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紅迷宮の澱  作者: そこらへんの宝箱
第一部 第一幕
7/12

第三話「止められない兄」

枢機卿の私室には窓がない。


それで構わなかった。私には、窓があってもなくても、見えるものは変わらない。目は布で覆ってあって、その下に光は届かない。子供の頃に決めたことだった。見えないなら、せめて見えないことを引き受けようと。布の内側で目を閉じていれば、見えないのは布のせいなのか、自分のせいなのか、もう区別しなくて済む。


代わりに、私には音が届く。


部屋の隅で、湯を満たした薬缶が小さく鳴っていた。火にかけてはいない。机に出された卓上の小炉が、生活魔法の弱い火種で湯気を保っているだけだ。その湯気のほうへ、人がひとり、香りを連れて入ってきた。蜜と、乾いた花弁を煮出した、淡い茶の香りだった。


「ルシアン。少し、よいか」


アウグスティーノ・ベネディクトゥス枢機卿の声は、いつも低く、穏やかだった。その穏やかさの底に何が沈んでいるかは、声だけでは測れない。だが私は表情を見ないぶん、声の重さを量る癖がついている。今日の声は、いつもより、わずかに念入りに磨かれていた。


「枢機卿。お忙しいところ、わざわざ」


「忙しいから来た。忙しい用件ほど、人を介さぬほうがよい」


布が擦れる音がして、向かいに人が座った。茶器の置かれる、磁器の硬い音。湯の注がれる、細く長い音。アウグスティーノは自ら茶を淹れる人だった。位の高さを誇る者ほど、こういう所作を手放さない。手放さないことが、別種の誇りの示し方になる。


「君ほどの血脈を埋もれさせるのは、教団全体の損失だ」


茶を一口含む間があって、それから言葉が来た。私はその間を数えていた。三つ、と数えたあたりで、声が落ちた。


「私は埋もれてはおりません」


「いいや。埋もれている。枢機卿の一人として書類を捌くだけなら、君でなくともよい。君にしかできぬことが、別にある」


私は自分の前の茶器に手を伸ばした。指先で縁の熱を確かめる。白い手袋越しでも、熱はわかる。少し熱すぎる。アウグスティーノは私が手をつけにくい温度で出した。私が口をつける前に、もう一言、言いたいことがあるのだ。


「中枢が、新しい継承者を仕立て終えた」


来た、と思った。


茶器を持ち上げる手は止めなかった。止めれば、止めたことが伝わる。私は熱い茶を、ほんの少しだけ口に含んだ。舌を焼かない量に加減して。その間に、向こうの言葉が続くのを待った。


「エルフの血に、我らの血を編み込んだ。見た目は森の民とほとんど変わらぬ、美しい娘だ。素材の純度は、これまでで最も高い。──君となら、と中枢は考えている」


素材、という語を、この男は人を指して使う。悪気があるのではない。本当にそう見えているのだ。秤に載せて、純度を量り、足りなければ磨き、また量る。彼にとって継承とは、そういう作業の連なりなのだろう。


私は茶器を置いた。


「これまでの継承者は、皆、おぞましく短命な子しか産めなかったと伺っています」


「だからこそ、純度を上げた」


「上げて、また同じ結果なら」


「そのときは、また上げる」


声に、迷いはなかった。私は息をひとつ整えた。胸の奥が、いつものように、わずかに重い。長く話すと、ここが軋む。だが今は、軋みを声に出すわけにはいかない。


「ご報告、ありがとうございます」


私はそう言った。表向きの謝辞だった。アウグスティーノは、それが謝辞でしかないことを知っている。私が承知したわけでも、断ったわけでもないことを、彼は茶を口に運ぶ間に察したはずだった。私たちはいつも、こうして数秒のうちに、互いの本音を測り合う。言葉にはしない。言葉にすれば、どちらかが引けなくなる。


「急いてはおらぬ」


茶器を置く音がして、彼が言った。


「だが、悠長でもおれぬ。君も、わかっているだろう」


わかっている。誰よりもわかっている。子を残せる者が、私とセラフィナしかいないこと。妹が子を産めない体であること。私が血を残さなければ、この継承は、私の代で途切れること。途切れれば、何が起こるか。


その先を、私は言葉にしない。言葉にすると、覚悟が弱くなる。覚悟は、口の外に出した分だけ薄まる。私はそれを、もう何度も確かめてきた。


「考えております」


「結構」


アウグスティーノは立ち上がった。布の擦れる音が、入ってきたときより少しゆっくりだった。満足、というより、見極めた、という足取りだった。彼は私の答えの形を、ひとつ持ち帰った。私が「考えている」と言うとき、それは断りではない、と。


戸口で、彼はもう一言だけ置いていった。


「諜報のほうにも、よしなに伝えておく。あちらは、あちらで動いている」


私は応えなかった。応えれば、何かが伝わる。


戸が閉まって、香りだけが少し残った。蜜と、煮出した花弁の香り。その香りの底に、私はもう一つの匂いを嗅いだ気がした。蜜でも花でもない、もっと冷たい、水のような匂いだった。気のせいだろう。だが諜報、と彼が口にしたとき、確かにその匂いが部屋を横切った。


シルウィア・テネブラエ。


その名を、私は声に出さなかった。出すと、敵意が形を持つ。形を持った敵意は、いずれ相手に届く。届けば、向こうも形を持って返してくる。だから私は、敵意を内側に閉じておく。閉じたまま、向こうの動きだけを測る。あちらは、あちらで動いている、とアウグスティーノは言った。動いている先は、わかっている。


妹だ。


向こうは妹を、生贄として教皇に立てようとしている。次の継承の重さを、妹に背負わせて、それで片をつけようとしている。なぜ妹なのか。妹が、子を残せない体だからだ。子を残せぬなら、せめて器にはなる、と向こうは考える。


私が継げば、その理由が消える。


私が教皇位を継いで、子も残せば、向こうが妹を立てる口実は無くなる。妹を生贄にする意味が、無くなる。私が引き受ければいい。私が背負えばいい。妹は、それで自由になる。それだけのことだ、と、私は思うことにしていた。


これは、誰にも言わない算段だった。妹にも言わない。妹に言えば、妹は止めようとする。妹は、そういう子だった。幼い頃から、自分が庇われることを嫌った。庇われると、庇った側に申し訳が立たないと、まだ言葉も覚束ない頃から、そう思う子だった。


だから私は、黙って継ぐ。


茶器の中の茶は、もう冷めていた。冷めた茶を、私は飲み干した。熱くなくなった茶は、舌を焼かない。焼かないかわりに、何の味もしなかった。


◇◇◇


私室には、もう一つ、届くものがあった。


机の端に、薄い紙の束が置かれていた。昼のうちに従者が運んできたものだ。封蝋を指でなぞる。蝋の表面に、小さな刻みが入っている。決まった形の刻みだった。私と、もう一人のあいだだけで決めた印だ。誰から届くものかを、私は、口にも紙にもしない。名は、たどられる。たどられれば、その先の糸が、手繰り寄せられてしまう。


私は封を切った。


指先で蝋を割り、紙を引き出す。文字は読めない。だが、報告には別の伝え方があった。従者の一人が、声に出して読み上げる手筈になっている。今は呼んでいない。私は一人で、紙の手触りだけを確かめた。紙は薄く、枚数は少ない。少ないのは、報告することが少ないからではない。多くを書けば、途中で奪われたときに、多くが漏れる。だから、いつも、要点だけが短く記されていた。短さが、そのまま、書いた者の慎重さだった。


私は従者を呼び、読ませた。


報告は、淡々としていた。妹は無事だ。体調も崩していない。仲間と組んで、迷宮を降り続けている。日に日に、より深いところまで。


ここで、従者の声が、わずかに途切れた。読みにくい箇所があったのだろう。あるいは、読みにくいふりをしたのかもしれない。やがて、続きが来た。


──戻る気配は、ない。


その一行を、私は二度、読ませた。二度目も、同じだった。


戻る気配は、ない。


私は、机の端の薄い紙束の上に、白い手袋の手を置いた。指の腹に、紙の薄さが伝わった。それだけの厚みに、幾月もの便りが、畳まれていた。


妹は、止まらない。


報告は、それを、ただの事実として私に告げてくる。妹を引き返させる手立てを、私は持たない。たとえ持っていたとしても、それを使えば、妹の居場所は、別の目に晒される。私にできるのは、この薄い紙を、ここで握っていることだけだった。


妹は、なぜ降りる。


問うても、答えは紙の上にない。妹は、諜報部から逃げている。それは、わかる。逃げて、身を隠して、誰の目にも触れない場所を探している。だが、逃げるだけなら、迷宮を降りる必要はない。迷宮の底は、逃げ場としては、最も悪い。降りれば降りるほど、上がってこられなくなる。妹は、それを知らない子ではない。神官として、迷宮の危うさは、誰よりも教わってきたはずだ。


なのに、降りる。


私には、その理由が掴めなかった。


掴もうとして、私はいつも、同じ壁に行き当たる。妹は、何かを目指している。逃げているのではなく、向かっている。だが、何に向かっているのかが、わからない。妹は、私に何も言ってこない。音信を絶っている。絶っているのは、私を守るためだろう、と思う。私に余計な荷を負わせまいとして。


私が、妹を守ろうとしているように。


妹も、私を守ろうとしている。たぶん、そうなのだ。だが、互いに何も言わないから、互いに何を守っているのかが、わからない。私は妹の行き先を知らず、妹は私の算段を知らない。二人とも、相手のために黙っている。黙ったまま、別々の方向へ歩いている。


追えばいい、とも思った。


私が動けば、妹の居所は、もっと正確に掴める。だが、私が動けば、その動きを、諜報部が見る。私が誰かを捜していると知れれば、向こうは、それが妹だと察する。私が妹を捜していると知れた瞬間、向こうの目は、私の手の先をたどって、妹に届く。今、向こうが妹を掴みきれずにいるのは、私が動いていないからだ。私が静かにしているから、報告の糸だけが、誰にも見られずに、妹と私を細く繋いでいる。


だから私は、薄い紙の束を、そのまま机に置いた。妹がどこにいるかは、書いてある。だが、私はそこへ手を伸ばさない。伸ばせない。妹を守るために、私は妹を追わない。それが、今の私にできる、唯一の守り方だった。


無力、という言葉が、喉まで来た。


私はそれを、飲み込んだ。口に出してしまえば、それは、ただの言葉では済まなくなる。認めた無力は、私を立っていられなくする。私には、まだ、立っていなければならない理由がある。


「もう、退がっていい」


私は従者に言った。声は、いつも通り短かった。


従者が退がる足音を聞きながら、私は紙の束の上に、もう一度、白い手袋の手を置いた。妹の名は、そこに書かれていない。報告には、妹の本当の名は使わない。偽りの名が、紙の上に、妹の代わりに置かれている。その偽りの名を、私は指の腹で、一度だけなぞった。


なぞっても、妹には届かない。


私が今、妹の無事を喜んでいることも、降り続ける妹を案じていることも、何も、妹には届かない。届かない場所で、私は妹を案じている。妹もきっと、届かない場所で、私を案じている。


それでいい、と私は思おうとした。


思おうとして、うまくいかなかった。


◆◆◆


夜になって、私は父のもとへ行った。


行かねばならない用があったわけではない。継承の話を聞いた日は、なぜか、父の傍へ行きたくなる。助言が欲しいのではなかった。父は、もう、私に助言をくれない。それでも、行く。


父の安置されている場所は、大聖堂の奥の、人の入らぬ一室だった。私のような立場の者だけが、入ることを許される。扉を開けると、空気が変わった。冷たく、乾いて、古い香木の匂いが、ごく薄く漂っていた。香木は焚いていない。長い年月の間に、部屋そのものに香が染みついて、もう取れなくなっているのだ。


私は中へ入り、扉を閉めた。


父は、そこにいた。


いる、という言い方が正しいのか、私にはわからない。父の体は、白い朽ち木のようになっていた。手で触れれば、わかる。皮膚は乾き、肉は落ち、骨の形が布の上から透けて見えるほどに、痩せていた。動かない。声も発さない。長い間、そうだった。私が物心ついた頃には、父はもう、こうなりかけていた。


近づくと、ごく僅かに、父が身じろぎした。


風でもないのに、布が、わずかに動いた。それから、また止まった。胸のあたりに、私は耳を寄せた。布の下、肋の奥のあたりで、何かが、脈打っていた。とくり、とくり、と、間遠に。心臓だろう、と私は思う。父の体で、まだ動いているのは、そこだけだった。


「父上」


私は呼んだ。


応えはない。応えがないことは、わかっていた。父はもう、言葉を返さない。私が物心ついてから、父が私に、まとまった言葉をくれたことは、一度もなかった。


それでも、私は呼んだ。


「父上。継承の話が、また来ています」


脈の音が、変わらず間遠に続いていた。


「中枢が、新しい継承者を仕立てたそうです。私は、それを、考えると答えました」


考えると答えた、と言いながら、私はもう、ほとんど答えを決めていた。引き受ける。子を残し、位を継ぐ。妹のために。教団のために。崩れていくものを、少しでも遅らせるために。


その答えを、父に伝えに来たのだと、私は気づいた。


父は、何も言わない。賛成も、反対もしない。父は、ただ、ここにいる。位を背負って、何百年分かもわからぬ重さを、一身に引き受けたまま、こうして朽ちていく。これが、私の継ぐものだった。これが、黙して代償を背負うということだった。尊い犠牲、と人は言う。私も、そう教わってきた。教皇とは、世のために、自らを差し出す者なのだと。


私は、父の手があるあたりに、自分の手を重ねた。


白い手袋越しに、父の手の、乾いた硬さが伝わってきた。冷たかった。私の手も、人より冷たいほうだが、父の手は、それよりさらに冷たかった。


この手を、私はいつか継ぐ。


父がそうしてきたように、私もここに横たわり、位の重さを引き受けて、こうして朽ちていく。それが、約束された私の終わりだった。怖くはなかった。怖いのは、終わりではなかった。怖いのは、その前に、妹を守りきれぬことだった。


私は、父の手の上で、自分の手を、父の形に重ねてみた。


指の置き方を、父に合わせて。父がこの手を、どんなふうに置いていたのか。位を継いだとき、父はどんな覚悟で、この場所に来たのか。私は、それを真似てみたかった。父の覚悟を、手の形からでも、なぞってみたかった。


だが、父の手は、私の手とは、形が違った。


父の指は長く、私の指は短い。父の手は、私の手の上で、ぴたりとは重ならなかった。重ねようとすればするほど、隙間ができた。私は、父にはなれない。父の覚悟を、私はなぞりきれない。私は、私の覚悟で、ここに来るしかない。


手を、離した。


そのとき、ふと、別のことが、頭をよぎった。


最近、祈りが、おかしい。


いや、おかしい、というのは、言い過ぎだった。何かが、ほんの少しだけ、ずれている。神官たちの捧げる祈りと、その応えとが、いつもの場所で、いつものように結ばれない。応えが、思っていたのと、わずかに違うところへ、届いている気がする。気がする、というだけだった。確かめようがなかった。私は目を覆っているから、何も見ていない。だが、見ていないぶん、いつもなら、応えの届く先が、感じられた。その感じが、近頃、ほんのわずか、ぼやけている。


父上の、お加減のせいだろうか。


そう思いかけて、私は、その思いを途中で止めた。


父は、ずっとこうだった。今に始まったことではない。父の衰えと、祈りのずれとを、私は結びつけかけて、結びつけきれなかった。結びつける根拠が、私にはなかった。ただの、気のせいだろう。私の体が弱っていて、感じ方が鈍っているだけかもしれない。私はこのところ、よく眠れない。眠れぬ夜が続くと、いろいろなものが、ぼやけて感じられる。


きっと、そういうことだ。


私は、それ以上、考えるのをやめた。考えても、わからないことだった。わからないことを、無理に形にすると、それはたいてい、間違った形になる。間違った形のものを、人は信じてしまう。私は、自分が間違った形を信じることを、恐れていた。


「父上」


私は、もう一度呼んだ。


「──ええ。わかっています」


父は、何も訊いていない。だから、これは、答えではなかった。父が訊かないことに、私が答えた。父が、私に何を求めているか、私には、もうわからない。わからないまま、私は、わかっています、と言った。


言うつもりは、なかった。それなのに、父の前でだけは、問われもしないことが、ひとりでに口から出る。


言ってしまえば、少しだけ、楽になった。その楽さが、少し、こわかった。


脈の音は、変わらず、間遠に続いていた。とくり、とくり、と。その音を聞きながら、私は、しばらく、そこに立っていた。立っていようと思った。


部屋を出るとき、私は一度だけ、振り返った。


布の下で、父は、また、ごく僅かに身じろぎした。それきり、動かなかった。


◇◇◇


私室に戻ると、机の上の薄い紙の束が、まだそこにあった。


私は、それを片づけなかった。妹がどこにいるかは、そこに書いてある。明日も、その糸は、生きているだろう。明後日も。報告は、まだ届く。届いているうちは、妹は、無事なのだ。降り続けているけれど、無事なのだ。


私は、紙の束に、もう一度、手を置いた。


そして、思った。


明日も、妹は、降りるのだろう。


なぜ降りるのかは、わからない。止められないことも、わかっている。私にできるのは、ここで、動かずにいることだけだった。動かずに、糸を切らさずに、妹の無事を、紙の上で、間遠に受け取り続けることだけだった。


それは、ひどく静かな仕事だった。声を上げることも、手を伸ばすこともなく、ただ、薄い紙の上の偽りの名に、指を一度だけ触れる。それきりの仕事だった。


だが、私には、それしかなかった。


私は、布の下で、目を閉じた。閉じても、開けても、見えるものは変わらない。変わらないなら、せめて、見えないことを引き受けよう。妹の行き先が見えないことも。父の沈黙の意味が見えないことも。祈りのずれの正体が見えないことも。


見えないものを、私は、背負っていく。


立っていられるうちは。

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