第十三話「捧げる」
セラフィナは、澱の前に膝をついた。
つこうと、決めたのではなかった。膝の力が、先に抜けた。抜けた膝が、岩の床のほうへ落ちた。
怖いまま、だった。何が怖いのかは、まだ分からなかった。理由のない怖さが、彼女を床のその高さに留めた。
澱は灯火の届く縁の向こうにいて、いるのにすぐ傍にいた。遠いのか近いのか、目はまだ決められなかった。
膝をついた高さから、彼女はそれを見た。
澱の縁が、二つに分かれていた。分かれた二つが細く伸びて、先が五つに割れていた。指だった。二つの、手の形だった。二つの手が、低いところで何かの上に当てるように揃っていた。傷の上に、置くように。
見覚えの、ある形だった。
それは、彼女の手だった。誰かの傷の上に、両の手を当てる形。当てて低く祈る形。彼女がいつもしている形だった。それを、澱がしていた。
◇◇◇
彼女は、数えようとした。
膝をついた高さからでもそれはいつもの癖だった。誰がどこにいるか。誰が傷を負っているか。誰から手当てに向かうか。彼女の目がいつもの順を辿ろうとした。
フェルラム。イグネリア。それから、自分。
三人だった。三人は近い順にと並ぶはずだった。並べば誰がいちばん近いか決まるはずだった。
けれど目はその順を辿りきれなかった。澱が目の前にいた。澱は近い順のいちばん近いところにいるようでもあった。いちばん遠いところにいるようでもあった。
一つのかたまりなのか。数えきれない、ばらばらのものなのか。それも、決まらなかった。彼女の数えはそれの前でどこにも掛からなかった。
掛からない数えを彼女は数え直さなかった。
両の手が、膝の上から上がった。
◇◇◇
澱の二つの手が、まだ祈る形をしていた。
低いところで傷の上に当てるように揃っていた。彼女の手の形だった。当てて低く祈る形。それを澱がなぞっていた。
なぞった形は、彼女の手と同じだった。
同じだったが、一つだけ合っていなかった。指のいちばん長いところ。彼女の手なら、そこはまっすぐに伸びていた。澱の手のその指はわずかに内へ折れていた。折れたまま、伸びきらなかった。
形は、つくりかけられてそこだけつくりかけのままだった。ほかは、彼女の手だった。
彼女は、それを見た。
見たが、何も思わなかった。思う間がなかった。澱の祈る形が彼女の手の形に近づこうとして、その指の一点だけ近づききらない。それはただ彼女の目にそう映った。映ったまま、彼女は自分の両の手を見た。
自分の手は、まだ形になっていなかった。
◇◇◇
彼女は、両の手を祈る形にした。
傷の上に当てるときの形に。当てて低く祈るときの形に。指を揃えた。揃えた指のいちばん長いところはまっすぐに伸びていた。折れていなかった。それはいつもの形だった。何百回も誰かの傷の上で作ってきた形だった。
その形を作る前に、彼女の手はいつもの場所へいこうとした。
胸の聖印の留め具のところへ。布の上から一度押さえる。それは傷の上に手を当てる前のいつもの所作だった。緊張のとき。決意のとき。確かめのとき。その手が聖印に触れ直そうとして──
もう、その手は聖印のところにいなかった。
手はもう別のところへ動いていた。聖印の留め具のあったはずの高さを通り過ぎていた。通り過ぎた手は澱のほうへ伸びていった。彼女はその手を引き戻さなかった。
唇が、聖句のはじめの音をかたちづくった。
声にはならなかった。音は口の手前で留まった。留まったまま、唇だけがその形をかたどった。かたどって、息がそれを外へ運ばなかった。聖句は声にならないまま彼女の口の中にあった。
彼女は、片腕を澱の中へ差し入れた。
◇◇◇
血のいろの中へ、腕が入っていった。
重く湿ったものが、腕に触れた。骨とも肉とも違う、重く湿ったものだった。逃げる手は、止めなかった。逃げようとも、しなかった。腕は、その中へ入っていった。手首まで、入った。肘まで、入った。
入っていく腕を、血のいろが包んだ。
包んで、引いた。彼女が差し入れる動きと別に、血のいろのほうが腕を内へ引く動きをした。差し出す手と、受け取る側の動きが同じ一点で合った。腕は、肩の付け根まで入った。
そこで、彼女の手が際を越えた。
越えた手は、もう灯火の届く側にはなかった。引けば戻る、という高さを越えていた。
彼女は、引かなかった。引こうとも、しなかった。差し入れた腕は差し入れたまま血のいろの中にあった。戻る、という動きがその腕にはもうなかった。
◇◇◇
血のいろが、片腕のかたちをつくりかけた。
差し入れられた腕の輪郭を血のいろがなぞろうとした。なぞって、かたちにしようとした。腕の肩から肘へ手首へ。その線を血のいろがつくりかけた。
つくりかけて、ほどけた。
つくりきる前に、線が崩れた。崩れて、別のところでまたつくりかけた。また、ほどけた。
腕のかたちはいくつもつくりかけられて、いくつもほどかれた。一つもつくりきられなかった。血のいろは差し入れられたもののかたちを保てなかった。保とうとして、その端から崩れた。
祈る形のほうも、まだ低いところにあった。
二つの手の形は傷の上に当てるように揃ったままだった。揃った形が差し入れられた腕を低いところで受けていた。
受けながら、その形もほどけかけた。指の内へ折れたあの一点からほどけた。彼女の目にそれは何度も同じことを繰り返しているように映った。
◆◆◆
彼女の腕に触れていた重さがふいに遠くなった。
差し入れた腕の感覚が薄くなった。重く湿ったものに包まれていた手応えが引いた。引いて、彼女はその腕がもう自分のものとして戻ってこないことを肩のあたりで知った。
知ったが、痛みはなかった。
血も流れた様子がなかった。腕はただ血のいろの中にあって、彼女のほうへはもうつながっていなかった。
彼女は、残ったほうの手を膝の上に置いた。置いた手は、空いていた。聖印にも、触れていなかった。澱にも、触れていなかった。ただ、膝の上にあった。
体から、力が抜けた。
膝をついた高さから、上体がわずかに傾いだ。傾いで、止まった。倒れきりは、しなかった。
彼女は、片腕の入っていったほうの肩のあたりを見た。そこにはもう腕がなかった。袖が空いて垂れていた。垂れた袖の先が血のいろの縁に触れていた。
◆◆◆
「セレナさん」
イグネリアの声が、近くで鳴った。
火が、澱の縁を焦がしていた。焦げた縁は、すぐに満ちた。満ちて、また寄り戻った。焦がしても焦がしても、縁は戻った。イグネリアの火は、澱を退かせられなかった。
フェルラムが、間に入った。
入って、彼女と澱のあいだに立った。彼は、片腕の手を彼女の脇の下に入れた。入れて、彼女を抱え上げた。
抱え上げられた彼女の体は、軽かった。
軽くて、片方が足りなかった。フェルラムの腕がその足りないほうを支えた。支えて、彼は退き道のほうへ体を向けた。彼女の頭が彼の肩のあたりにもたれた。もたれた頭の向こうで、澱がまだつくりかけてはほどけていた。
彼女の胸のあたりで、何かが揺れた。
聖印の留め具だった。布の上の赤い涙滴の留め具が、抱え上げられた拍子に布の上で揺れた。揺れて、また揺れた。誰の手も、それを押さえなかった。
差し入れた腕の手はもうなかった。残った手は彼女の体を支えるのに塞がっていた。留め具は布の上で揺れたまま、誰の手にも押さえられなかった。
◇◇◇
フェルラムが退き道へ、走った。
イグネリアの火が先に立った。立った火が岩の間の線を照らした。照らした線の後ろを火が焦がした。焦がして、退路を開いた。開いた線をフェルラムが彼女を抱えたまま抜けた。
退く道は、登りだった。
降りてきた道を登った。登りながら、フェルラムの足が岩を蹴った。蹴って、上へ進んだ。彼女の頭は彼の肩のあたりにもたれたままだった。もたれた目に、後ろの暗がりが映った。
暗がりの中で、澱が寄り戻っていた。
火に焦がされた縁が満ちて寄り戻った。寄り戻りながら、その縁の一部が削られていた。寄り戻る動きと削られる動きが同じところで重なっていた。澱は寄り戻りながら、寄り戻りきらなかった。
彼女は、それを見ていた。
見ていたが、もう数えなかった。数える手は、片方がなかった。残った手はフェルラムの肩を握っていた。握る力も、薄かった。
彼女の目が暗がりの澱から登り道の先のほうへ移った。先は暗かった。灯火の光はその登り道の先まで進まなかった。
三人は、その登り道を登っていった。




