第一話「兆しの街」
街は、坂の途中から見えた。
岩肌を削った街道が最後の尾根を越えると、視界の下のほうに、すり鉢の底のような窪地が広がっていた。窪地の中心に石造りの街があり、その向こうに、地面が大きく口を開けていた。トワ迷宮の入口だった。
話には聞いていたが、これほど大きいとは思っていなかった。迷宮の口は街の三つ分ほどもあって、その縁を石の柵と見張り台がぐるりと囲み、口の内側へ階段が幾重にも降りていた。
降りていく人影が豆粒のように小さく見えた。
「あれが、トワ迷宮の街ですか」
セラフィナは、隣を歩く男に尋ねた。
「カエルム・ペルペトゥウム、と土地の者は呼びます」
セルウィウスは、半拍ほど置いてから答えた。彼はいつも、こちらが何か言ってから、ひと呼吸の間を空けて返事をする。急いでいないのではなく、相手の言葉を終わりまで聞いてから口を開く、という風だった。
「永遠の天蓋、という意味だそうです」
「天蓋」
「迷宮の口が大きすぎて、晴れた日でも内側に空がもう一つあるように見える、と。誰が言い始めたのかは知りませんが」
セラフィナはもう一度、窪地の底を見た。街の屋根が午後の光を受けて、薄く赤みを帯びていた。土地の石にそういう色のものが多いのだろう。遠目には、街そのものが少しだけ血の色を含んでいるように見えなくもなかった。だが嫌な感じはしなかった。
窪地の底の街は、坂の上から見てもそれと分かるほど人の出入りが多かった。迷宮の口へ向かう道と、口から街へ戻る道に、人影が絶え間なく行き来している。そのまわりに屋根がびっしりと寄り集まって、煮炊きの煙や、何かの作業場の湯気らしいものが、あちこちから幾筋も立ちのぼっていた。
人の住まう熱、とでも言うものが、ここからでも感じ取れた。迷宮を抱えた街は、こうも賑わうものなのか、とセラフィナは思った。
「降りましょう」
セルウィウスが言って、先に歩き出した。
セラフィナは旅装の肩掛けを掛け直して、後を追った。彼女の足は男のそれより半分ほどしか進まないので、少し小走りになる。背が低いのはもう諦めていた。子供の頃からそうで、これだけは祈っても伸びなかった。
坂を下りきると、街道は石畳に変わった。
◇◇◇
街は、想像よりずっと賑やかだった。
門をくぐると、すぐに市の通りに出た。露店が両側に並び、香ばしい油の匂いと、何かを焼く煙と、人の声がいっぺんに押し寄せてきた。荷を担いだ男が「通るよ、通るよ」と声を上げながら肩で人波を分けていく。その後ろを、装備の擦れる音をさせた一団が連れ立って歩いていった。剣を背負い、革鎧をまとい、腰に魔石帯を巻いた者たちだった。冒険者だ、とセラフィナにも分かった。彼らの誰かが冗談を言ったらしく、一団がどっと笑った。
通りには、そういう装いの者がいくらでもいた。迷宮の口から上がってきたばかりらしい、土と汗にまみれた一団もいれば、これから降りるのか、装備を整えながら何か相談している若い者たちもいた。露店はその者たちを当て込んで並んでいるのだろう、武具の修繕を請け負う店や、携行用の干し肉や、油を売る店が、食い物の屋台に混じって軒を連ねていた。宿らしい看板も、見渡すかぎりに幾つも出ている。人の流れも声も、迷宮の口のほうへ、ゆるく傾いていた。街じゅうが、あの地面の口を中心にして回っているのだと、通りに立っているだけで分かった。
セラフィナは、その人波を見渡した。
「冒険者が、こんなに」
「迷宮の街ですから」
セルウィウスは、人とぶつからないよう少し歩みを緩めて、彼女の隣まで下がってきた。
「諸国から、これで身を立てようという者が集まります。降りて、何か持って上がれば、それが金になる。街はその者たちで食べている。──ここは、そういう街です」
セラフィナは、もう一度通りを見渡した。
露店の一つは、子供向けの玩具を売っていた。木を削って彩色した剣や、布で作った小さな獣の人形が籠に山と積まれている。その隣で、若い母親らしい女が、三、四歳くらいの男の子の手を引いて立ち止まっていた。男の子が木剣の一本を握って離さない。
「おうさまをやっつけるんだ」
男の子が剣を振り回しながら言った。
「主様ね」と母親が苦笑した。「主様は、強いのよ。おまえみたいな小さい剣じゃ、ねえ」
「ぼくつよいもん」
母親が玩具屋に銅貨を渡してやると、男の子は剣を抱えて飛び跳ねた。母親は釣り銭を受け取りながら、玩具屋の主人と何か二言三言、交わしている。次の主が近いらしいだの、今度はどこのパーティが選ばれるかだの、そんな世間話だった。母親の声には張りがあって、その張りは、よその土地の噂をひとつ仕入れた者の、ありふれた声だった。
その玩具を、男の子は当たり前のように握っていた。主を玩具で討つ子供がいて、それを売る店があって、母親はそれを止めもしない。三十年に一度のことが、この街では子供の遊びにまで沁み込んでいるのだ、とセラフィナは思った。何度も繰り返してきたから、もう習わしになって、習わしになったから、こうして玩具にもなる。誰も特別なことだとは思っていない。
近いのだ、とセラフィナは思った。
その思いは、母親の張りのある声とは、まるで別の温度をしていた。
セラフィナは、母親と男の子から目を逸らした。そうしなければならない気がした。あの母親にとって、近い主は世間話の種で、子供の玩具で、それきりのものだった。セラフィナにとっては、そうではなかった。なぜそうではないのかを、彼女は今ここで考えるわけにはいかなかった。考え始めると、足が止まる。足を止めている時間が、彼女にはない。
「セレナさん」
セルウィウスの声がした。
セラフィナは一拍遅れて、自分が呼ばれたのだと気づいた。セレナ。慣れたつもりでいても、まだ時々、自分の名前として遅れて届く。
「はい」
「先に宿を取りましょう。それから、ギルドへ」
「ええ」
「人混みでは、あまり離れないでください」
セルウィウスはそれだけ言って、また前に出た。彼女が小柄で人波に呑まれやすいのを承知しているのだろう、彼は通りの広いほうへ広いほうへと、それとなく道を選んでいた。
◇◇◇
宿は、迷宮の口に近い区画の一軒だった。
冒険者向けの安宿が固まっている一帯で、表通りより一段静かだった。古いが手入れのされた木造の宿で、女将が二人を二階の角部屋へ通した。二部屋。セルウィウスが廊下を挟んだ向かいを取った。
「お嬢様」
荷を下ろし、女将の足音が階下へ消えてから、セルウィウスがそう言った。
部屋の戸を半分開けたまま、廊下に立った彼の声は低かった。人前では決して使わない呼び方だった。彼はそれをよく心得ていて、街の中では一度も口にしなかった。二人きりの、戸の閉じられる前のわずかな間にだけ、それは漏れた。
「外では、セレナと」
「分かっています」
セラフィナは振り向いて、少しだけ笑った。
「あなたのほうが、よほど気をつけてくださっているのに」
「癖です」
セルウィウスは表情を変えずに言った。
「直しておきます」
その淡々とした言い方が、なぜか可笑しかった。セラフィナは小さく笑い、ここまで来た、という安堵が、ほんの一瞬、彼女を緩めたのかもしれなかった。
「ギルドは、まだ開いていますか」
セラフィナは尋ねた。土地のことを何も知らないので、いつも誰かに確かめる形になる。
「夕刻までは。今からなら間に合います」
「では、行きましょう」
セラフィナは聖印の留め具を確かめた。白い布に、赤い涙滴の形の宝石が縫い留められている。奇跡を扱う神官の印だった。本物だった。ただし、それを身につけている娘の名が本物でないだけのことだった。
◆◆◆
冒険者ギルドは、迷宮の口のすぐ脇に建っていた。
石造りの大きな建物で、扉は両開き、出入りする冒険者がひっきりなしだった。中に入ると、天井が高く、声がよく響いた。壁の一面が掲示板になっていて、依頼の紙が隙間なく貼られている。その前に冒険者たちが立って、紙を選んだり、仲間と相談したりしていた。
掲示板の上のほうに、ひときわ大きな紙が一枚、貼ってあった。縁に飾りがついていて、他の依頼書とは扱いが違うのが一目で分かる。セラフィナにはそこに書かれた文字までは読めなかったが、近くにいた冒険者の話し声が、それの中身を教えてくれた。
「もう貼り出したのか、討伐祭の触れ」
「気が早いだろう。主が生まれるまで、まだ間があるって話だぞ」
「間があるったって、三層を抜けるのにどれだけかかると思ってる。今から場所の見当をつけとくパーティが出ても、おかしかない」
セラフィナは、その会話に耳を傾けながら、受付の列に並んだ。
──三層を抜けるのに、どれだけかかると思ってる。
その一言が、彼女の胸の奥に冷たく落ちた。冒険者たちはそれを、気の早い見積もりとして話していた。先走る者がいるな、という程度の話として。だが彼女にとって、その一言は別の意味を持っていた。最下層まで降りるのに、年単位の時がかかる。そのことを、彼女はとうに知っていた。知っていたから、こんなにも早く、ここへ来たのだった。まだ触れが貼り出されたばかりの、誰も急いではいない、この時期に。
受付の前まで来た。
「いらっしゃい。登録?」
受付の娘が、てきぱきと尋ねた。若い、そばかすのある娘だった。胸元に職員の徽章をつけている。
「はい」とセラフィナは答えた。「二人とも」
「冒険者は初めて?」
「私は。連れは、以前に少し」
セラフィナは丁寧に、しかし神官らしい落ち着きを崩さないよう答えた。受付の娘は慣れた手つきで台帳を開き、羽根ペンを取った。
「お名前は」
「セレナ・ヴェスペル」
娘が書き取る羽根ペンの音を、セラフィナはじっと聞いていた。台帳に名が記される。セレナ・ヴェスペル。夕べの祈り、という意味の名だった。誰がつけたのか、彼女は知らない。自分でそう名乗ると決めただけだった。その名が紙の上に黒々と残っていくのを見ていると、本当の名前のほうが、少しずつ遠くなっていく気がした。それでよかった。遠くなればなるほど、追ってくる手から離れられる。
「お仕事は? 神官さんだよね、その印」
「奇跡を、少し」
「少し、ね」と娘は笑った。「神官さんは引っ張りだこだよ。パーティ組むなら、すぐ声がかかると思う。──連れの方は?」
「セルウィウス」
セラフィナの隣で、男が短く名乗った。
「剣を」
「武器は剣のみ、と。ご職業は?」
「護衛を、長く」
娘は淡々と書き取っていった。セラフィナは、セルウィウスのその受け答えに、わずかな感心を覚えた。嘘は一つも言っていない。護衛を長くしてきた、というのは本当のことなのだろう。ただ、誰のための護衛だったかを言わないだけだった。彼はいつもそうだった。問われたことには答え、問われないことは口にしない。それで、彼の周りには余計な情報が一切残らなかった。
セラフィナは、彼がどこから来たのかを、よく知らなかった。
兄が寄越した人だ、ということしか知らなかった。旅立つ前、兄ルシアンは「セルウィウスを連れていけ」とだけ言った。信のおける者だ、と。それ以上は語らなかった。兄はいつもそうで、肝心なところは語らずに、ただ守ろうとした。守られていることは分かっていた。分かった上で、それでも彼女は出てきたのだった。
「はい、これで登録完了。ギルド章、二人分」
娘が小さな木の札を二枚、台の上に置いた。焼き印で番号と紋章が入っている。
「気をつけてね。──最近、変な噂もあるし」
「噂、ですか」
セラフィナが札を受け取りながら問い返すと、娘は少し声を落とした。
「迷宮と関係あるかは分かんないけどさ。よその街で、急に体を悪くして亡くなる人が増えてるんだって。元気だった人が、ある朝ぱったり、みたいな。あと、手とか足とかが、わけもなく動かなくなったりとか」
「……それは」
セラフィナは、半ば言いかけて、口をつぐんだ。ある朝ぱったり、というその言い方が、神官の耳に、妙な手触りで触れた。元気だった人が、前触れもなく。それは病の崩れ方とは、どこか違う気がした。どう違うのかと問われれば、彼女にも答えられなかったけれど。
「分かんない。流行り病かもって言う人もいるし。まあ、ここの話じゃないから。気にしすぎないで」
娘はそう言って、もう次の客のほうを向いた。
セラフィナは札を握ったまま、しばらく動かなかった。
流行り病。そういうことにしておくのが、たぶん、いちばん収まりがいいのだろう。誰も困らない。原因が分からないものに名前をつけて、棚に上げておく。彼女自身、そうやって棚に上げてきたものが、いくつもあった。だから、その娘の言った「元気だった人が、ある朝ぱったり」という言い方が、なぜか耳の奥に残った。残ったが、それが何なのかを、彼女は今は考えないことにした。考えることが多すぎた。一つずつでなければ、潰れてしまう。
「セレナさん」
セルウィウスが、出口のほうへ目で促した。
「ええ」
セラフィナは札を懐にしまって、彼の後について歩き出した。
◇◇◇
ギルドを出ると、外はもう夕暮れに傾いていた。
迷宮の口の縁に立つ見張り台に、灯がともり始めていた。口の内側からは、絶えず冷たい空気が流れ上がってきていた。地下の、深いところの空気だった。それは街の温んだ夕風とは違う匂いをしていて、鼻の奥に、うっすらと錆びたような、何かが古びていくような匂いを残した。
セラフィナは、迷宮の口の縁まで歩いていって、下を覗き込んだ。
階段が幾重にも降りて、底のほうは暗くて見えなかった。降りていく冒険者の灯が、途中までは見えたが、ある深さから先は、闇に吸い込まれるように消えていった。あの底の、さらにずっと下に、彼女の目指すものがあった。三層を越え、最下層へ。年単位の道のりだった。それを、彼女はこれから始める。
「明日から、ですね」
セルウィウスが、彼女の隣に立って言った。彼も口の底を見下ろしていた。
「ええ」
「お嬢様」
人気はなかった。縁には、見張りの男が一人、離れたところに立っているきりだった。だからセルウィウスは、その呼び方を使った。
「まだ、引き返せます」
セラフィナは、彼のほうを見なかった。
「それを言うために、兄が、あなたを?」
「半分は」
セルウィウスは正直に答えた。
「お嬢様を引き止めること。それが、私の役目のうちの一つです」
「そう」
「あと半分は、お守りすること」
「では、両方とも、難しい役目を引き受けてしまったのですね」
セラフィナは、迷宮の口を見下ろしたまま、静かに言った。
「引き止められても、私は引き返しません。けれど、守られることは、たぶん、必要になります」
セルウィウスは、しばらく黙っていた。彼の沈黙は、答えに窮した沈黙ではなかった。言うべきことを選んでいる沈黙だった。
「……承知しております」
それだけ、彼は言った。
セラフィナは、ようやく彼のほうを見た。夕闇の中で、男の横顔は静かで、何を考えているのか読めなかった。ただ、彼が引き返せと言ったのは、たぶん本心だったのだろう、と彼女は思った。本心で引き止め、本心で守る。その二つが矛盾していても、彼はどちらも本気でやる人だった。
「セルウィウス」
「はい」
「兄は、元気にしているでしょうか」
問うてから、彼女は少し後悔した。聞いてはいけないことだった気がした。だが、口から出てしまっていた。
セルウィウスは、いつものように半拍置いてから答えた。
「私が発つときには、お変わりなく」
「そう」
兄の体は、丈夫ではなかった。昔から、ずっとそうだった。季節の変わり目には決まって臥せったし、無理をすればすぐに熱を出した。それでいて、兄は自分の体を顧みなかった。やらなければならないと思ったことは、体を引きずってでもやる人だった。子供の頃から、ずっとそうだった。
セラフィナは、ふいに、遠い記憶を思い出した。
まだ二人とも幼かった頃。何があったのかは忘れた。ただ、彼女が誰かに咎められて、泣きそうになっていた。そのとき、兄が彼女の前に立った。小さな背中だった。彼女よりは大きかったが、大人から見ればまだ子供の背中だった。その背中が、彼女と、彼女を咎める者との間に、割って入った。兄は何を言ったのだったか。それも忘れた。覚えているのは、その背中だけだった。自分の体は丈夫でないくせに、いつも、誰かの前に立つ背中だった。
だから、と彼女は思った。
だから、今度は、私が。
その続きを、彼女は心の中でも最後まで言わなかった。言葉にしてしまうと、それが「兄を犠牲にしないため」という、何か条件のついた決意に聞こえてしまう気がした。そうではなかった。条件などなかった。ただ、自分がやる、というだけのことだった。それ以上の言葉は、要らなかった。
セルウィウスが、ふと口を開きかけた。
何かを言おうとして、けれど彼は、その言葉を喉の手前で留めた。半拍の、いつもの間ではなかった。言うか言うまいかを量って、結局、言わないほうへ傾いた、そういう間だった。
「冷えてきました」
と、彼は言った。
「宿へ戻りましょう。明日は、早いほうがいい」
「ええ」
セラフィナは、彼が何を飲み込んだのかを、問わなかった。問えば答えないだろうし、問わなければ、彼はそれをずっと飲み込んだままでいるのだろう。それでよかった。人にはそれぞれ、口にしないものがある。彼女にも、あった。
セラフィナは迷宮の口に背を向けた。
背を向けると、街の灯が目に入った。窪地の底に、無数の小さな灯がともって、坂の上から見たときよりもずっと温かく見えた。日が落ちても、街は静まる気配がなかった。むしろ夕暮れと入れ替わりに人の出が増えたようで、酒場の灯がいちだんと明るく、その明るさのあたりから、絶えず人の声がこぼれていた。降りた者が上がってきて、一日の働きを酒に変える刻限なのだろう。
その酒場のあたりから、若い声が幾つか、いちどきに上がった。笑い声に押し上げられるようにして、誰かが酒杯を掲げているのが、遠目に見えた。まだ装備も真新しい、駆け出しらしい一団だった。明日にも迷宮へ降りる相談でもしているのか、声には、これから何かが始まる者の、明るい気負いがあった。
明日から、降りる者たちだった。
彼女も、明日から降りる。同じ口を目指しているのに、向かう深さが、こんなにも違った。
その思いは、誰にも言わなかった。
セルウィウスにも。
セラフィナは、温かい街の灯のほうへ、一歩を踏み出した。背の低い影が、石畳の上に細く伸びて、男の長い影の隣に並んだ。
明日から、降りる。
◇◇◇
その夜、セラフィナはなかなか寝つけなかった。
宿の角部屋は静かだったが、窓の外からは、まだ街の物音が遠く届いていた。酒場のものらしい、楽しげな喧噪だった。彼女は寝台の上で体を起こし、窓の外を見た。隙間から、いくつかの灯が見えた。
聖印の留め具を、手のひらの中で転がした。
赤い涙滴。奇跡の印。彼女は奇跡を扱える。それも、よく扱えるほうだった。傷を塞ぎ、痛みを取り、折れた骨を継ぐことができた。どれだけ続けて祈っても、彼女は疲れなかった。他の神官が一度の大きな祈りで何日も寝込むようなときでも、彼女は平気だった。それを、彼女は幼い頃から、自分にとって当たり前のことだと思ってきた。当たり前すぎて、不思議に思ったこともなかった。
そして、もう一つ、当たり前だと思ってきたことがあった。
自分は、長くは生きないだろう、ということ。
それがなぜなのかを、彼女はうまく言えなかった。理由があるわけではなかった。ただ、物心ついた頃から、漠然と、そう感じていた。自分の体の中に、終わりへ向かう何かが、初めから組み込まれているような感覚。それを、彼女は誰にも話したことがなかった。話したところで、心配をかけるだけだった。だから、その感覚も、棚の上に上げてきた。
彼女は留め具を握る手に、少し力を込めた。指の先が、赤い涙滴の、滑らかな面をなぞった。
「血より、命は……」
口の中で、ごく小さく、唱えていた。それは奇跡の聖句ではなかった。もっと別の、重い言葉だった。いつ覚えたのかも、誰に教わったのかも、彼女には思い出せなかった。物心つく前から、胸のどこかに沈んでいた切れ端のような言葉だった。意味の半分は、もう剥がれて分からなくなっていた。
その先を、彼女は続けなかった。
続けようとして、口が止まった。なぜ止まったのかは、自分でも分からなかった。ただ、思い出してはいけない、という気がした。なぜそう感じるのかは、彼女にも分からなかった。
途中で途切れたその沈黙の中に、街の遠い喧噪が、また入ってきた。
セラフィナは、留め具をしまって、寝台に横になった。
目を閉じると、迷宮の口の、底の見えない暗がりが、瞼の裏に残っていた。あの底へ、明日から降りていく。途中で、何が起きるか分からなかった。それでも、降りるしかなかった。彼女には、ここから先へ進む以外の道が、もう、なかった。
遠くで、酒場の歌が、ひとふし聞こえた。
それを子守唄のように聞きながら、セラフィナはようやく、浅い眠りに落ちていった。
街は、眠らなかった。
歌は夜更けまで続き、酒場の灯はいつまでも明るかった。あの駆け出しの一団も、まだどこかで杯を交わしているのかもしれなかった。迷宮を抱えたこの街は、毎日こうして賑わうのだろう。誰かが降り、誰かが上がり、上がった者が酒を飲み、明日また降りる。三十年に一度、主が生まれ、それを討つ。それすらも、この街にとっては、長い長い営みのなかの一巡りに過ぎなかった。これまで何度も繰り返し、これからも繰り返す巡りのひとつとして、街はただ、回り続けていた。
街は、その宿の角部屋で眠った娘が誰であるかを、知らなかった。
そして、街もまた、知らなかった。次にあの主の巡りが来るまでのあいだに、この明るい灯のうちのいくつが消えるのかを。明日、あの口へ降りていく者たちのうち、何人がもう二度と昇ってこないのかを。それを知らずに、街は歌い、灯を絶やさずにいた。
◆◆◆




