表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅迷宮の澱  作者: そこらへんの宝箱
第一部 第一幕
6/12

第二話「灯のいくつ」

ギルドの扉をくぐると、朝の冷えがまだ床の石に残っていた。


セラフィナは聖印の留め具を布の上から押さえ直して、人波の浅いところを選んで奥へ進んだ。掲示板の前にはもう何人かの冒険者が立っていた。装備の擦れる音、紙をめくる音、それからときどき低い相談の声。昨日の夕刻に来たときよりも人の数は少ない。けれども誰の声にも昨日とよく似た張りがあって、これから降りる者の声だ、と分かる張り方だった。


その張りの中に、知った顔があった。


正確には知った顔ではなかった。昨日の夕暮れ、ギルドの帰り道に窪地の底で見た酒場の灯の、その明るいあたりに、明日から降りるらしい若い声がいくつか上がっていた──そのうちの誰か、というだけのことだった。装備の見えない方の真新しさと装備の見える方の年季と、その不揃いが、坂の上からでも分かる一団だった。


受付の窓口の前に、その一団のうちの二人が立っていた。


セラフィナは奥へ進む足を一度緩めた。緩めた理由のなかには、受付の机の側に立っているのが昨日の夕方に応対してくれた娘の同じ顔だった、ということもあった。


ティルダ、という名を、彼女は昨日聞いていた。


「ラウィス、また背伸びをするんじゃないわよ」


ティルダの声は低めの中音で抑揚を抑えていた。ただ、机の側の二人を見るときに、ほんの一拍だけ、声の前で飲み込んだものがあった。


「装備の確認は、したの」


「したよ。剣は研いだし、ポーション一本、入れた。──腰に、魔石袋」


机の側の若い男のほうが語尾を少しだけ強くして言った。


「あなたのお父さんが、いつも言うのを覚えてる。冒険者は連携が命だって」


「うん」


「神官の当ては」


「それが、今探してるとこ。──」


そこで男は、机の向こうのティルダの視線が自分の肩の向こうの方へ少しだけ逸れたことに気づいたらしかった。彼は振り向いた。振り向いた先に、セラフィナの顔があった。


「あ、神官さんだ」


声は、明るく、少し裏返った。


「ラウィス」


ティルダがその明るさを引き留めるように声を出した。それから、いつもの一拍を置いて、セラフィナのほうへ目を移した。


「セレナ・ヴェスペル殿」


その呼び方を、ティルダは昨日と同じ抑揚で口にした。


「もし、お差し支えなければ。──この子たちが、神官を探しています。地元の子です」


地元の子、という言葉のあとに、ティルダの息が、短く区切れた。


セラフィナは聖印の留め具を、布の上からもう一度押さえた。地元の子、というその一言の重さを、ティルダの一拍と一緒に受け取った。


「私で、お役に立てるなら」


ラウィスと呼ばれた男が急に背筋を伸ばした。


「ほんと?俺、ラウィス。こっちが、ミラ」


ラウィスの傍らでミラと呼ばれた娘が軽く頭を下げた。背が低くてセラフィナとそれほど変わらない背丈だった。神官見習いの白い法衣を着ていて、袖の長さと裾の長さが、よく見ると小さな繕いの跡で揃えられていた。胸には小さな赤い宝石を布で留めた見習い用の聖印が下がっていた。


「セレナ様。──よろしくお願いします」


ミラはそう言って、もう一度、頭を下げた。


「あと、二人いるんだ」とラウィスが言った。「向こうの、掲示板のとこ」


ラウィスが顎で示した先に屈み込んでいる二人組がいた。一人が顔を上げて軽く手を振った。片方は弓を背に負った若い男で、もう片方は革鎧の上にローブを羽織った、まだ少年に近い顔つきの男だった。


「アレクと、ファビウス」


「お連れの方は、お一人で」


ミラが、セラフィナの背後の方へ目を向けて、控えめに尋ねた。


「いえ、連れがおります」とセラフィナは答えた。「剣を扱う者です」


「あ、剣の方も」


「ええ」


ラウィスは、そりゃ助かる、と笑った。笑いながら彼の指は剣の柄を一度強く握り、それから離れた。緊張するときに出る所作だ、と彼が自分でそう言ったわけではなかったが、隣のミラがそれを見ていない側で軽く頷いたのが、セラフィナの目には届いた。


「ラウィス」


ティルダが机の上で登録簿を閉じながら、また一拍を置いた。


「装備の、革鎧の留め金。出る前に、もう一度」


「うん、見る」


「──行かれるのですね」


その一言は、ラウィスに向けたものでもあり、セラフィナの方にも届く声音だった。セラフィナはティルダの目を見ないで、はい、と短く答えた。受付の机の縁で、ティルダの右手の指が、赤と黒のインク壺のあいだで、一度だけ揺れた。揺れた指は、結局、どちらのインクも取らずに机の縁へ戻った。


◇◇◇


ギルドを出る頃には登録の追加と装備の見立てがおおむね済んでいた。


セラフィナの連れ──セルウィウスは四人とは少し離れて立っていた。聞かれたことには答え、聞かれないことは口にしない、いつもの彼の応じ方で。アレクと呼ばれた弓の若者が剣の長さや地下層の足元の悪さの話をふたつ三つ尋ね、セルウィウスは短く答えていた。答えは過不足がなく、それでいて彼自身についての情報は何ひとつ残らない答え方だった。


「明日には降ります」


ラウィスがそう言ったのを、セラフィナは半歩後ろで聞いていた。


「気は早くないですか」


ファビウスという、いちばん年若い男が言った。問いかけるというよりは、確かめる声音だった。


「気が早いほうがいいって、知り合いに言われた。先に場所の見当をつけとくのが、勝ちだって」


「だって、まだ──」


「主が出てくる気配があるって、昨日の触れに書いてあったろ」


ファビウスは口を閉じた。彼にはまだ、ラウィスを止められるだけの何かが無いようだった。


ラウィスの腰の片手剣の柄が彼の動きの一拍ごとにほんの少しだけ揺れた。本人の手より柄の作りのほうが半寸ほど太かった。柄頭の革は艶を残していて、本人の手入れの跡がそこにだけ集まっていた。柄の革のほうはラウィスより前の誰かの指の癖を覚えていて、その癖が今は誰の指にも合わないままだった。


セラフィナはその不揃いから一度だけ目を逸らした。逸らした理由を、彼女は自分でも追わなかった。


ミラは、ラウィスの半歩後ろの位置にいた。


法衣の胸元の合わせのあたりをミラの片方の手がときどき押さえるようにしていた。布の上から何か小さな硬さを確かめている所作だった。確かめてから、彼女は短く息を吐いた。聖印の方ではなかった。聖印は首から下げて、外に出ている。胸元の合わせの中に、ミラはもう一つ、外から見えない硬さを持っていた。


セラフィナはその所作を一度だけ見た。


見てから、目を、迷宮の口のほうへ移した。石柵と見張り台に囲まれた、街三つ分ほどの口が午前の光をうっすらと吸い込んで、底のほうは見えなかった。底が見えないことは、昨日の夕方と同じだった。


明日から降りる、と彼女は思った。


その言葉は、昨日の夕暮れにも一度、心の中で言った。今朝もう一度、同じ言葉を言うことになった。明日、という言い方がそうやって繰り返されるうちに、明日というものは、いつまでも明日のまま、近づいてはこないのだろうか、と思った。


けれども、明日は来た。


宿の戸を開けて朝の冷えの中で四人を見つけ、ティルダの机の前で顔を合わせ、一団に加わる手はずが整い、その整い方の速さに彼女自身が少し驚いている、ちょうどそのあたりで、今日はもう、明日になっていた。


「セレナさん」


セルウィウスの声がした。


「はい」


「準備は」


「ええ。聖印と、薬包と。あとは、奇跡を」


「分かりました」


セルウィウスはそれだけ言って、また少し後ろへ下がった。彼が下がる位置は、いつもセラフィナの斜め後ろの、四人と彼女との間に挟まる場所だった。


その日の昼前、一団はもう迷宮の口の階段を降り始めていた。


◇◇◇


階段は、最初のうちは光があった。


迷宮の口の縁から差し込む昼の光が十段、二十段と降りていく途中まではまだ届いていて、石の段の表面に薄く影を作っていた。その光の届く範囲ではまだ街の物音が遠く聞こえた。荷を運ぶ車の鈍い音、犬が一声鳴く、誰かが何かを呼ぶ──そのうちのどれもが、降りるにつれて少しずつ薄くなっていった。


光が届かなくなる前に、ラウィスが灯火を灯した。


火の色とも光の色ともつかない白く小さな光がラウィスの指先で灯った。市井の生活魔法の、いちばん初歩の灯火だった。それで階段全体が照らせるわけではなかったが、すぐ前の段とすぐ後ろの段くらいは見える明るさになった。


「これで、しばらくいけるはず」


ラウィスが言って、先頭で段を降り始めた。すぐ後ろにアレク、その後ろにミラ、ファビウス、セラフィナ、いちばん後ろにセルウィウス、という縦の並びだった。順番はギルドの前で四人の話し合いで決まった。神官を真ん中より少し後ろに置く、というのが彼らの相談の結論で、セラフィナはそれに従った。


段は、降りるほど湿った。


最初は石の表面に冷たさが乗っているだけだったのが二十段、三十段と降りるうちに段の縁に薄く水が張るようになった。誰のものとも知れない、ぬるい、けれども湿った冷たさだった。


「足元、注意してください」


セラフィナは前のほうへ声を届かせた。ミラが半歩、足を踏み外しかけてファビウスの肩のあたりに手を当てて持ち直したのが、後ろから見えた。


「ありがと」


ミラが小さく言った。手が肩から離れる動作のあいだに、彼女の片方の手は、また自分の胸元の合わせの上を、軽く押さえていた。


血の洞窟、と土地の者がこの一層を呼ぶ理由は、最初の広間に出てしまえばすぐに分かった。


広間の床の低いところに細い水路があった。水とは違う色をしたぬるい何かが水路の中をゆっくりと流れていた。光を当てると、その流れの表面が薄く赤みを返した。岩の壁にもところどころに赤茶けた跡が長く垂れていた。


「これか」


アレクが弓を構え直しながら、低く言った。


「血の水路」


「死んだ魔物の血が、ここから流れ続けてるって」とファビウスが言った。「腐らずに、ずっと」


「腐らないって、どういうことだ」


「分かんない。ただ、そういうものらしい」


四人はその答えで満足したらしかった。納得したというのではなくて、それ以上を問うても答えの出るものではない、という諦め方だった。彼らは灯火を高くして、広間の奥の通路のほうへ歩き出した。


セラフィナは、水路の縁で、わずかに足を止めた。


水路の縁の石の上に神官装束の白い布の縁が、ふと、薄く赤を含んだ色に映って見えた。床の血水が縁に触れた、というだけのことだった。彼女は布を胸の前に押さえ直して、四人の後を追った。


◇◇◇


最初の血喰狼は、広間を一つ抜けた次の分かれ道で出た。


灯火の光の届かない奥の暗がりから低い唸りがふたつ重なって聞こえた。アレクの弓がいちばん先に弦を引き、ラウィスが剣を抜くより前に、暗がりの中から、二頭の大きな獣が、姿のほうを先に出してきた。


毛並みが、血の色だった。


二頭とも口の周りと胸のあたりに乾いたものと乾いていないものとが混じった黒赤の何かを纏っていて、息を吐くたびに口の端から細い赤い糸が垂れていた。垂れた糸は地面に落ちる前に消えた。


「アレク、頭、頭」


ラウィスが声を上げた。


「分かってる」


アレクの矢が一本、最初の一頭の首のあたりに刺さった。狼は止まらなかった。止まらないどころか、刺さった矢の場所からも新しい糸を垂らしながら、ぐっと低く沈み込んで、ラウィスの方へ跳んだ。


ラウィスの剣がそれを横から打ち払った。


打ち払った剣は狼の頬の上の毛を浅く裂いただけだった。狼は地面に着地して、もう一度、低く構え直した。最初の頭から血が流れたが、流れる血は止まらず、止まらないまま、狼はまだ動いていた。


「頭、潰さないと止まんないって、聞いた」


ファビウスがローブの中から短い杖を抜きながら、上ずった声で言った。


「焼くか」


ラウィスが訊いた。


「焼くと、ちょっと、灯せるくらいの火しか」


ファビウスの杖の先に、本当に灯せるくらいの小さな火が灯った。生活魔法に毛が生えた程度の火だった。


二頭目の血喰狼が、その小さな火に反応した。


血液の匂いに強く反応する、という性質を、彼らはギルドで読んできていた。けれども火の匂いがどう作用するかまでは聞いていなかったらしい。火に向かって、二頭目が真っ直ぐに跳んだ。ファビウスは杖の前に左の腕を上げた。


その腕に、狼の口が届いた。


ファビウスが声を上げる前に、セラフィナはもう彼の側へ動いていた。短い祈りの一句を口の中で唱えながら、左手で彼の右腕──噛まれた側ではないほう──の肘の上を掴んだ。傷の方ではない側を、まず押さえる。傷はあとだ。彼の体を引き寄せて、狼の口から腕の重さを抜く。


セルウィウスの剣が、彼女の頭の横を一筋、抜けていった。


刃が狼の頭の側面に深く入った。狼はひと呼吸の間、動かなくなって、それから前のめりに崩れた。崩れたあとも、その口は半分開いたまま、ファビウスの腕の革鎧に薄く噛み跡を残していた。


ファビウスは、まだ立っていた。


「ファビウス、腕を見せてください」


セラフィナが言った。


「あ、はい」


「噛まれた跡を、まず」


革鎧の留めを外すと、内側の二の腕に深いところと浅いところとが入り交じった噛み跡があった。出血はあったが致命的ではなかった。彼女は短く祈った。祈りは中位の聖句のひとつで、傷の縁を合わせ、血止めをし、痛みを薄める、その範囲だった。傷は半分ほど塞がった。残りの半分は、時間をかけて自然に塞がるはずだった。


「動かせますね」


「あ、はい。動きます」


ファビウスは腕を二度ほど開いたり閉じたりしてから、ありがとう、と小さく言った。


ラウィスの剣が、もう一頭の血喰狼の頭に、二度目の打ち下ろしを与えていた。一度では潰せなかったらしく、二度目で、ようやく狼は動かなくなった。狼は動かなくなってからも口の端から細い赤い糸を垂らし続けていた。


セルウィウスは刃の血を岩の縁で軽く払って、すでにもとの半歩後ろの位置に戻っていた。


「すげえ」


ラウィスが、息を整えながら、笑いに近い声を出した。


「神官さん、本当に引っ張りだこの理由が、分かったわ」


セラフィナは少しだけ笑って、無理はしないでください、とだけ答えた。


ラウィスは自分が止めた狼のほうへ屈み込んだ。剣の先を割れた頭蓋の隙間に差し入れて、腰の革袋の口を片手で軽く開いた。革袋の口の縁に触れた指が、止まった。


◇◇◇


一頭目の血喰狼の血で、洞窟の他の何かが起きていた。


それに気づいたのは、ミラだった。


「ねえ」


彼女は低い声でラウィスに言った。


「奥で、何か」


四人は灯火を一度、低くした。


通路の奥の暗がりの方で、何かが、岩の表面を細く擦るような音をさせていた。一つではなかった。複数の細い擦れる音が、上のほうと下のほうと、別々の高さから、ばらばらに聞こえてきた。


「血の匂いに、寄ってくる」


ファビウスが囁いた。


「血喰狼じゃないと思う。もっと細い、何か」


通路の天井の岩の隙間から、白い細長いものが、ゆっくりと垂れてくるのが見えた。


洞穿蛇だった。


落ちる、と思った時には、もう落ちていた。


最初の一匹はミラの真上に落ちた。法衣の肩の縁にそれが触れた瞬間、彼女は反射的に身を捻った。捻った先で、二匹目が彼女の首の側を狙って、岩の壁の方から飛んできた。


「ミラ──」


ラウィスの声が、その名を呼びかけた途中で、止まった。


二匹目の白い細長いものが、ミラの首の、法衣の合わせから外に出ている細い肌に、深く突き立っていた。


ミラの手が、自分の首の傷の縁に、先に届いた。


短い、息を吸う音がした。短い息のあとに、ミラは小さく口を開いた。神官見習いの初級の聖句だった──軽い止血、軽い痛みの緩和。一句目が、彼女自身の声の中で、半分だけ形になった。半分だけ形になった一句は、自分の指から、自分の首の傷へ届きかけたところで、止まった。彼女自身の止血の聖句が、彼女自身の傷には、間に合う規模ではなかった。


セラフィナはもう、ミラの側に動いていた。


ミラの体が、ラウィスの腕の中に倒れ込むのと、セラフィナの手が彼女の首の傷の縁に届くのとが、ほとんど同時だった。傷は深かった。深かったが、致命的ではない、と彼女の指は判じた。中位の聖句で、間に合う。間に合わせる。


「ラウィス、押さえてください」


「あ──ああ」


セラフィナは祈りの一句目から唱えた。祈りの一句目から、傷の縁がゆっくりと寄り、出血が止まり始めた。


ミラの目が、半分だけ開いていた。


「セレナ様」


ミラの声は弱かったが、まだ言葉になっていた。


「私、まだ、降りられますか」


「降りられます」


セラフィナはそう答えた。答えてしまってから、答えのほうが先に出てしまったことに、半秒だけ遅れて気づいた。


「無理を、しないで」


「うん」


ミラの片方の手が、まだ自分の胸元の合わせの上に、軽く置かれていた。その手の重さに合わせて、彼女の呼吸が、ゆっくりと戻ってきていた。


セラフィナは聖印の留め具をもう一度押さえ直して立ち上がった。立ち上がりながら、自分の足元の石の上に一滴、赤いものが落ちていることに気づいた。落ちたものは自分の手のひらから垂れたミラの血で、その血は石の上に落ちたあと、すぐには乾かなかった。


乾かない、という性質を、彼女は今、自分の目で見ていた。


◇◇◇


三本目の分かれ道を抜けたところで、洞穿蛇の群れが、本当の群れとして降ってきた。


天井の岩の隙間という隙間から、白いものが、束になって落ちてきた。降ってくる、というよりも、隙間という隙間そのものが、白いものを吐き出していた。


「散れ!」


ラウィスが叫んだ。


四人は散った。


散ったが、散る方向のほうがもう塞がっていた。分かれ道の奥のほうから低い唸りがいくつも重なって、別の血喰狼の群れが、こちらへ向かって走ってきていた。一頭ではなかった。四頭か、五頭か。あるいはもっと多いかもしれなかった。


セラフィナは、頭の隅で、ひとつのことだけが残った。


一人ずつ、近い順に。


それしか方法はなかった。中位の聖句の祈りは、傷を順番に治す。同時にはできない。同時にやろうとした神官の話を彼女は聞いたことがあったが、彼らはみな、祈りの途中で倒れた。倒れた神官の隣で、治しかけの傷の冒険者も、もう一人の傷の冒険者も、両方とも死んだという話だった。それが普通の神官の限界だった。


──彼女は、その普通の限界を越えても、倒れなかった。


倒れないという事実を、彼女は誰にも言わずに生きてきた。今もそうしていた。


最初に届いたのは、アレクだった。


彼の脇腹に洞穿蛇が二匹、深く縦に刺さっていた。一匹は引き抜けたが、もう一匹の頭が、皮膚の内側で折れて残った。セラフィナは折れた頭の周囲の皮膚に短く触れて、聖句を唱えた。蛇の頭は奇跡の流れに押し出されて、皮膚の外へ、ゆっくりと滑り出した。出血は止まったが、肺の傷までは聖句が届かなかった。アレクは咳をした。咳に、赤いものが混じった。


「アレク、息を、浅く」


「うん──浅くは──」


アレクの目が、彼女の肩の向こうのほうへ、ふっと逸れた。


逸れた先で、ラウィスが、血喰狼に首から胸を裂かれて、地面に膝をついていた。三頭目の狼が、ラウィスの開いた胸の内側に頭を突っ込んで、何かを内へ運ぼうとしていた。


セラフィナは、アレクの側を離れた。


離れる、という選択を、彼女は彼の目を見ないで決めた。決めたあとの一拍だけ、彼女は彼の咳の音の側に耳を残した。一拍は、彼女が彼を置いていくための一拍ではなく、彼の咳の音を彼女が忘れないための一拍だった。


ラウィスの胸の傷は、もう聖句の届く規模ではなかった。彼女がそれを判じるのと、ラウィスの首が前にがくりと落ちるのとは、ほぼ重なって、それでも彼女は祈り始めようとした。祈り始めようとして、口を開いた半秒の間に、ラウィスの体の重さが地面のほうへ完全に乗り切ったのが、彼女の足の下の石の振動で分かった。


祈りの最初の一語は、出る前に、口の中で止まった。


止まったのは、祈りが届かないと知ったからではなかった。届かないことを彼女は前から知っていた。止まったのは、別の理由だった──祈りの最初の一語より早く、ラウィスがもう、祈りを聞ける側にいなかった、ということだった。


セラフィナは、それでも、短く祈った。


祈りは届かなかった。届かない理由は、彼女の側にではなく、ラウィスの側にあった、と彼女の指の感覚は知っていた。


「セレナ様──」


ミラの声が、後ろから届いた。


いや、それはミラの声ではなかった。アレクの声だった。咳に混じった、半分だけ形になった呼びかけの音だった。


セラフィナが振り向くと、アレクの胸からまた一匹の白いものが抜け出てきていて、それは抜け出ながら、もう一度、彼の胸の別の場所に潜り込もうとしていた。


セルウィウスの剣が、その白いものを横から切り払った。


切り払ったあとで、アレクの体は、ゆっくりと前のめりに倒れた。


「セレナさん、こっちへ」


セルウィウスがそう言った。


その声には、いつもより半拍だけ早い何かが乗っていた。彼が呼ぶ声に半拍が乗るとき、それは、その先の半拍を使ってでも彼女を動かしたい、という時の声だった。


「ミラが」


セラフィナは言った。


「私も、ミラ、を──」


セルウィウスは、答えなかった。答える代わりに、彼の剣は、すでに別の方向の血喰狼の頭を、二度目の打ち下ろしで割っていた。


ミラの体は、分かれ道の壁の側に、ファビウスに支えられていた。


ファビウスは、片方の腕で剣を構え、もう片方の腕でミラを抱えていた。両方を同時にはできていなかった。剣のほうも構えきれず、ミラのほうも支えきれていなかった。それでも、両方をやろうとして、両方ともやりかけのまま、彼はそこに立っていた。


セラフィナがミラの側に届いた瞬間、ファビウスの腕の中で、ミラの体の重さが、ゆっくりと変わった。


変わった、と彼女の指が感じた。重さが変わる、というのが、人の体において何を意味するか、指の感覚が告げていた。


「ミラ」


セラフィナは呼んだ。


「ミラ、応答してください」


ミラの目が、薄く開いた。


その目は、セラフィナの顔の方ではなく、自分の胸元の合わせのあたりに、ぼんやりと向けられていた。


「お母さんの祈祷書、妹に」


「分かりました」


「お父さん、には」


「ええ」


「秘密……に、して」


ミラの息が、一度、長く吸われて、長く吐かれた。


「お姉ちゃん、になれって、私、言われた、けど……なれない、かも──」


ミラの声は、そこで止まった。


止まった声の続きを、セラフィナはしばらく待った。待ったが、声は続かなかった。


ラウィスの胸の傷の側で、しかし、ラウィスのほうが先に動いた。


膝をついていたラウィスが、自分の片方の腕で剣の柄を握り直した。剣の柄を握り直す手の重さは、もう自分の手の重さではないように、岩の方を頼って体を起こした。彼の胸の傷からは、まだ赤い糸が垂れていた。垂れていたが、彼の目は、ミラの方を見ていた。


「ミラ」


ラウィスが言った。


「ミラ──嘘、だろ。おい、ミラ──」


ミラの目はもう、ラウィスのほうも、セラフィナのほうも、見ていなかった。


ラウィスの目が、分かれ道の奥の暗がりのほうへ動いた。暗がりの中から、別の血喰狼の唸りが、新しく重なってきていた。


「セレナさん」


ラウィスは、岩を頼って立ち上がった。立ち上がる動作のあいだ、彼の指は片手剣の柄を、握りきれないままに、ひと巻きの革ごと握り直した。父の指が長年握ってきた柄の革は、ラウィスの指の隙間で、彼の指の癖をまだ覚えきらないまま、薄く軋んで鳴った。


「ミラを、連れて、逃げてくれ」


「ラウィス」


「俺が、引きつける」


ラウィスは、分かれ道の奥のほうへ、剣の先を向けた。


ラウィスの片方の指が、剣の柄を、いつもの癖で、強く握った。緊張のときに無意識に握る父譲りの癖が、最後にも、戻った。彼はもう、剣の柄から指を離さなかった。


セラフィナの祈りの一語が、出る前に、止まった。彼女は祈りの届く側にもう、ラウィスがいない、と知った上で、それでも一語を出そうとした。出そうとした一語は、ラウィスが暗がりの中に踏み出した一歩のあいだに、口の中で散った。


ラウィスの足音が、暗がりの中で、二歩、三歩。


それから、剣の打ち合わせの音と、低い唸りと、人の声の何かが、いちどきに重なった。


人の声の何かは、ラウィスの声であったかもしれず、なかったかもしれなかった。重なった音が止んだあとは、また、奥の暗がりからの低い唸りが、別の方向に動き始めた音だけが残った。


セラフィナは、ミラの体の側で、しばらく動かなかった。


ファビウスが、何か言おうとした。


「逃げてください」


セラフィナは、彼の目を見ないで、低く言った。


「アレクのほうの蛇は、まだ動きます。ラウィスのほうも──だから、もと来た方へ。下がってください、お願いします」


「セレナ様は」


「私は、後から行きます」


ファビウスはそれきり何も言わなかった。彼の足は彼の意思のずっと先で、もう、口の方へ向かって動き出していた。彼の体は若かった。若い体は、選択をするより先に、足が選択している。


ファビウスは、分かれ道の角を曲がる前に、一度だけ振り返った。


振り返って、何か言いかけて、結局、言わずに、消えた。


セラフィナは、ミラの胸元の白法衣の合わせを、自分の指で、ゆっくりと開いた。合わせの内側、肌と布のあいだに、布で包まれた小さな硬さがあった。


布の中から、小さな書が出てきた。


擦り切れた革の表紙に、薄く擦れた文字が押されていた。文字は読みかけたが、もう半分は読めなかった。おそらくはミラの母の手で繰られていた紙の縁が、十年以上の指の癖で、内側へ柔らかく丸まっていた。


セラフィナは、その小さな書を、自分の聖印と一緒に、布で包んで、胸元の内側にしまった。


しまうあいだに、彼女の指の先には、まだ、ミラの体温が残っていた。


奥の暗がりからは、まだ低い唸りが聞こえていた。けれども、ふっと、その唸りも遠ざかった。血喰狼たちは、新しい血の匂いに移っていく。残された三つの体の血の匂いに。──そのうちの三つ目の、いちばん新しい血の匂いは、暗がりの中で、まだ動いていた。


セルウィウスが、彼女の傍に立った。


「お嬢様」


その呼び方を、彼は人気のない場所で使う。


「もう、戻ります。もと来た方へ」


セラフィナは聖印の留め具を握り直して、立ち上がった。立ち上がる動作が、少しだけ重かった。重かったのは奇跡を使ったからではなく、三つの体の側から離れる、というその動作の中に、何か、彼女の足の裏が踏みつけなければならないものが含まれていたからだった。


◆◆◆


階段は、降りたときよりも、長く感じられた。


セラフィナとセルウィウスの二人だけが、その階段を昇っていた。途中で、降りていく別の冒険者の一団とすれ違った。すれ違いざまに彼らはセラフィナの様子を見て、何かを察したらしく、短く目礼だけして降りていった。彼らもまた、明日から降りる者たちであり、今日から降りる者たちであり、これから何かが始まる者の、明るい気負いの中にいた。


その気負いの中に、彼女はもう入っていけなかった。


入っていけないことを、彼女は階段の途中で確かめた。確かめてしまったあとは、ただ、足を一段ずつ、上へ動かすだけだった。


迷宮の口の縁に出ると、午後の光が、まだ強かった。


降りる時間と昇る時間は彼女の中ではまるで違う長さだったが、街の側ではまだ昼を少し過ぎたばかりだった。見張り台の見張りが彼女と彼を見て、無事に上がってきたな、という顔をした。けれどもその顔は、四人の連れがいない、ということまでは特に気にしなかった。気にする理由がなかった。冒険者の街では、降りた者の何人かは、上がってこない。それは、当たり前のことだった。


街の通りの方からは市の声と人の声と装備の擦れる音が、いつものように届いてきた。


露店の油の匂い、子供の声、誰かが何かを呼ぶ声。


通りのほうへ少し歩くと、玩具屋の前で昨日と同じくらいの背丈の男の子が木剣を握って何かを振り回していた。子供は昨日の子と同じ子だったかもしれず、別の子だったかもしれなかった。母親らしい女が、その子を見ていた。


その母親が、玩具屋の主人と、何かを話していた。


「あら、もう、降りたの」


母親は、そう言った。


「気の早い子たちだから」と玩具屋の主人が答えた。「今年は、そういう子が多いね」


母親は短く頷いて、子供の方へまた目を戻した。子供は木剣を振り続けていた。


セラフィナは、その横を通り過ぎた。通り過ぎる間、彼女は誰の顔も見なかった。誰の顔も見ないで歩いているのに、街の方は、彼女のことを、何ら見ていなかった。


街は、何も変わっていなかった。


宿の女将が、お帰り、と短く言った。


「あら、お連れさんたちは」


女将はそう尋ねた。けれども、答えを待たずに、すぐに首を振った。


「ああ、いいよ、聞かない。聞かないほうが、お互い、ね」


女将は、聞かない、という選択を、長くこの街でやってきたらしかった。聞かないことが、この街では、誰にとっても、いちばん収まりのいい受け止め方だった。


セラフィナは、二階の角部屋に上がった。


部屋の戸を閉めて、寝台の縁に腰を下ろした。


聖印の留め具を、手のひらの中で転がした。赤い涙滴の形の宝石が、午後の光に照らされて、薄く赤を返した。


それから、彼女は、もう一つの手のひらを開いた。


ミラの母の祈祷書が、そこにあった。


革の表紙は、もう艶のないところまで擦れていて、革の角の方が、内側へ丸まりかけていた。表紙の文字は、上の二字がかろうじて読めて、その下が、もう読めなかった。革の縁の傷み方が、ひとつの指の癖の繰り返しを覚えていた。母の指か、ミラの指か、あるいは両方の指か。


セラフィナは、その小さな書を、しばらく見ていた。


見ながら、彼女は、何も考えていなかった。考えるための言葉が、しばらく、彼女の中から離れていた。


書のあいだに、一枚の紙が、ほんの少しだけ顔を出していた。


彼女は紙を引き出さなかった。引き出さないまま、表紙の縁を、一度だけ、布の上から押さえた。


ミラは、お母さんの祈祷書、と言った。お父さんには秘密にして、と言った。お姉ちゃんになれって言われた、なれないかも、とも言った。三つの言葉のうち、最後の一つは、半分しか言わないまま止まった。


しばらくして、戸の外で、ひと呼吸の沈黙が、聞こえた。


「お嬢様」


セルウィウスの声だった。


「お湯を、もらってきました」


セラフィナは、祈祷書を布で包んで、聖印と一緒に、胸元にしまった。


「ありがとう」


「明日、どうされますか」


セルウィウスは、戸の向こうで、それだけを尋ねた。


明日、という言葉を、彼が口にした。


「明日」


セラフィナは、繰り返した。


「明日も、降ります」


「──分かりました」


セルウィウスの返事は、ひと呼吸だけ遅れた。遅れたのは、彼女の答えが意外だったからではなかった。彼はその答えを、たぶん、ここに上がってくる階段の途中で、もう予期していた。その間は、彼が自分の中で、その答えと、自分の役目とを、一度、整え直すための間だった。


「お湯、置いておきます」


「ええ」


セルウィウスの足音は、廊下の向こうへ消えた。


セラフィナは、寝台の縁に座ったまま、しばらく動かなかった。動かないでいると、窓の外から、いつものように、市の声と、誰かが何かを呼ぶ声とが、薄く届いてきた。


明日も、降りる。


その声を、彼女は心の中だけで言った。誰にも届かない場所で言った。届かない場所で言ったその声を、彼女自身の耳の奥が、もう一度受け取って、それで彼女はゆっくりと、寝台の上に体を倒した。


体を倒した直後、頬の側に、ミラの母の祈祷書の、小さな硬さが当たった。


その硬さを、彼女は手で除けなかった。


◇◇◇


夕暮れになる頃、街はまた、いつものように賑わい始めた。


降りた者が上がってきて、一日の働きを酒に変える刻限だった。酒場の灯がいちだんと明るくなり、その明るさのあたりから、絶えず声と笑いがこぼれていた。


その明るい声の中には、もう、昨日の四人の声は無かった。


街は、それを、特に数えなかった。数える者は、街にはいなかった。降りた者の何人かは上がってこない、ということを、街は、長く、当たり前のこととして受け取ってきた。当たり前のこととして受け取ってきたからこそ、街は、明日もまた、灯を絶やさずに、歌い続けることができた。


宿の角部屋の窓の隙間から、その明るい灯のいくつかが、見えた。


灯のいくつ。


それを数えようとした者は、その夜、街にはいなかった。


数えていたのは、その角部屋で、まだ眠れずに天井を見上げていた、一人の娘だけだった。


娘は、自分の胸元に手をやって、布の上から、二つの小さな硬さを確かめた。一つは聖印の留め具で、もう一つは、預かったばかりの祈祷書の革の表紙だった。


二つとも、まだ、温かかった。


温かさは、すぐに、彼女の手のひらの温度と、見分けがつかなくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ