第十四話「血河逆流」
登り道は、降りてきたときよりも長く感じた。
降りるときは下へ向かう自分の重さが足を運んでくれた。登るときは、その重さがぜんぶ逆に働いた。一歩ごとに岩を踏み直さなければならなかった。イグネリアは火を先に立てた。火が足元の岩を照らした。フェルラムがそこを、セレナを抱えたまま登った。
セレナの体はフェルラムの腕の中でぐったりしていた。
頭がフェルラムの肩のあたりにもたれていた。残ったほうの手がフェルラムの肩を握っていた。握る力は薄かった。もう片方の腕は、なかった。袖が空いて垂れていた。垂れた袖が、登るたびにフェルラムの脇のところで揺れた。
イグネリアはその揺れる袖を見ないようにした。
見れば火が揺れた。火が揺れれば足元の線がぶれた。線がぶれればフェルラムの足が迷った。だからイグネリアは前だけを照らした。前の岩を照らして登った。後ろは見なかった。
後ろの暗がりで、何かが寄り戻りながら削られていた。それをイグネリアは知っていたが、振り返らなかった。
「セレナさん、寝てていいよ」とイグネリアは前を向いたまま言った。
返事はなかった。
セレナの頭がフェルラムの肩でわずかに傾いだだけだった。イグネリアはそれでいい、と思った。寝てていい。ここから上はあたしが照らす。あんたは何もしなくていい。火が岩の角を照らした。照らした角をフェルラムが回った。三人は登った。
◇◇◇
苔の光が上のほうに、にじみ始めた。
岩の壁の上のほうに、青い薄いものがにじんでいた。二層の苔の光だった。三層の岩は灯火がなければ何も見えなかった。二層は苔が光った。その光が上から降りてきていた。降りてきた光のところまで登れば、二層だった。
イグネリアは火を少し弱めた。
弱めても足元は見えた。上から降りてくる青い光が、足元の岩の輪郭を薄く縁取った。火を弱めれば、その分の熱が減った。熱が減ればフェルラムの息が楽になった。
フェルラムは片腕でセレナを抱えて登っていた。彼の息は登るほど重くなっていた。イグネリアはその息の音を、背中の少し前で聞いていた。
聞いていて、ふとその音が止まったのに気づいた。
フェルラムの足が止まっていた。止まった足のその向こう、登り道の先のほう青い光がにじみ始めた境のあたりに、何か立っていた。
イグネリアは火をまた強めた。
強めた火がその境のあたりを照らした。照らされて、それは人の形をしていた。だが、人ではなかった。
「フェルラム」とイグネリアは低く言った。
言わなくても、フェルラムは見ていた。
◆◆◆
それは、骨だった。
体の表面に肉がほとんどなかった。剥き出しの骨の表面に、血管のようなものが赤黒く浮き出ていた。
三層のあの骨の人型と同じだった。だが、一体だけだった。岩の陰から、岩の陰から、いくつも立ち上がってくるあの群れとは違った。
それは一体で、登り道の先に立っていた。二層の青い光と三層の暗がりの、ちょうど境目のところに。
立っていたというより、そこにいた。
イグネリアには、それが自分たちを追ってきたのか、もとからそこにいたのか分からなかった。気づくと、登り道の先にいた。
三層で死んだものが、二層へ上がる道の境のあたりまで流れ着いて、そこに留まっていた。そういうふうに見えた。それがゆっくりと、こちらを向いた。
向いたその骨の輪郭に、イグネリアは見覚えがあった。
肩の幅。立ち方。革の鎧の留め金の形。脇腹のところの留め金がひとつ外れて、垂れていた。その垂れ方に、見覚えがあった。
「ヴェロ」と、イグネリアは言った。
言ってからしまった、と思った。言葉にすれば、それはもう戻らなかった。
◆◆◆
フェルラムがセレナを岩の上に下ろした。
登り道の岩の窪んだところにセレナを座らせた。座らせて、上体を岩の壁にもたせかけた。セレナの頭が岩にもたれた。残った手が膝の上に落ちた。その手はもう、フェルラムの肩を握っていなかった。握る相手が離れたからだった。
「セレナを見ててくれ」とフェルラムはイグネリアに言った。
「あたしも戦う」
「いい。お前は火をここに。あいつは一体だ。俺が、止める」
フェルラムは剣を抜いた。
抜いて、ヴェロの骨のほうへ体を向けた。
イグネリアはセレナの傍に火を置いた。
置いた火を低く保った。保ったまま、フェルラムの背中を見た。フェルラムが一歩、前に出た。出た一歩で、ヴェロの骨との間合いが詰まった。
そこから、フェルラムは止まった。
◇◇◇
止まったのは、間合いを読んでいたからだった。
イグネリアには、それが分かった。フェルラムはヴェロを知っていた。三層へ降りるとき、ヴェロはいつもいちばん前にいた。「全員、生きて帰る」と、いつも言った。フェルラムはその隣で血骨兵を捌いた。ヴェロがどう動くか、フェルラムは見ていた。
ヴェロは、短剣を投げる軽戦士だった。
投げた短剣が、相手を打って、手元まで戻ってくる。投げるたび、戻ってくるたび、ヴェロは次を投げた。フェルラムはその太刀筋を知っていた。
投げたその一拍、短剣が戻ってくるその一拍。手が、空く。その空いた一拍が踏み込みどころだった。投げて、戻る、その隙に重い体ごと前に出る。
フェルラムはその読みのまま、間合いを計っていた。
ヴェロの骨の右手に、短剣が握られていた。柄に彫り込みのない、ありふれた短剣だった。接近戦用の、もう一本のほうだった。三層のあの戦場で、ヴェロが最後に握っていた、もう一本。それを、ヴェロの骨は握っていた。
イグネリアはその短剣を見て、一つ、引っかかった。
ヴェロがいつも投げていた、あの短剣ではなかった。柄に細かな彫り込みのある、使い込んで光沢を帯びた、あの短剣。投げれば戻ってくる、あの短剣。それを、ヴェロの骨は持っていなかった。手にあるのは、ありふれたほうだった。
待って、とイグネリアは思った。
あの、戻ってくる短剣は。
◆◆◆
ヴェロの骨が動いた。
緩慢だった。生きていたヴェロは速かった。三層でいちばん速く前に出た。関節がありえない角度に曲がったまま、それでも着実に前に出てきた。だが、遅い。生きていた頃の半分の速さもなかった。
フェルラムはその遅さを待った。
待って、ヴェロの骨の右手の短剣を見た。投げる、とフェルラムは読んだ。ヴェロは投げる。投げて、戻す。その一拍を待てば、踏み込める。
フェルラムの重心がわずかに前に傾いだ。投げてくる短剣を剣でいなして、それから戻りの一拍で踏み込む。フェルラムの体が、その手順の構えに入った。
ヴェロの骨は、短剣を投げなかった。
握ったまま、前に出た。緩慢に前に出て、握った短剣を突き入れた。投げる動きではなかった。手にしたまま、刺す動きだった。フェルラムの体は、待っていた。待っていた、ぶんだけ、フェルラムの剣はいなす相手を捉えそこなった。
それでも、フェルラムは剣でヴェロの骨の腕を打った。
打った。打って、骨の腕が肘のあたりで折れた。短剣が軌道を外れた。外れて、けれどフェルラムの重装の肩当てのない側、革の継ぎ目のところを短剣の先が切り裂いた。赤い血が宙を舞った。
フェルラムは剣を握り直した。ヴェロの骨は腕が折れたまま、また前に出ようとした。フェルラムが、その頭の付け根のところを剣で断った。
断たれて、ヴェロの骨が崩れた。崩れた骨が登り道の岩の上に散らばった。散らばって、わずかに動いて、それから動かなくなった。
倒した、とイグネリアは思った。
◆◆◆
倒した。フェルラムが止めた。一体だった。それが終わった。
イグネリアの握っていた火が少し緩んだ。緩んだ火が低く揺れた。ふう、と息が漏れた。よかった。一体でよかった。群れではなくてよかった。フェルラムが剣を下ろそうとした。下ろしかけたその腕が、止まった。
止まったフェルラムの背中の輪郭が、イグネリアの目に入った。
入った瞬間、イグネリアはそれを音より先に、知った。
熱だった。フェルラムの背中、肩のあたりの革の継ぎ目の下の熱が変わった。
切り裂かれたそのところから、熱が内側へ、引いていく。生きている熱とは違う、引きかただった。
イグネリアは、それを、見たのではなかった。フェルラムの背中の熱が変わったのを、火を握ったまま離れたところから、肌で知った。
「フェルラム」と、イグネリアは言った。
声が、思ったよりも低く出た。
フェルラムは背中を向けたまま、自分の肩のあたりに手をやった。革の継ぎ目の、切り裂かれたところに指を当てた。当てた指は、赤く濡れた。フェルラムはその指を灯火のほうへ向けた。赤く濡れた指の縁に血とは別の、暗いにじみが、あった。
「毒か」と、フェルラムは言った。
言って少し、間が空いた。
イグネリアはその間に、火を握ったまま立っていた。立っていることしかできなかった。フェルラムの背中の熱がその間にも、肩のあたりからゆっくりと引いていくのを、肌で感じていた。
◇◇◇
フェルラムが片膝を、ついた。
ついた膝が登り道の岩を押さえた。剣が岩の上に置かれた。フェルラムはもう一度自分の肩のあたりに手をやろうとして、その手が途中で緩んだ。緩んで、岩の地面についた。
イグネリアは火を岩の窪みに置いた。
置いて、隣のセレナの肩を掴んだ。毒なら、神官だった。神官の奇跡なら、毒も治せるかもしれなかった。
「セレナさん。起きて」
揺すった。セレナの頭が揺れた。揺れただけだった。目は薄く開いていた。開いた目がイグネリアを見た。見て、それだけだった。起き上がる力が、その体のどこにも残っていなかった。唇がわずかに動いた。声は、出なかった。
「フェルラムが。……起きてよ、セレナさん」
揺すっても、同じだった。セレナの体は岩の窪みにもたれたまま、動かなかった。イグネリアは掴んでいた肩を離した。
腰の袋を開けた。
開けて、中のものをぜんぶ岩の上にあけた。小瓶が転がった。解毒のポーションが一本。回復の、緑のが二本。手持ちの、ありったけだった。迷宮では使わずに取っておくものだった。イグネリアは解毒の小瓶の栓を歯で抜いて、フェルラムのところへ走った。
「飲んで」
フェルラムは、飲んだ。黙って、飲み干した。イグネリアはフェルラムの肩に手を当てて、待った。手のひらの下で熱は、引いていった。
回復の小瓶の栓を抜いた。緑のものを、革の継ぎ目の切り裂かれたところに、ぜんぶかけた。
傷は、塞がった。塞がって熱は、戻らなかった。
最後の一本の栓を抜いて、フェルラムの口に当てた。フェルラムはそれも飲んだ。飲み干してそれで、ぜんぶだった。
空になった小瓶が三本、岩の上に転がっていた。
イグネリアはフェルラムの傍に、膝をついた。手のひらに、フェルラムの体温が伝わってきた。まだ、温かかった。けれど、その温かさが手のひらの下で、一拍ごとに薄くなっていった。
イグネリアはその薄くなっていくのを止めようと、手のひらに力を込めた。
込めても、止まらなかった。手のひらの下の熱は込めた力とは関係なく、ただ引いていった。
イグネリアの手は、フェルラムの体温が引いていくのを止められないまま、ただそれを感じ続けた。
感じないでいられたら、と、イグネリアは思った。後ろから骨の指に刺されて、振り向く間もなく死ぬのなら、こんなふうに一拍ずつ熱が引くのを感じないで済んだ。
「ヴェロだったんだな」と、フェルラムが言った。
声は低かった。だが、揺れてはいなかった。
「そうだね」と、イグネリアは答えた。
「読んだんだ。投げて戻ると。あいつのいつものやつだ」
フェルラムはそこで、息を一つした。
「戻らなかった」
イグネリアはその言葉の意味を半分しかつかめなかった。読みが外れた、という意味だと思った。
投げて戻る、と読んでヴェロは投げなかった。読みが、戻らなかった。
けれど、フェルラムが言ったのは、もう少し別のことのようにも聞こえた。イグネリアはそれ以上追わなかった。追っている時間が、なかった。
「外した」と、フェルラムは言った。
「……何をさ」
「最後の一打。あいつの付け根を断つ前にもう一打入れるつもりだった。外した」
それは誰にも関係のないことのように、フェルラムは言った。
イグネリアはその「外した」を聞いて、フェルラムの肩を、もっと強く握った。
◆◆◆
「セレナを」と、フェルラムは言った。
「連れて上がれ」
イグネリアは首を横に振った。
「あんたを置いていかない」
「群れが来る」
来る、とフェルラムは言った。三層の、あの骨の人型は一体ではなかった。境のあたりにヴェロの骨が流れ着いていたなら、ほかの骨もいずれ流れてくる。立ち止まっていられる時間は、長くなかった。
それでも、イグネリアは手を、離さなかった。
セレナが岩の窪みのところでわずかに身じろぎした。その目がフェルラムのほうを、見ていた。見て、何も言わなかった。何も言わずに、ただ見ていた。その目にはもう、フェルラムの肩のところで起きていることが映っていた。
「セレナさん」と、イグネリアは振り向かずに言った。
セレナは動かなかった。動けなかった。動けないまま、フェルラムのほうを見ていた。
イグネリアはフェルラムの肩から手のひらを離さなかった。離さずに、もう片方の手を火のほうへ伸ばした。
伸ばして、火を少し強めた。火が岩の壁を照らした。その向こうに、二層の青い光がにじんでいた。
あと少し登れば、二層だった。あと少しで、岸辺だった。
岸辺。
◇◇◇
イグネリアは火を出した。
出した火を、フェルラムと、ヴェロの骨の散らばった岩のあいだに流した。火が流れて、岩の上を舐めた。骨の散らばったかけらを、火が舐めた。けれど、骨は燃えなかった。骨には焦がす肉が、なかった。火は岩の上で低く燃えた。
止める者はいなかった。
二層の岸辺で、いつか、フェルラムは言った。ここは火は、いらない。なんで、とイグネリアは訊いた。明るい、とフェルラムは答えた。
たしかに、苔の光で岸辺は明るかった。イグネリアは起こしかけた火を消した。あのとき、フェルラムが止めた。
今、イグネリアの火を止める者は、いなかった。フェルラムは岩の地面に膝をついていた。
イグネリアはその火を見ていた。
骨を、焦がせない火だった。何でも焦がした火が、骨は、焦がせなかった。ヴェロの骨も、焦がせなかった。フェルラムの肩の毒も、焦がせなかった。
イグネリアは火を使い始めた頃に、自分の火で自分の手を焼いた。馬鹿みたいでしょ、といつかセレナに言った。手の甲にその火傷の跡が、まだあった。
何でも焦がす火だった。けれど、いまいちばん焦がしてほしいものを、その火は焦がせなかった。
イグネリアは火を低めた。
低めて、フェルラムの肩に手のひらを戻した。戻した手のひらの下で、フェルラムの体温は、さっきよりも薄くなっていた。
◆◆◆
「お前は」と、フェルラムが言った。
息が浅くなっていた。
「最下層に来たな」
イグネリアはその言葉を聞いて、岸辺のことを思い出した。
二層の岸辺で、フェルラムは川面を見たまま言った。お前は最下層に来るな。なんで、とイグネリアは訊いた。フェルラムは答えなかった。
「行ったよ」と、イグネリアは言った。「あんたが、行くって、言ったから」
「そうか」
フェルラムは、それでよかった、というふうに息をした。
「だけど」と、イグネリアは続けた。声が、震えた。「あんたは最下層で死ぬつもりだったんだろ。あたしを来させないで先に行って。そこで」
「ああ」
「なのに」
ここで、とイグネリアは言いかけて、言えなかった。
最下層では、なかった。二層の、帰り道だった。二人が並んで川面を見たあの岸辺の、すぐ手前で。フェルラムは、覚悟していた場所とは違うところで、死のうとしていた。覚悟の場所のもっと、手前で。イグネリアが、来てもいい、と言われた場所で。
フェルラムはそれを聞いて、少し、口の端を動かした。
「まあ」と、フェルラムは言った。「こんなもんか」
◇◇◇
フェルラムの体が、岩の地面のほうへ、傾いだ。
傾いでイグネリアがそれを受けた。受けて、自分の膝の上にフェルラムの頭をもたせかけた。フェルラムの体は重かった。重装の鎧の重さだった。その重さの中でひとつだけ、ほかと違う温度のものが、イグネリアの腕に触れた。
左の、肩当てだった。
ほかの鎧とは少し違う金属だった。古い、使い込まれた肩当て。フェルラムがいつも左の肩につけているものだった。
なぜそれだけ別のものをつけているのか、イグネリアは知らなかった。訊いたこともなかった。
フェルラムはそれを外さなかった。降りるときも上がるときも、いつも左の肩につけていた。
その肩当ての金属が、イグネリアの腕に触れていた。
冷たかった。金属はもとから、冷たかった。フェルラムの生きた体は、温かかった。
だから、肩当ての金属とフェルラムの体のあいだには温度の差が、あった。生きた熱と冷たい金属の、差。
イグネリアはその差をいつも、フェルラムの肩に触れるたびに感じていた。
いまその差が、消えていこうとしていた。
フェルラムの体温が一拍ごとに引いていって、左の肩当ての金属の冷たさに、近づいていった。
生きた熱が薄くなって、冷たい金属の温度に、合流していった。イグネリアは、その合流を、腕で感じていた。
差が、消えていく。肩当ての冷たさとフェルラムの体の温かさの差が消えて、ひとつの温度に、なっていく。
イグネリアは、フェルラムの肩に、手のひらを当てた。
当てた手のひらが、左の肩当ての上に重なった。冷たい金属の上に、イグネリアの温かい手のひらが重なった。
重ねた手のひらの下で、金属は冷たかった。冷たくて、けれどその下のフェルラムの体はまだ、わずかに温かかった。
まだぜんぶは、引いていなかった。
「フェルラム」と、イグネリアは言った。
返事はなかった。
◆◆◆
イグネリアはしばらく、そうしていた。
膝の上のフェルラムの頭は、動かなかった。手のひらの下の左の肩当ては、冷たかった。その下のフェルラムの体温は、もう引ききって金属の冷たさと同じに、なっていた。差は、消えていた。生きた熱と冷たい金属の差は、もうどこにもなかった。
イグネリアはフェルラムの肩から、手を離さなかった。
離せば、その手のひらに、何も伝わらなくなるからだった。離さなければまだ、フェルラムの肩の冷たい金属が手のひらに触れていた。
触れているあいだは、まだ、フェルラムがそこにいた。冷たくなっても、いた。
だからイグネリアは手を離さなかった。離さずに、その冷たさを、手のひらで感じていた。
感じていられた。
セレナが岩の窪みのところからこちらを見ていた。
見て、何も言わなかった。残った手を膝の上に置いたまま、ただ、見ていた。その目から何かがこぼれて、頬を伝った。声は、立てなかった。セレナは声を立てるかわりに、ただ、それを見ていた。見ていることしかできない高さに、座っていた。
イグネリアは、フェルラムの肩に手を当てたまま、登り道の先のほうを見た。先は二層だった。青い光がにじんでいた。あと少しで、岸辺だった。フェルラムと並んで川面を見た、あの岸辺。
◇◇◇
イグネリアはフェルラムを背負った。
背負えなかった。重装の鎧は重かった。イグネリアの背ではフェルラムの体は半分も持ち上がらなかった。それでも、置いてはいけなかった。三層の境に置いていけば、骨が流れてくる。フェルラムを、骨の流れてくる場所に、置いてはいけなかった。
セレナが岩の窪みから降りようとした。
降りて、片方しかない手で、フェルラムの体の足のほうを持とうとした。片方の手では、フェルラムの足は持ち上がらなかった。セレナの体も、まだ力が入らなかった。
二人でフェルラムの重い体を二層のほうへ引きずるしかなかった。引きずって、登った。一歩ずつ引きずって、登り道を登った。
青い光が近づいた。
近づいて、岩の壁の上のほうから苔の光が降りてきた。その光のところまで登れば、二層だった。二層の、岸辺だった。
二人はフェルラムを引きずって二層へ出た。
◆◆◆
岸辺はちがっていた。
二層の奥に、川があった。血河と、イグネリアが呼んだあの川。一層の細い水路が合流して、大河になったあの流れ。
岸辺の岩の谷の底を、赤黒い流れがゆっくりと流れていた。その流れの上に天井の苔の青い光が降って、二つの色が混じらずに重なって、流れていた。
その流れがちがっていた。
赤黒い流れが、岸辺のほうへ、せり上がっていた。谷の底をゆっくり流れていたものがいつのまにか、岸のほうへせり上がって、岩を浸し始めていた。岸辺の岩の青い光が降っていた岩の、その上を赤いものが、覆い始めていた。
血河が逆に、流れていた。
谷の底へ低いほうへ流れていくはずのものが、岸のほうへ高いほうへ、せり上がってきていた。なぜそうなっているのか、イグネリアには分からなかった。赤いものが岸の岩を浸していくのを、イグネリアは見た。青い光の岸を、赤いものが覆っていった。
岸辺の黒い木の根のあたりまで、赤いものが来ていた。
あの木の下は避けて、といつかイグネリアは言った。魔物が、寄る。理由は知らないけどね、と。
その黒い木の根のあたりまで赤いものがせり上がって、根を浸していた。
木の枝に垂れていた赤黒い実が、せり上がってきた赤いものの上にいくつか落ちて、流れていった。
イグネリアはその岸辺に、フェルラムを引きずって出た。
◇◇◇
ここでフェルラムと、川面を見た。
二つの色が混じらずに重なって、流れていた。綺麗な場所だね、とイグネリアは言った。ああ、とフェルラムは答えた。
あたしさ、こういう場所に来ると、思うんだよね。こういう場所があるなら、まだ、降りててもいいかなって。
フェルラムは答えなかった。川面の二つの色の重なりを、見ていた。
しかし、その岸辺の青い光を、赤いものが覆っていた。
二つの色は、もう混じらずに重なっては、いなかった。下からせり上がってきた赤いものが青い光を押し上げて、覆って混ぜていた。
混じらないはずの二つの色が、混じり始めていた。岸辺の岩の上を赤いものが流れて、青い光をにじませて、消していった。
イグネリアはその岸辺に、フェルラムを横たえた。
赤いものがまだ届いていない、岩の上のほうに横たえた。横たえて、その左の肩当てを上に向けた。古い、使い込まれた肩当て。フェルラムがいつも外さなかった、左の肩の金属。それを上に向けて、フェルラムの肩を、整えた。
整えて、イグネリアはその肩当てにもう一度、手のひらを当てた。
冷たかった。フェルラムの体は、もうぜんぶ冷えていた。左の肩当ての金属と同じ、温度になっていた。
生きた熱は、もうどこにもなかった。イグネリアの手のひらだけが、温かかった。
冷たい肩当ての上に、イグネリアの温かい手のひらが重なっていた。
岸辺の下のほうで、赤いものが岩を浸していった。
◆◆◆
セレナがフェルラムの傍に、膝をついた。
ついて、残った手をフェルラムの肩のあたりに伸ばそうとして途中で、止めた。止めて、その手を自分の膝の上に戻した。
戻した手は、空いていた。片方の腕は、なかった。残った手も、何も握っていなかった。
セレナはその空いた手を膝の上に置いて、フェルラムを見ていた。
イグネリアはセレナのほうを見た。
セレナの頬を、いくつか流れた跡があった。声は立てていなかった。立てずに、フェルラムを見ていた。残った手を膝の上に、置いて。
イグネリアは、フェルラムの肩の冷たい肩当てに手を当てたまま、岸辺を見た。
赤いものが、岸をせり上がってきていた。あと少しで、フェルラムを横たえたこの岩のところまで来そうだった。長くはここにいられなかった。骨が流れてくる前に、二層を上がらなければならなかった。フェルラムをここに、置いて。
置いていかなければ、ならなかった。
セレナを連れて上がれ、と、フェルラムは言った。それが、フェルラムの最後の頼みだった。連れて、上がれ。イグネリアはセレナのほうを見た。セレナは、まだ力が入らなかった。片方の腕も、なかった。連れて上がるのは、イグネリアの役だった。
イグネリアはフェルラムの肩から、手のひらを離した。
離した手のひらに冷たさが、残った。残った冷たさを握り込んで、イグネリアは立ち上がった。セレナの残った手を取った。取って、引き上げた。引き上げたセレナの体は、軽かった。
「行こう」と、イグネリアは言った。
セレナはフェルラムのほうを、もう一度見た。
見て、それからセレナがフェルラムから離れた。離れるその背中に、イグネリアは手を添えた。添えて、岸辺を上のほうへ歩いた。歩きながら、後ろのフェルラムを振り向かなかった。
振り向けば、また、置いていけなくなるからだった。
◇◇◇
岸辺を、二人は駆け抜けた。
赤いものがせり上がってくる岸辺の、岩のあいだを、二人は駆け抜けた。いつかフェルラムと並んで川面を見た、あの岸辺だった。綺麗な場所だね、と言ったあの岸辺。
その岸辺の青い光を、赤いものが覆っていた。覆われた岸を、イグネリアはセレナの背を押すように駆け抜けた。
駆け抜けながら、イグネリアは思い出した。
ここでフェルラムは、お前は最下層に来るな、と言った。行ってよかったのか悪かったのか、もう分からなかった。何かが、ちがったのか。分からなかった。フェルラムは、死んだ。
あの、二つの色の重なった川面は。
もう、なかった。赤いものが覆って、消していた。イグネリアはそれを横目に見ながら、岸辺を駆け抜けた。駆け抜けて、岸辺の上のほうの、登り道のほうへ出た。
岸辺を出るその手前で、イグネリアは一度だけ、後ろを見た。
赤いものが岸辺の青い光をぜんぶ、覆っていた。その覆われた岸のいちばん下のほうフェルラムを横たえたあの岩のところにも、赤いものがせり上がってきていた。
あと少しで、届きそうだった。
左の肩当ての金属がその赤いものの上の岩の上で、苔の最後の光をわずかに返していた。
イグネリアはそれを見て、前を向いた。
向いて、セレナの背を押した。押して、登り道のほうへ歩いた。後ろで赤いものが、岸辺を浸していった。




