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紅迷宮の澱  作者: そこらへんの宝箱
第一部 プロローグ
3/12

第二話「真似」

戦士の男は、長剣を抜いた。


抜く音だけでそれが動いた。血溜まりの縁から節をひとつ、こちらへ伸ばしてくる。爪のような形をした、血の色の節だった。


「クァエス」


戦士の男は低く呼んだ。


「親父さん、こいつ、灰、効くと思うか」


クァエスはもう動いていた。問いの答えを待たずに腰から灰の袋を抜き、口を開けて、それの伸ばした節の先に白いものを撒いた。灰だった。灰は節の先に当たって薄く広がった。


それは灰を内へ運ぼうとしなかった。撒かれた灰の周りで、節を一度、引いた。


「だめだ、効かない」


クァエスはそう言うと、油の小瓶を握り直して、低く、滑るように三歩前へ出た。最初の半歩、二歩目、三歩目。三歩目の途中で腕を斜め後ろへ引いて、油を空気の中に放つ弧を描こうとした。


クァエスの腕が引かれた。


その引きがまだ半分しか終わらないうちに、それの縁の節が、クァエスの描きかけの弧の残り半分を、先に空気の中へ描き終えていた。一つの動きが二つの体に頭と尾を分けて、同時に在った。クァエスの腕はまだ引く途中で、節はもう放ち終えていて、クァエスが描くはずだった弧の後ろ半分が、クァエスより先に、それの縁の上に出来上がっていた。


戦士の男はそれを見た。見た、と思った時にはもう見終わっていた。一拍のことだった。クァエスの三歩目が地面に着く――着くはずだった。


クァエスの三歩目の、ブーツが地面を打つ音が鳴らなかった。


灰の音があり、革鎧の擦れる音があり、二歩目の音があって、そのあとに来るはずの三歩目の音だけが無かった。足音の順番が一つ、抜けた。


クァエスの足は、宙で止まっていた。


止まったクァエスの顔を、戦士の男は横から見ていた。クァエスの口が何か言いかけて止まった。声は出なかった。彼は自分の手の中を見ていた。自分の腕が描こうとしていた弧が、自分の腕の中から無くなっていた。空っぽの腕が、まだ引いた形のまま宙にあった。


クァエスの口が、もう一度、何か言いかけた。


止まった。


「クァエス、下がれ」


戦士の男は短く言った。


クァエスは半歩、後ろへ下がろうとした。下がる動きはクァエスにとっていつもの動きだった。だが下がろうとした足の先に、それの節がもう置かれていた。クァエスが下がる場所を、それは先に塞いでいた。


クァエスは置かれた節に体を当てて、止まった。


◇◇◇


シビュルが動いた。


「リーダー」


シビュルの声は低く、乾いていた。寒さで語尾がわずかに震えた。


「あれ、止める」


シビュルは答えを待たなかった。鉤槍を右手に構え直し、長い尾を低く後ろへ垂らして、塊の右寄りへ走り込んだ。


シビュルの組み技は、鉤槍と尾を別々の方向に同時に放つものだった。湿地の集落で継いだ技だった。鉤槍が前から、尾が後ろから、二つの動きが同時にそれを挟む。


鉤槍の先が塊の縁の薄い箇所を裂いた。


裂いた瞬間、塊の縁が鉤槍の振りをなぞって節を一つ伸ばした。シビュルの鉤槍の動きを、塊は写し取ろうとしていた。


だが、尾の方には何も起きなかった。


シビュルの尾は後ろから、塊の別の箇所に巻き付いていた。巻き付いた箇所の縁は動かなかった。節を伸ばすことも、なぞることもしなかった。


塊の縁の、尾に巻き付かれた箇所が、止まった。


それまで塊は、向けられた動きを片端から写し取ってきた。クァエスの弧も、シビュルの鉤槍も。だが尾に巻き付かれた箇所だけは、節を伸ばさず、なぞらず、動かないまま止まっていた。


その一瞬を、戦士の男は視界の隅で捉えた。


捉えたが、彼はそれを言葉にしなかった。シビュルも言葉にしなかった。シビュルは止まった塊を生かしきる前に尾を解いて、半歩退いた。寒さで次の動きが遅れた。塊の止まりは一瞬で終わった。止まっていた縁は、すぐにまた動き始めた。


「シビュル」


戦士の男は短く呼んだ。


「ああ」


シビュルは退いた位置で低く応じた。


塊の右寄りに、シビュルの鉤槍が裂いた箇所が残っていた。その裂け目はもう塞がりかけていた。


◇◇◇


クァエスは、まだそれの節に体を当てたまま止まっていた。


油の小瓶を彼はまだ握っていた。最後の一本だった。彼はそれを塊の中央へ向かって投げた。


投げた小瓶は塊の縁の手前まで来た。


そこで塊の節が一本、小瓶の方へ伸びた。覚えたばかりのクァエスの弧を内側からなぞるように、節の先が小瓶の軌道を外へ押し戻した。


小瓶はそれの縁の手前で、別の方向に跳ねた。


跳ねた小瓶は戦士の男の方へ飛んだ。彼の左肩のあたりを小瓶の弧が撫でて、通り抜けた。革鎧の留め金の縁に油の膜が薄く擦り付いた。小瓶はその先の地面に落ちて、割れた。


その間に、それの節がクァエスの体の中央寄りを、内側から開いた。


開いた、と戦士の男には見えた。クァエスの体の中ほどで節が、内から外へ何かを開くように動いた。クァエスの体の輪郭が一瞬、内側へ引き込まれた。


クァエスは何も言わなかった。


彼はゆっくりと、その場に崩れ始めた。崩れながら、最後にもう一度、口が何か言いかけて――


塊の縁の左寄りが、動いた。


クァエスを開いた、その場所だった。塊の縁が節を一つ伸ばし、なぞる動きを始めていた。低く、滑るような、三歩前へ出る動き。灰と油の、あの弧。塊はクァエスの動きを、自分の縁の上に並べ直していた。


戦士の男の目は、崩れていくクァエスの方へは向かなかった。向ける前に、塊の縁が引いた。


それはクァエスの腕の引きだった。クァエスがついさっき描こうとして、描き終わらなかった、あの弧の前半分。それを今、塊が縁の上で引いていた。半歩、二歩目――低い三歩目の途中で腕を斜め後ろへ。クァエスの歩幅で、クァエスの速さで。


戦士の男の体が、前へ出る構えのまま、その縁へ引き戻された。クァエスの倒れた方は、見なかった。見るより先に、塊が次の弧を引き終えようとしていた。

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