第十二話「数えられない手」
血の池を、五人は左の岸から回った。
池は灯火の届く幅よりも広く、対岸は見えなかった。血河の滝が暗がりの高いところから落ち続けて、落ちる音と注ぐ音が、二拍遅れて足の下から返ってきた。五人はその音を右に聞きながら、岸の岩を辿った。
池の向こうに、洞窟の口がいくつも開いていた。
見取り図が描いていたのは、ここまでだった。ここから先は、誰も描いていない。サギッタが先頭に立ち、口を一つずつ確かめてそのうちの一つを選んだ。選んだ口に四人が続いた。
◇◇◇
洞窟の道は降り続けた。
道は狭くなり広くなり、また狭くなった。降りるほど、あの匂いが強くなった。
腐ろうとして、腐りきれない匂い。その底に混じる甘いような、胸の奥が冷たくなる匂い。どちらも、もう知っている匂いだった。知っている匂いが、知っているどの場所よりも強くなっていった。
一度、道の奥から黒いモヤのような風が流れてくるのが見えた。
サギッタが手を上げ、五人は岩の裂け目に身を入れて灯火を消した。火も剣も効かない、と聞いていたものだった。黒いモヤは、裂け目の前の道を音もなく流れていった。長いあいだ、流れ続けた。やがて薄くなり、消えた。五人は裂け目を出てまた降りた。
死んだものは、この深さでは少なかった。
時折、骨の人型が一体二体と道に立った。サギッタは矢筒の決まった側から一本を抜いた。その矢が目のあたりを射て止め、フェルラムの剣が砕いた。
サギッタは砕けた骨から矢を無言で抜き戻し、矢筒の同じ側へ入れた。抜き戻せない矢もあった。矢筒は軽いままだった。
岩の壁に印があった。
フェルラムが剣の先で刻む印とは、違う形だった。新しい削り跡が一つ壁の低いところにあった。五人の誰のものでもなかった。誰も、それを口にしなかった。五人はその印の前を過ぎて、降りた。
三層には朝も夜もなかった。五人は決めた頃合いに火を低く焚き、交代で眠った。眠りをいくつか重ねた。眠りと眠りのあいだに、道は降り続けた。
歩きながら、セラフィナは数えた。
サギッタ。ウェントゥス。フェルラム。イグネリア。それから、自分。五つ。数は、ずっと五つのままだった。数えるたびに、五つだった。
降りるほど、胸の奥がざわついた。
理由は、なかった。匂いのせいでもなかった。匂いには、もう慣れていた。ざわつきは、慣れなかった。眠りを重ねるたびに、それは強くなった。彼女はそれを誰にも言わなかった。言う言葉が、なかった。
◇◇◇
道が、開けた。
広く低い場所だった。天井は灯火の光の届かない高さにあり、床は緩く窪んで奥へ向かって沈んでいた。降りてきたどの場所よりも、深いところだった。空気は重く、あの甘い匂いはここでいちばん強かった。
灯火の光の縁に、それはいた。
骨ではなかった。澱人でもなかった。立っているのでも、伏しているのでもなかった。床の低いところに血のいろをしたかたまりが、あった。かたまりの表面は、決まらなかった。
爪のように白いもの、髪のように細いもの、骨のように固いものが浮かんでは沈んだ。形はいつもつくりかけだった。つくりかけのまま別のつくりかけに変わった。
死んだものではなかった。
死んだものなら、ここまでの道でいくつも見てきた。動いていても、死んでいた。これは、違った。降りてきた五人が初めて見る、新しいものだった。いちばん深いところに、いちばん新しいものがいた。
それが何か、五人とも知っていた。
知らずにここまで降りる者はいなかった。この迷宮のいちばん下には、主がいる。死んだものたちのそのまた奥に、迷宮の澱がいる。次の主の話で浮き立っていたあの街の声の明るさを、彼女はこの暗がりで思い出した。その主が、灯火の縁の向こうにいた。
見た瞬間に、セラフィナの胸の奥が冷たくざわめいた。
怖い、と思った。理由は、どこにもなかった。骨の人型の戦場でも黒いモヤの前でも、こうはならなかった。ただ、怖かった。膝の力がそれだけで薄くなった。
フェルラムが剣を抜いた。イグネリアが指先で火を生んだ。二人の動きはいつもの速さだった。サギッタが矢筒の別の側から一本を選んで番え、ウェントゥスの頭上で風が低く鳴った。四人はいつもの四人だった。セラフィナだけが一拍遅れた。
澱が、動いた。
◇◇◇
最初の矢が澱の縁に立った。
立った矢はゆっくりと沈んだ。血は出なかった。音もなかった。矢はただ、血のいろの中に埋もれて見えなくなった。サギッタは二本目を番えなかった。
澱は低いままこちらへ来た。
縁が伸びた。伸びたものをフェルラムが左肩で受け、逸らした。骨とも肉とも違う、重く湿った感触が肩当ての上を滑った。逸らした隙間へウェントゥスの風が降りた。風はかたまりを横に押し開いた。開いた縁を、イグネリアの火が焦がした。
焦げた縁が縮んだ。
三層に降りてから初めて、彼女の火は焦がすものを見つけていた。骨は焦げなかった。これは、焦げた。焦げて、退いた。退いた分だけフェルラムが踏み込み、剣を深く入れた。
剣は、入った。
入って何にも当たらなかった。固いものにも震えるものにも、当たらなかった。切っ先は血のいろの中を抜けて、届く底を見つけられなかった。フェルラムは剣を引き、退いた。深追いはしなかった。
それでも手は噛み合っていた。
矢が止め風が開き、火が焦がし剣が押す。長く合わせてきた手が、噛み合っていた。弦の音と風の低い鳴りと、火の爆ぜる音が窪みの中で重なった。どれも、五人の音だった。
澱は、音を立てないまま床の窪みのほうへ半歩退いた。それは、これまでのどの魔物とも同じ退き方だった。五人は進んだ。
セラフィナは後ろから、それを見ていた。
見えるものが、少し遅れて届いた。風の音が先に来て、風に開かれる縁があとから見えた。彼女は灯火を高く保ち、数えた。誰が、どこにいるか。誰が先に傷を負うか。誰から手当てに向かうか。四人は、まだ誰も傷を負っていなかった。
澱の動きが変わった。
◇◇◇
低かったものが立ち上がった。
立ち上がった形は細く、速かった。速さが、それまでと違った。重く湿ったものの速さではなかった。床を擦るように低く岩から岩へ、跳ねるように動いた。
サギッタの矢が、その行く先に立った。
来るはずの間合いに、先に立てる矢だった。彼の矢は、いつもそうやって立った。動くものの次の一歩のところに矢が先に立ち、動くものがそこへ来た。
矢は、空に立っていた。
速いものは、来るはずのところに来なかった。読みの外を、それは動いた。外さない射手の矢が、誰もいない暗がりに立っていた。
次の矢を番える間がなかった。
速いものは、もうサギッタのところにいた。
サギッタが、妹を見た。
一度だけだった。一度だけ、目が妹のほうへ向けられた。それから、血のいろのものがサギッタを覆った。
覆って、沈んだ。声はなかった。叫びもなかった。サギッタは、最後まで何も言わなかった。
白い長弓が、地に落ちた。
弓は、白いまま暗がりの中に残った。
「待って」と、妹のウェントゥスが言った。
誰に言ったのかは、分からなかった。待つものはどこにもなかった。
澱の縁が長く伸びた。
伸びた形は弓だった。弓を引く形だった。引かれた形から、細く固いものが飛んだ。飛び方が矢だった。まっすぐで、外さない矢の飛び方だった。
一本がフェルラムの左の肩当てに当たって逸れた。一本がイグネリアの火の横を抜けて、岩で砕けた。五人は──四人は、岩の陰に散った。
セラフィナは岩の陰から、数えようとした。
誰が、どこにいるか。誰から手当てに向かうか。目がいつもの順を辿った。辿った先に、弓を引く形があった。弓は、サギッタ。そう置きかけて置けなかった。弓を引いているのは、サギッタではなかった。弓の形をした別のものだった。
誰の手でもない手は、数えに入らなかった。
◇◇◇
「同じ手は二度、出すな」とフェルラムが岩の陰から低く言った。
誰も問い返さなかった。短い言葉が指すものを四人とも、もう見ていた。
最初の交わりで向けた剣の振りは、次の交わりで向こうから返ってきた。火の向け方は、二度目には読まれていた。一度向けた手は、次には向こうの手になっていた。
二度目は通らなかった。三度目には先に来た。向こうは覚えた。こちらより速く覚えた。
四人は手を刻んだ。
風は短く。火は低く。剣は浅く。深い手は、見せずに残した。イグネリアの火が退き道の岩の間を焦がして、抜けるための線を開けた。手は、勝つためではなく抜けるために出された。
その手の合間に、イグネリアの左の腕に浅い傷が開いた。
飛んだ細いものが、掠った傷だった。セラフィナは岩の陰で、その傷の上に両の手を当てた。当てて低く祈った。傷の縁が寄り、塞がった。手当てはそれで終わった。終わるまで息三つ分だった。イグネリアは腕を一度振って、また火を生んだ。
澱の形がまた変わった。
弓の形が消えた。代わりに、かたまりの上に何かが持ち上がった。持ち上がったものは落ちずに、そこに留まり続けた。頭の上に一つ、用意して置いておく形だった。
ウェントゥスの、形だった。
ウェントゥスは、それを見た。
見て何も言わなかった。
◆◆◆
ウェントゥスの頭の上には、風があった。
いつでも出せるように、用意してある風だった。出す先は、いつも決まっていた。自分の前。前を行くものの、危ないところ。その前が、今は空いていた。
彼女は、杖を降ろした。
両手で持っていた、白い木の杖を。握りの深く馴染んだところから、指をひとつずつ離した。杖は岩の床に倒れた。倒れて、白く残った。
風の下へ、彼女は歩いた。
頭の上の風に、彼女の火が混ざった。風は強くなり、火は白くなった。彼女は歩きながら、それを降ろさなかった。まだ降ろさなかった。澱の上の持ち上がったものが、彼女のほうへ傾いだ。彼女は止まらなかった。澱のすぐ前まで、歩いた。
そこで、彼女は上を見た。
風と火が降りた。
◆◆◆
白い光が、来た。
音より先に来た。セラフィナの目の中で、暗がりが一度昼のいろになった。なったのを、見た。見てから、もう一度白い光が来た。同じ光だった。同じ光が、二度届いた。
熱が岩の陰まで届いた。
光が引いた先に、澱はなかった。
あったところに、燃えるものが散らばっていた。散らばったものは小さくばらばらで、燃えながら灰になっていった。血のいろのものは、一度散った。
ウェントゥスも、いなかった。
彼女が立っていたところには、誰も立っていなかった。燃えるものの真ん中で、白い火がひとすじまだ立っていた。それが、倒れた。倒れる動きは、ゆっくりで最後まで燃えていた。
散らばった燃えるものの縁が、寄り始めた。
寄って集まって、血のいろのかたまりに戻っていった。戻りながら、縁はいくつもの形をつくりかけてはほどいた。弓の形。剣の形。頭の上に置く形。どれもつくりかけられてほどかれた。
焼け落ちて倒れたあの動きだけは、どこにもなかった。
その動きは、澱の縁に移らなかった。
白い木が二つ、暗がりに残っていた。
長い弓が、一つ。倒れた杖が、一つ。同じ木目の、同じ白さだった。どちらの手も、もうそれを握らなかった。
セラフィナは、数えなかった。
数える間がなかった。澱はもう形に戻っていた。
◇◇◇
「戻るぞ」とフェルラムが言った。
退く道は登りだった。イグネリアの火が先に立ち、岩の間の線を照らした。セラフィナが続き、フェルラムが最後に残った。後ろを引き受けるのは、いつも彼だった。
澱の形が変わった。
重く低くなった。左の側に重みを寄せた形だった。左で受けて右で打つ、重い構えだった。
その構えのまま、澱はフェルラムを押した。
フェルラムは左の肩で受けた。受けた重さは、これまででいちばん重かった。受けて逸らして、半歩退いた。退いた半歩の分だけ、澱は前に出た。同じ構えは、同じ受け方を知っていた。逸らされる先に、次の重みが先に来た。
受けきれない一手が来た。
フェルラムは、受けなかった。
左の重みを、解いた。守るための釣り合いを、自分から壊した。体は右へ落ちた。落ちた姿勢の低さに、彼はいた。重い一手は、彼のいたはずの高さを抜けた。
澱は、その一手のあとだけ一拍止まった。
止まった一拍のあいだに、フェルラムが起きた。起きて岩の間の線へ走った。三人は退いた。火が線の後ろを焦がして閉じた。焦げた縁はすぐに満ちた。満ちて追ってきた。
セラフィナの足が遅れた。
遅れたのは疲れではなかった。見えるものが遅れて届いた。聞こえるものも遅れて届いた。怖さだけが遅れずに来た。理由のない怖さが、彼女の足を岩の床に留めた。
澱が、彼女のほうを向いた。
向いたものを、彼女は見た。見えたものが決まらなかった。澱は灯火の光の、届く縁の向こうにいた。いるのにすぐ傍にいた。遠いのか、近いのか、目が決められなかった。
一つのかたまりなのか。数えきれない、ばらばらのものなのか。それも、決められなかった。彼女の数えはそれの前で、どこにも掛からなかった。
「セレナさん」
イグネリアの声が、遠くで鳴った。
フェルラムが間に入ろうとした。解いた構えは、まだ戻りきっていなかった。間に合う位置に、彼はいなかった。イグネリアの火が澱の縁を焦がした。焦げた縁はまた満ちた。
澱の縁が、傾いだ。
重みを解く形に。釣り合いを壊す形に。右へ落ちていくあの形に──傾ぎは途中で見えなくなった。澱の形がまた変わったのか。灯火が届かなくなっただけなのか。彼女の遅れた目は、どちらも選べなかった。
澱が止まった。
止まって、その縁がゆっくりと変わり始めた。今度の形は、武器の形ではなかった。弓でも剣でも、頭の上に置くものでもなかった。
縁が、二つに分かれた。
分かれた二つが細く伸びて、先が五つに割れた。指だった。二つの、手の形だった。二つの手が揃って、低いところへ降りた。何かの上に当てるように。傷の上に、置くように。
見覚えの、ある形だった。
誰かの傷の上に、両の手を当てる形。当てて低く祈る形。それは、彼女の手だった。彼女が、いつも、している──




