第十五話「背中の体温」
登り道の途中で、イグネリアの足が止まった。
セレナの背を押して岸辺を出た。出て登り道を少しのぼった。のぼった足がそこで止まった。前は暗かった。後ろは岸辺だった。
後ろの岸辺で、赤いものがまだせり上がっていた。
フェルラムを横たえた、あの上のほうの岩。赤いものはあと少しでそこへ届く。届いたらどうなるのかを、イグネリアは知らなかった。
知らなかったが、見たものならあった。三層の境で、ヴェロは骨になって立っていた。生きていた頃の形のまま、緩慢に立って動いた。
骨の流れてくる場所に、フェルラムを置いてきた。
「セレナさん」と、イグネリアは言った。「戻る」
セレナは何も言わなかった。言わずに、イグネリアの向くほうへ体を向け直した。イグネリアはセレナの手を取って、岸辺へ降り直した。
◇◇◇
岸辺はもう、半分より上まで赤かった。
谷の底を流れていたものが、岸の岩を浸して上へ上へと広がっていた。青い光の降りる岩は、もう高いところにしか残っていなかった。その高いところの岩に、フェルラムは横たわっていた。横たえたときのままだった。左の肩当てが上を向いていた。
岩の根のところまで、赤いものが来ていた。
イグネリアはセレナを、岸辺のいちばん上の赤いものの届かない岩に座らせた。座らせて、自分はフェルラムのところへ降りた。
降りて、傍に立った。
火を出す前に、イグネリアの手が、一度止まった。
火は焦がす火だった。ぜんぶ、燃やせなかったら。半分だけ焼けて、残ったら。
岸辺はまだ、明るかった。
イグネリアは、指先の火を、フェルラムの胸の上に置いた。
火は革を焦がした。焦がして、いつもならそこまでの火だった。焦げた縁で低くなって、それ以上は進まない。何かを残して、退いていく。それが彼女の火だった。
火がその先へ、いった。
焦げた縁から、火が立ち上がった。立ち上がって、革を越えて広がった。広がりながら、火は退かなかった。退くはずのところを、次々と越えていった。イグネリアはその火を見た。いつもなら、ここで引く火だった。
引かなかった。
火が、フェルラムを包んだ。
セレナは岩の上から、火を見ていた。残った手が、膝の上で揃わなかった。
イグネリアも見ていた。包んだ火は、もう彼女の手の中の火ではないような燃え方をしていた。それでも、それは彼女の火だった。彼女の火が、初めて、何も残すまいとして燃えていた。
◇◇◇
火が引いたあとに、灰があった。
灰は白く、岩の上に薄く広がっていた。低い燠が、灰の中でまだいくつか赤く息をしていた。その真ん中に、金属が残っていた。
左の、肩当てだった。
「ちゃんと燃えた」と、イグネリアは言った。
イグネリアは灰の中から肩当てを拾った。拾って、手には持たなかった。腰の帯に挟んだ。
それから、岩の上のセレナのところへ登った。自分の上着を脱いで、セレナの肩に掛けた。掛けて、背中を向けてしゃがんだ。
セレナの体が、背中に乗った。
軽かった。イグネリアは片方の腕でその軽さを支えて立ち上がった。岸辺のいちばん上の道を、登りのほうへ歩き出した。
◆◆◆
背負われて、セラフィナは岸辺を離れた。
背負われた体には、後ろと下しか見えなかった。後ろに岸辺があった。赤いものの広がった岸の高いところで、火の低い残りが小さな点になっていた。点は、揺れながら遠ざかった。
岩の壁がそれを隠した。
道が原へ出た。
頭の上に、青い光が戻ってきた。天井の苔の光が降ってきて、彼女の顔の上を過ぎていった。
草の匂いがした。
歩くたびに、体が小さく揺れた。揺れは同じ調子で続いた。
頬の下に、背中があった。
ゆっくり上がって、下がった。また上がった。息だった。
温かかった。揺れの底に、ずっとその温かさがあった。
間に合った、とセラフィナは思った。
いつか、と思っていた温かさだった。
目を閉じた。青い光が、瞼の上に薄く残った。
◆◆◆
原は静かだった。
イグネリアは草の上を歩いた。前を歩く者はいなかった。後ろに続く者もいなかった。聞こえるのは、自分の足が草を分ける音だけだった。
原の終わりに、岩の裂け目があった。
裂け目の中を、急な段が上へ続いていた。一層への登り道だった。段は急で、湿っていた。
イグネリアは、片方の腕で背中のセレナを支え直した。もう片方の手の指先に、火を低く灯した。一層は暗かった。火が、先の段を照らした。照らした段を、踏んだ。
十段登るごとに、一度抱え直した。
背中には、セレナの温かさが当たっていた。薄い、温かさだった。
空いた袖が、イグネリアの肩の前に垂れていた。段を登るたびに揺れた。イグネリアはそれを見なかった。前の段だけを見た。
降りたとき、この段には前にも後ろにも息の音があった。いまは自分の息だけだった。自分の息と、指先の火の小さく爆ぜる音だけが、段の上にあった。
あとどれだけ登るかを、イグネリアは考えた。段の高さ。重さの寄り。次の抱え直しまでの、もち。考えるのは、それだけにした。
ずっと上のほうから、音が降りてきていた。遠くて、何の音かはまだ形にならなかった。
◆◆◆
青い光は、もうなかった。
背負われた体の後ろと下に、暗がりがあった。降りていく段が、足の下のほうへ暗く続いていた。イグネリアの火の明かりが肩の向こうで揺れて、段の縁を薄くなぞった。
体が、軽くなっていった。
片腕の分の軽さとは、別の軽さだった。その軽さがまだ、続いていた。まだ軽くなっていた。
指の先から、温度が出ていった。
足の先からも、出ていった。出ていって、戻らなかった。
その引きかたを、セラフィナは知っていた。
何度も見てきた引きかただった。傷の上に手を当てて、その手の下で人の温度が引いていくとき。引いて、戻らないとき。人が終わるときの、引きかた。それがいま、自分の指の先にあった。
減っていくことは、知っていた。
あの窪みで決めたときから、知っていた。知っていた減りかたと、これは違った。
終えたはずのものが、終わっていなかった。
何が、とは形にならなかった。
頬の下の背中だけが、温かかった。
楽の音が遠くで、していた。
◆◆◆
段が続いた。
イグネリアは火を先に出して登った。段の縁が濡れて、火の色を薄く返した。
抱え直して、また登った。重さの寄りを腕で戻した。
先の段の高さを目で測った。高い段の前では一度、息を整えた。整えて踏んだ。
登り道の壁が狭くなって、また広くなった。
火が爆ぜた。爆ぜた火を指先で立て直した。
◆◆◆
お兄様、私は──
私は、間違えたのでしょうか。
自身の胸にあたるイグネリアの背中が、ひどく温かかった。
◆◆◆
段を、イグネリアは登った。
登って、抱え直した。抱え直して、また登った。火が先の段を照らした。照らした段を踏んだ。段の上に、自分の息の音がした。
抱え直しの間が、詰まってきた。
十段が、もたなくなった。
イグネリアは支える腕に力を入れ直した。入れ直して、登った。あとどれだけかを考えた。考えるのは前と、上のことだけにした。
背中に当たる温かさが、薄くなっていた。
イグネリアは足を止めなかった。
段が尽きて、広間に出た。一層だった。血の水路の匂いが戻ってきた。広間を抜けると、通路は分かれて、また分かれた。降りたときに覚えた道を、イグネリアは逆に辿った。
暗がりの先で、低い唸りがした。
唸りは重なって聞こえた。右の暗がりと左の暗がりから、別々に聞こえた。
イグネリアは火を強くした。強くした火は、片手の指先の上だけで燃えた。背負ったままでは、それより大きくはできなかった。火の明かりの縁のすぐ外を、唸りが回った。回りながら、間合いを詰めてきた。
そのとき、下のほうから灯りが上がってきた。
段の下から、灯りと足音が続いていた。弦の音がして、いちばん近かった唸りが途切れた。残りの唸りが、暗がりの奥へ退いていった。
灯りは冒険者の一団だった。
革鎧に、使い込んだ得物。稼ぎを終えて上がっていく途中の者たちだった。先頭の男が、イグネリアと、その背中を見た。見て、何も訊かなかった。
「上がるんだろ」と、男は言った。「灯りの中に入りな」
イグネリアは入った。
一団の灯りが、道の前と後ろを照らした。唸りはもう近づかなかった。イグネリアは自分の火を引っ込めた。灯りは足りていた。
弓を負った女がイグネリアの隣に来た。
「代わろうか」と、女は言った。「重いだろ」
「あたしが背負う」
と、イグネリアは言った。女はそれ以上言わなかった。
しばらくして、女が背中のセレナのほうを見た。
「眠ってるのかい」
「眠ってるんだ」
と、イグネリアは言った。言いながら、肩からずり落ちかけていた上着を空いた手で掛け直した。女は頷いて、前を向いた。
◇◇◇
道は登りを重ねた。
一段、登るごとに、頭の上の音は太くなった。
楽の音と、人の声と、もっと低い人の多さそのものの音。それが近くなった。近くなって、やがて、音というより圧になった。
縁の光が見えた。
冬の昼の光だった。光は段の上から薄く差して、灯りの要らない明るさになった。最後の段を、イグネリアは登りきった。
光と音が、来た。
通りは人で埋まっていた。頭の上に、赤と白と金の色布が幾筋も渡って、冬の光を透かしていた。楽の音がいくつも重なって鳴っていた。声は多すぎて、ひとつも言葉にならなかった。
屋根より高い木の組みが、組み上がって立っていた。組みの上にも色布が結ばれて揺れていた。高いところから、誰かが何かを呼ばわっていた。討たれた、と呼ばわっていた。呼ばわるたびに、声がいっせいに返った。返る声が、波のように通りの上を渡った。
人の流れは、二人の前で割れて、過ぎたところで閉じた。
道の脇で、木剣の子供が遊んでいた。布の獣の人形を地面に倒して、その上に木剣を立てて、勝ち鬨の真似をしていた。子供は二人を見なかった。
人混みの濃いところを抜けると、人は減っていった。色布の筋が頭の上から途切れ、楽の音が後ろになった。
安宿の並ぶ一帯に入った。
通りの音はそこでは壁一枚向こうの音になった。
◇◇◇
一団が足を止めた。
ここから先は道が別だった。先頭の男が、イグネリアのほうを振り向いた。
「名は」
「セレナ。セレナ・ヴェスペル」
男は頷いた。一団のいちばん後ろの、口数のない男が顎を引いた。
イグネリアは軒下の壁のところへ寄った。寄って、膝を折った。
弓の女の手が、背中のセレナを受けた。受けて、壁際に降ろした。女の手が、セレナの体を壁にもたせかけた。上着が、その肩に掛かったままだった。
一団は、それで行った。
イグネリアは、立っていた。
背中が、軽かった。
軽くなった背中がいちばん、冷たかった。
背中の体温は、無くなっていた。




