれることを証明しましょう」
全てはここから――
「……、見事な政だ。レメト・ラファエリト。そなたを王家専属の宝石鑑定師として、そして国の外交にも携わってもらおう」
「――ありがたき幸せにてございます」
ここから始まる、次のあたしの物語。




