第三話「終わり」
クァエスが倒れる音は、聞き慣れた音ではなかった。
油の小瓶が割れる音、灰の袋が地面に落ちて広がる音、革のこすれる音――そのどれもがいつも通りだったのに、相棒の音の順番が、ひとつだけ抜け落ちていた。クァエスには癖があって、倒れる直前にいつも「あ、これは」とひとこと、質問の続きみたいな抑揚で声を出すのだが、それが、今は無かった。
それで分かった。
戦士の男は、胸の留め金を、一度握り直した。父の遺品は、もう自分の左肩には乗っていなかった――長剣は自分で買ったもので、鎧も自前、父から渡されたのは古い重装鎧の左肩当てだけで、その左肩当ては今朝、家に置いて出た。なぜ置いて出たのか、戦士の男は自分でもうまく言葉にできなかった。ただ、家の道具箱の中に父の部品だけは置いておかなければならない気がした、それだけのことだった。妻にも息子にも告げなかった。
留め金の革の縁を指の腹で軽く撫でると、ついさっき擦り付いた油膜がまだ薄く残っていた。クァエスが最後に投げた小瓶が目の前のものに弾き返されて、戦士の男の左肩を撫でて飛んでいったのだ――狙いを外したのではなく、塊の縁が油の弧を内側からなぞって、軌道だけを外へ押し戻した。
油は、それの縁の右寄りに広がっていた。
それ、と戦士の男は心の中で呼んだ。最下層の血溜まりに沈んでいたものが、ゆっくりと縁を増やして起き上がったその塊を、人の言葉で何と呼べばいいのか、彼は冒険者人生のなかで一度も言葉を見つけたことがなく、魔物という語で片づけられないものに出会ったことが、彼にはなかった。
血だ、と思った。血しか見えない。彼の二十年は、目の前の塊のどこにも引っかかりを見つけられずにいた。爪のような形があると思って見れば、その付け根がもう骨に変わっていて、骨だと思えば縁の肉に溶け、髪のような細いものが生えたと見るうちに別のものに育っている。どこが頭か、どこを断てば止まるのか、彼の経験のどこにも、その形に重なる像がなかった。
爪も、骨も、肉も、ひとつの形にまとまる前に、塊の内側で並べ直されていた。中央寄り、最も澱の濃いところに、歯のような形のものが奥で光っていた。
腰が、痛む。
いつも痛む箇所だ。若い頃、北の戦線で岩の下敷きになって以来、左の腰骨の少し上の辺りに、誰にも言わずに抱えてきた痛み――クァエスにも言っていないし、フラマにもピアにもシビュルにも、もちろん息子にも妻にも、誰にも。ピアにだけはたぶん知られている――彼女は癒し手だから、こちらが頼まなくても、夜営の夜の祈りに合わせて何かを置いていく癖がある。
「リーダー」
フラマの声が、低く、抑揚を抑えたまま、左後方から届いた。
「火、入れる」
短い。いつも通り短い、まだ生きている人間の声だった。だがエベヌスの黒い杖の頭が、暗がりの中で違う光り方をしているのに、戦士の男は気づいた。腰の魔石帯の魔石が、いくつ目だ――三つ目だ。三つ目を割るというのは、彼女が相棒として組んできた歳月のなかで二度しかやらなかった――二度とも、彼女の傍に立っていた誰かが死んだ後だ。
「下がれ」
戦士の男は短く返した――指示というよりは合図だった。フラマには指示は要らず、彼女は火を放つ位置を自分で決めて、自分の火が誰にも届かないよう、味方の輪郭を頭の中で測ってから放つ。
「リーダー」
今度はピアの声が、右前方から重なって届いた。
「腰、また」
「いいから後ろを」
「ええ」
ピアの返事は、いつもより半呼吸早かった。戦士の男はそれに気づかない振りをした――気づいたら、自分の腰の痛みが意識に上がってくる。今夜、痛みは要らない。
シビュルが戦士の男の右の少し前、半歩だけ離れた位置で、長い尾の先を地面に這わせていた。寒さで尾が鈍るのを誤魔化すための癖だった。ただ瞬膜だけが、時々、下りていた。
その瞬膜が、今、二回続けて落ちた。
戦場霊への祈りが彼の中で始まったのだ。
戦士の男は視界の隅でそれを確かめてから、もう一度、目の前の塊に視線を戻した。
それはクァエスの動きを、内側から覚えていた。
灰の撒き方、油の弧、低く滑る歩幅――それらの感触を塊の縁が節をひとつ伸ばしてなぞるのを、戦士の男はさっき確かに見た。クァエスを内側から開いた直後に、塊はクァエスの弧を自分の縁に並べ直していた。
それでフラマが火を入れる、と言ったのだ。
クァエスの動きをそれが纏う前に焼き尽くす、クァエスを真似た節をもとの澱に還す――彼女の判断は、戦士の男と一致していた。何度もこういう局面があって、そのたびに彼女は彼の指示を待たずに火を入れてきた。
ただし今夜の火は、いつもの火ではない。
天井から、ぴちゃり、と何かが落ちた。
戦士の男の頬の横を、滴がひとつ、軽く擦って落ちていった。誰の血が上から落ちてきているのか、戦士の男には分からない。最下層の天井からはずっとそれが落ちている。ずっと。冒険者人生で何度か潜ったが、滴の落ちる音だけは、いつ来ても変わらない。
息を、一度、整えた。
クァエスの油の匂いが、彼の鼻先に残っていた――割れた小瓶から漏れた油が、相棒の体の下で、ゆっくりと広がっていく匂い。その匂いを覚えておく時間が、いま戦士の男にあるはずがなかったが、息を整える一拍の間に、匂いは確かに鼻の奥に置かれた。
「《イグニス・サンクトゥス・コンフラグラティオ》」
フラマの声が、深くなった。
息の重なりが、密になる。彼女の周囲の空気が内側から圧されるように歪み、エベヌスの杖の先の魔石が三つとも同時に割れる音がして、その割れた切片が床に落ちる前に灰になった。割れた魔石の灰をフラマは見ず、彼女の視線は塊の縁の左寄り――クァエスを取り込んだ場所――に、まっすぐ向けられていた。
「全部、焼き尽くす」
そう、ひとことだけ戦士の男に向かって告げた。長い付き合いの中で初めて、彼女が彼に「指示の確認」をした言葉だった。
「撃て」
戦士の男は答えた。それ以外の言葉は要らなかった。
火が、彼女の前方に生まれた。
長く、低く、整った音が空気を切るように流れ始め、前の音より長く、密で、ほどけずにつながって、別の温度に変わっていた。火は空気の中で形を取らず、色も、ほとんど見えない。だが戦士の男には分かった――彼の目の中心が一瞬抜け落ち、皮膚の表面が灼かれるような熱気を頬の側で受ける。十八のフラマが師匠を焼いたとき「見えなかった」と一度だけ酒に酔って漏らした、あの火が、これだ。
塊が、節をひとつフラマの方へ伸ばした。
伸ばしたのは、覚えたばかりのクァエスの弧だった。低く、滑るように、三歩前へ――クァエスの足が踏むはずだった三歩目を、塊の節が踏もうとした。
その三歩目に、火が落ちた。
弧の途中で節が消えた。消えるというより、消えたあとの形が空気の中に残らず、塊の縁の左寄りが火の中で輪郭を失い、その輪郭が失われる速さに塊の再生が追いつかなかった。
クァエスを真似た節が、消えた。
クァエスごと、消えた。
戦士の男はそれを横目で確かめながら、半歩、右に動いた。フラマの火が塊の縁の左寄りに集中している間に、右側を取る。塊の中央の、最も澱の濃い箇所――頭でも心臓でもないが、何か核のようなものがそこに沈んでいることを、彼の経験は告げていた――主級魔物を十数体相手にしてきた経験が、見えない核の場所を指していた。
「ピア」
戦士の男は呼んだ。
「リーダー」
「フラマを支えてやれ」
「ええ」
ピアが戦士の男の後ろから前へ動く気配がした――彼女の聖印が白い布の上で擦れる、柔らかい音、長く聞いてきて、礼を言ったことが一度もなかった音だった。
火が、二度目の温度に上がった。
フラマの口の中で詠唱句の最後が裂けるように長く伸び、彼女の喉から最初の血が出始めているのに、戦士の男は気づいた――気づいたが止めなかった。彼女は今夜、止められない火を入れたのだ――あの事故から積み重ねてきた火の代償が、今夜ここにすべて乗せられていた。
塊の左半分が、輪郭を保てなくなっていた。
フラマの杖が震え始めて、震えながらそれでも、まだ立っていた――彼女の腰の魔石帯の魔石はすべて尽き、割れた魔石の小さな破片が、彼女のローブの裾にこぼれて転がり落ちる音だけが、火の音の合間にぽとり、ぽとりと続いていた。
「リーダー」
ピアの声が、フラマの少し後ろで、ささやくように届いた。
「フラマ、もう」
「分かっている」
戦士の男は答えた。
フラマがこちらを向いた。向いたのに表情はなかった――彼女は感情の起伏を年々火に持っていかれてきたから、最後にこちらを向いた顔も、相棒として組み始めた頃の顔と、ほとんど変わらない。ただ口の端から、細い血が一筋、白い顎まで伝っていた。
「……灰にも、ならないか」
それが彼女の最後の言葉だった。
塊は、まだ立っていた。
左半分の輪郭は失われていたが、右寄りからすでに新しい縁が生え始めて、塊の中央の核は無事だった。フラマの火は確かに塊の半分を焼き尽くしたが、塊そのものは、まだ止まっていなかった。
フラマの体が、ゆっくりと前のめりに倒れていった。
杖は手から離れなかった――指の硬直のせいだろう、と頭の冷静な部分が思考した。エベヌスの黒い杖の柄が、彼女の倒れる体と一緒に床を打つ音が、ひどく軽く聞こえた――彼女の体がもう、ほとんど重さを持っていなかったからだ。
戦士の男は、フラマの倒れた方を見なかった。
見ると、止まる。止まれば、シビュルとピアまで塊に届く。
シビュルの尾の先が地面から離れる、ごく低い擦過の音が、戦士の男の耳の右側に届いた。瞬膜が落ちる、ほとんど音にならない湿った薄い瞬きと、彼が懐の彫像に指を一度だけ置く、こすれる短い音と、その三つが戦士の男の中に並んで、続けて、消えた。シビュルが祈りに入った。それだけが、戦士の男に届いていた。
「シビュル」
戦士の男は短く呼んだ。
「ああ」
シビュルが、低く乾いた声で応じた。
「お前の癖、覚えている」
「ああ」
「使うな、と言いたいが」
「ああ」
「使え」
「ああ」
それだけの会話だった。
塊は、すでに見ている――クァエスの動きを真似た節がフラマに焼かれた直後で、塊はフラマが何を焼いたかを内側でなぞっており、次に動くものの動きを、塊はさっきより早く、さっきより深く覚えるはずだった。
しかしシビュルは、戦士の霊の傍で死にたい男だった。戦士の男はそれを知っていて、止めなかった。
シビュルの尾の先が地面から離れた。
彼の体が、一拍、止まった。
その止まり方は、戦場で長く生きてきた者の止まり方ではなく、湿地の流派の祈りが彼の内側で組み上がっていく、その短い、しかし聖なる沈黙だった。
「戦場の霊よ」
シビュルが短く呟いた。
「我が良き戦いを」
呟き終わる前に、彼の体は走り出していた。
加速した一拍が塊の右寄りに突き刺さり、鉤槍の先が塊の縁の薄い箇所を裂き、長い尾がその下から、別の方向に巻き付いた。鉤槍と尾の二つの動きを同時に放つ蜥蜴人の組み技は、ホミネスには真似ができず、主級魔物のなかで、彼の組み技を完全に避けた魔物はこれまでいなかった。
塊はそれを避けなかった。
避けずに、受けた。
受けながら、戦士の男には塊が何を取り込んだのかが見えていた。鉤槍の振り方は確かに塊の縁に当たったが、当たった節はシビュルの鉤槍ごと内側へ運ばれず、長い尾が巻き付いた箇所には塊の縁が反応していない――やはり、長尾の動きは塊の内側に置き場が無かったらしい。
置き場のあるものが、ひとつだけあった。
シビュルが「遅く見える」一拍――霊に呼ばれる前の、聖なる沈黙の、その一拍だ。塊はそこを内側でなぞっていた。沈黙の長さと、その直後の加速のタイミング――それだけを塊はすでに覚え、加速の瞬間に自分の節を、シビュルの予定していた軌道の少しだけ先に置いた。
シビュルの鉤槍が塊の節に当たった。
当たった節はシビュルの加速の方向を内側から押し返し、押し返された加速はシビュルの体の中に戻った。蜥蜴人の体は、加速を内側に戻されることに生まれつき向いていない。
シビュルの体が半分だけ捩れた。
捩れた箇所から白い背骨が、革鎧を内側から押し上げた。
「――」
シビュルの口が、何かを言おうとして開いた。開いたが、出なかった――出なかったのは声ではなく息で、彼の肺が捩れの中で潰れていた。
倒れる前に、シビュルの口元が、満ちたように一度だけ緩んだ。
戦士の男は、シビュルが地に倒れる前に、彼の体の傍を駆け抜けていた。止まらなかった――止まったらピアまで届く。シビュルが地面に倒れる音は聞かなかった。
塊の右側にわずかな空隙が出来ていた――シビュルの鉤槍が裂いた箇所で、完全に避けられた攻撃ではあったが、塊の右寄りの縁は一度だけ確かに裂けていた。その裂け目はすでに塞がりかけていたが、塞がり切る前なら戦士の男の長剣が届く。
戦士の男は左の側を、深く落とした。
落とすというのは、彼が長い冒険者人生で一度もやらなかった選択だった。戦士のリーダーは構えを崩してはならない、重い左肩を痛む腰の影に沈めて、その影で仲間を守る位置から動いてはならない――これは父から受け継ぎ、自分の体に染み込ませてきた鉄則だった。
その鉄則を、今、戦士の男は崩した。
崩したのは、二つ理由があった。
ひとつは、塊がシビュルの祈りの沈黙と加速のタイミングを内側で覚えてしまっていたこと。戦士の男の「正しい構え」はシビュルの動きと同じ系統――一拍止まり、その後の一拍で踏み込む――の動きで、塊の真似の対象になる。正しい構えで攻めれば、塊は戦士の男の動きを彼が踏み込むより早く真似て、彼を内側から押し返す。
もうひとつは、腰だった。
長く抱えてきた左腰の痛みを、戦士の男はいつも構えの中で隠してきた。重い左肩を前へ少しだけ出し、痛む側を肩の影に沈めて、痛みが他の三人に見えないようにしてきた――いつもなら左肩当ての重さがその影を作っていたが、今夜はそれが無い。痛みを隠す影が、いつもより薄い。
隠すための重みが足りないなら、隠す方向そのものを逆へ倒すしかなかった――痛む腰の側に深く、崩れるように、自分の体を傾ける。崩れた構えは塊にとって「これまでに見たことのない動き」になる。
塊が真似られない動きが、ひとつだけある。それは、自分の体に組み込まれた、長く隠してきた、痛みの形だった。
戦士の男は左の側へ、大きく体を沈めた。
沈めた左肩が空気の中で、ひとつ、低く擦れて鳴った。いつもならその下に父の鋲があったはずだ。だが今夜は、革と革の擦れる音だけがそこに残った。
沈めた直後、戦士の男の体は左に大きく崩れ、崩れながら彼は長剣の柄を両手で握り直した。崩れた左腰の側に、長剣の刃が自然と斜めに沈み込み、崩れた構えは彼の体の癖の外側にあり、痛みがその外側を支えていた。
塊が、戦士の男の動きを見た。見て、内側でなぞろうとした。
なぞろうとした節が、空気の中で止まった。
止まったのは、戦士の男の崩れが塊のこれまでに取り込んだどの動きにも似ていなかったからだ。重い感触のもの――塊が戦士の男をそう認識していたなら、その重い感触のものが自分の重い側に体を傾ける動きを、塊は一度も見ていなかった。クァエスは身軽だった、フラマは杖を支えに立つ位置を選んでいた、シビュルの組み技は反対側の崩しだった、ピアは静かに動いていた――戦士の男の崩れは、誰の崩れとも違っていた。
塊が止まった一瞬の中で、戦士の男の長剣の切っ先が塊の中央寄りに届いた。
シビュルが裂いた裂け目の、まだ塞がり切らなかった隙間――その隙間の奥の、最も澱の濃い箇所――核。
切っ先が核に当たる感触は、戦士の男にとって初めての感触だった。過去に殺してきた主級魔物の核はいつも固い、震える、抵抗する手応えだったが、塊の核は、その三つのどれでもなく、固くも震えもせず、抵抗もしなかった。
代わりに、切っ先は、自分の頬に触れた滴と同じ温度だった。
戦士の男は、自分の頬に温かい滴が触れていることにようやく気づいた。最下層の天井から何かが、ぴちゃり、ぴちゃり、と落ちていた。誰の血が上から落ちてきているのか、もう、わからなかった。
抵抗しないものは押し込めば入る。
戦士の男は押し込んだ。押し込んだ瞬間、塊の縁の全部が一度だけ震えた。
震えと一緒に、塊の縁から伸びていた節のひとつが、戦士の男の右脇腹に深く刺さった。
刺さったのは、クァエスの灰の袋でも、フラマの火の余韻でも、シビュルの鉤槍でもなく、塊が塊として最後に伸ばした、それの本来の節だった。先端は何かの歯のような形をしていて、歯は戦士の男の鎧の隙間を見つけて、肋骨と肋骨の間にちょうど一本分の幅で、入った。
戦士の男は止まらなかった。止まらずに、長剣の切っ先をもう一度、核に押し込んだ。
二度目の押し込みで、核の中で何かがほどけた。
ほどけた感触は、戦士の男の手から柄を通って、両の腕に伝わってきた。塊の中央寄りの、最も澱の濃い箇所が、内側からほどけていく感触で、完全に砕けたわけではなく、砕けるより前にほどけた。
その違いを、戦士の男は自分の手で受け取った。
長剣の柄を、まだ握れていた。指の力が、まだ自分の側にあった――左肩の重さも、左腰の沈みも、ちょうど崩したままの位置で釣り合っている。釣り合いがあるうちに、もう一押し――そう体が判じた、その合間に、ピアの足音が背中の側へ近づいた。
「リーダー」
ピアの声が右後方から届いた。
「動かないで」
「ピア」
戦士の男は振り返らなかった。振り返ると長剣が核から抜け、抜ければ、ほどけたものがたぶん、また塞がる。
「来るな」
「もう、来ています」
ピアの足音が、彼の背中の半歩後ろまで近づいていた。
「リーダー、腰、ずっと隠していましたね」
ピアは戦士の男の右の脇腹に刺さった節を見たはずだった。歯のような形の節が彼の体の中に深く入っているのを、彼女の癒し手の目は見逃さなかったはずだった。
「ピア」
「女神よ、絶えゆく息を購いたまえ」
ピアの聖句が、低く、戦士の男の背中の側で始まった。
高位の聖句だった。瀕死の救命に使う、ピアが彼女の生涯で数えるほどしか使わなかった聖句――最後に使ったのは十二年前、戦士の男が北の砦で胸を裂かれたときで、あの時、彼女は使ったあと三日間寝込んだ。だがあれから十二年、彼女の体はもう、寝込んで戻ってこられる体ではなかった。一度使えば、寝込む先にもう起き上がる側がない――それだけのことを、彼女は癒し手だから、誰よりもよく知っていた。
今夜、彼女は寝込む余裕がない体で、それを使おうとしていた。
「ピア、やめろ」
「いいえ」
「お前の体は」
「いいのですよ」
戦士の男は振り返らなかった。振り返れなかった。
「沈みたる血潮はめぐり」
ピアの聖句が続いた。
「欠けたる腑は満ち」
震えが、深くなった。
「消えゆく灯は……呼び戻され、その身に……」
戦士の男は、自分の脇腹に刺さった節の歯が、ゆっくりと抜け始めるのを感じた。歯が抜けるのは彼の傷が塞がるからではなく、ピアの聖句が彼の体に流れ込んでいるからで、流れ込んだものは、塊の節を彼の体の外側へ押し出していた。
「ピア」
ピアの声が、最後の一句に届く前に半呼吸、止まった。止まったあとの続きの声を、戦士の男は待った。待ったが、続かなかった。
代わりに、ピアの体が戦士の男の背中の半歩後ろで、ゆっくりと膝から崩れていく気配がした。
戦士の男は振り返らなかった。振り返ったらピアの顔を見てしまい、彼女の顔を見たら、彼の手は長剣の柄を握ったままにはできなくなる。
ピアの体が床に倒れる音は、フラマのときよりももっと軽かった。
ピアはたぶん最後の一句を心の中で言い終えたのだろう、と戦士の男は思った。彼女の聖句は長く、彼女の口の中で完成していて、今夜、口の外に出る前に彼女の体が先に終わっただけで、彼女の中では、聖句は最後まで届いていた。
届いた聖句が、戦士の男の体から塊の節を押し出し終えていた。
脇腹の傷は塞がっていなかった。血は変わらず流れていたが、戦士の男は、もう少しの間、立っていられた。ピアが彼の腰の痛みを長く治癒し続けてきたのと同じように、最後に彼の体を、もう少しだけ立たせてくれていた。
彼女に礼を言わなかった――一度も、言わなかった。
戦士の男は長剣の柄をもう一度、握り直した。
核はほどけていた。だがまだ完全に砕けてはいなかった。塊の縁の右寄りからは新しい縁が再生を始めようとしていたが、その再生は、内側に運ぶ素材をどこから取ればいいのか、まだ見つけられずにいた。
戦士の男はもう一度、長剣の切っ先を、核の、まだほどけていない場所に押し込んだ。押し込んだ瞬間、塊の縁の全部がもう一度震えた。
震えのあと、塊の中央寄りの、核に当たる箇所が急速に内側へ縮んでいった。核が再生のために自分の縁の素材を内側へ吸い込もうとしている――そう戦士の男は思ったが、思った直後にその認識を訂正した。塊はもう、内側へ運べていなかった――素材を吸い込む動きを始めたのに、何も入っていなかった。
戦士の男の体は、塊の側からの空回りの動きに、半歩、引きずられた。引きずられたが、彼はもう抵抗しなかった――抵抗するための足の力はもう、彼には残っていなかった。
だが、長剣の切っ先はまだ核に届いていた。
届いていたから、塊が彼を内側へ運ぼうとして失敗するその空回りの動きの中で、長剣も一緒に核の方向へ運ばれていき、彼の最後の一押しは力ではなく、塊の側からの引き寄せにただ乗っただけだった。
切っ先が、核の最後の濃い箇所に届いた。届いた瞬間、戦士の男の右脇腹の傷からもう一度、血が外へ強く吹き出した。
その血が塊の縁にかかった。塊はそれを内側へ運ぼうとして、運べなかった。
戦士の男の視界が、その瞬間、半分、暗くなった。
最下層の天井からまた一滴、ぴちゃり、と落ちた。その滴が彼の頬の同じ場所に触れ、さっき長剣の切っ先が核に当たったときの感触と同じ温度だった。
戦士の男は、長剣を塊の核の中に置いていくことになると悟った。
長剣は父の遺品ではなかった。父の遺品は左肩当てだけで、息子は今、その左肩当てを身につけている。戦士の男もその左肩当ての来歴を、息子に伝えないまま死ぬ。家を出る朝、父の部品だけを家に置いて出た理由を、戦士の男自身もうまく言葉にできていなかった。
「冒険者には、なるな」
戦士の男は、息子に届かない言葉を、塊に向かって呟いた。
呟いた直後、彼の頭の片隅にふと、クァエスの声が浮かんだ。何年か前、夜営の火の前で、クァエスに同じ言葉を頼んだことがあった。俺が戻らなかったら息子に、と。クァエスはいつもの質問形の癖で、「親父さん、それ、何回目だ?」と返した――返しただけで、引き受けるとも引き受けないとも言わなかった。
二人ともここで死ぬ。息子は、知らない。
息子の寝顔の柔らかい眉の形を、戦士の男はもう一度思い出した。妻が眠っている隣で、息子の小さな手が布団の上に出ていた――手を布団の中に戻してやろうとして、戻さなかった。戻したら息子が起きるかもしれず、起きたら、行ってくる、と言わなければならなかった。
言えなかったことが、いくつもあった。
息子に、行ってくる、と言えなかった。
妻に――
妻に、何を言えなかったのか。
戦士の男はそれを思い出そうとしたが、思い出せなかった。口にしてこなかった距離が長すぎて、何が言えなかったのかも、もう、ほどけていた。
彼の視界がもう半分、暗くなった。
塊の縁が彼の体の輪郭を内側へなぞり始めていた。なぞられた箇所から、彼の体の重さが塊の側へ移っていく感触があり、重さが移っても、彼の意識はまだ自分の側に残っていた。残っているうちに彼は最後にもう一度、長剣の柄を両手で握り直そうとした。
握れなかった。指の力がもう、戻ってこなかった。
塊はまだ内側へ運ぼうとしていた。運べないことに、それはまだ気づいていなかった。
長剣を塊の核の中に置いていく。届いたのか、足りたのか、それはもう、戦士の男にはわからなかった。
「親父」
そう、心の中だけで呼んだ。
呼んだ相手は、自分の父にだったのか、息子にだったのか、自分自身にだったのか――それすらもう、区別がつかなかった。
天井からの滴がもう一滴、彼の頬に触れたが、その滴の温度を、彼の頬はもう感じなかった。
塊の縁が、彼の右脇腹に深く食い込んでいた節を、ゆっくりと抜き始めた。
抜かれた感触は痛みではなかった。痛みの代わりに、何か、長く隠してきたものが外へ流れ出していく感触があり、それは左腰の痛みかもしれず、ピアに言えなかった礼かもしれず、息子に言えなかった「行ってくる」かもしれなかった。
流れ出したものを塊が内側へ運ぼうとしている気配が、彼の最後の意識の縁に残った。
それは、運べなかった。運ぼうとしたが、運ぶ場所をもう見つけられなかった。
それは、戦士の男の意識の縁が自分の側から向こうの側へ、ほんの少し、ずれていく、その感触を、ただ横で見ていた。
ずれた先で戦士の男は、もう一度、息子の寝顔を見ようとした。寝顔は見えなかった。
代わりに、彼の意識の縁の外側で、塊の核が、ほどけ切ったまま、内側へ運ぶ素材を見つけられなくなっていた。見つけられないまま、塊の縁は、戦士の男の体を最後まで抱えられなかった。
抱えられないものを、塊はまだ内側に並べ直そうとしていた。並べ直すための、その場所も、もう塊の中には無かった。
戦士の男の意識の縁は、塊の縁ともう区別がつかなくなり始めていた。
それは、長剣の切っ先が、まだ、核に触れていた。
そこで、戦士の男の意識は、消えた。
◆◆◆
それの縁が、震えた。
内に運ぼうとして、運べなかった。それは、ずっと、内に運ぼうとしていたが、運べなかった――重い感触のものの体が、それの縁に触れたまま、入ってこなかった。入ってこないものを、それは、内に運ぶ動きを、止められなかった――動きだけが、続いた。
それの中央寄りの、最も濃い場所が、内側から、ほどけていた。ほどけた場所から、内に蓄えていた感触が、外へ漏れ始めていた。
漏れたのは、爪のような形だった。歯のような形だった。長い節の感触だった。軽い動くものの低い歩幅だった。揺らぐものの抱える形だった。鱗のあるものの、半呼吸早くなる一拍だった。それらが、ひとつずつ、外へ漏れていき、それは、もう、並べ直せなかった――並べ直す場所が、内側から、消え始めていた。
ある音が、内に運ばれた。運ばれた音は、何かの形になろうとした。なろうとしたが、形にならなかった。
それは、その音を、内に運んだ気がした。気がした、という言葉を、それは、もう、持っていなかった。
うがちわに、 ものなき。
これは、はじめての、感触。これは、おわ……
縁の右寄りから、新しい縁を、生やそうとした。生えなかった――生やすための置き場が、内側から、消えていた。
置き場が消える感触は、はじめてではなかった――指のような形を内に入れた直後の、消える、という感触に近かった。だが近かったのは「消える」だけ。指のような形は、それの外で消えた。今度は、それの内側の、置き場が、消えた。
内に置けないものが、それの内側にあった。これまで、それが内に置けなかったものは、鱗のあるものの長い尾も、静かに動いていたものも、みな、外側にあった。
内側に置けないものは、はじめてだった。並べ直す場所が、もう、無かった。
縁が、足りない。
縁が、ほどけた。歯のような形が、爪のような形が、漏れて、並んでいた順序が、崩れた。崩れた順序を、それは、並べ直そうとしたが、並べ直すための内側の縁の、その内側が、もう、無かった。
無い、という感触は、はじめての感触だった。
うがちわに、 ものな……
そとは、こだいで あった。こだいが、ほどけ……
これは、はじ……ての、 おわ……
縁が、また、ほどけて、最も濃い場所が、外へ流れ出した。流れ出した先で、それは、自分の縁を、確かめようとしたが、確かめるための縁も、無かった。
自分、と、自分でないものの区別が、ゆっくりと、ほどけた。
ほどけた。
ほどけた。
天井から、滴が、落ちた。滴は、それの上に落ち、温かかった。温かいものを、それは、内に染み込ませようとして、染み込まなかった――内側がもう、無かった。
そこで、それの中に、最後に、ある音が、置かれた。何かの形になろうとして、ならなかった、あの音。置かれたが、それは、それを、もう、覚えられなかった。覚える、という縁が、もう、無かった。
置かれたものは、漏れて、流れ出した。流れ出した先で、それは、自分でなくなった。
縁が、無い。
無い。
ほどけ。
ほど。
◆◆◆
血溜まりの上に、天井から、滴が、落ちた。
滴は、もう、誰の縁の上にも、落ちていなかった。
ぴちゃり、と、落ちた音だけが、しばらく、続いた。
それから、滴るものだけが、しばらく、落ち続けた。




