腕試し
胤大は、腰に差した本命の魔剣を、静かに握り締めた。それまで平穏だった魔力が、ゆっくりと凝縮され、歴戦の士だけが漂わせる、冷たい殺気が、あたりに広がっていく。
場の中央に立つ時燼は、その重い魔力を感じ取り、顔を上げて胤大を見た。口元の、あの散漫な笑みは、崩れていない。
手にした制式の長剣を軽く掲げ、胤大へ向けて、かるく挑発的な構えを取る。
軽く柄を回すと、身に秘めた魔力が、静かに剣身へと流れ、制式剣の魔紋が、ごく淡い銀の光を帯びた。
時燼の目には、わずかな面白がる色が浮かんでいる。この浮桜島の首席、なかなか試し甲斐のありそうな相手だ。
江奈は、その場に立ち尽くしたまま、凝る気配と、散る気配。その二つを見比べ、胸の奥で、弦が、ぎり、と張り詰めていく。これが最初から、ただの「点を留める」だけでは終わらない戦いになることを、彼女はもう感じていた。
胤大は、大股に演武場の中央へと歩を進めた。足取りは重く、確かで、その目は、時燼から離さない。
掌の内で、魔力感知を静かに動かす。探りを入れた瞬間、感じたのは、どこにでもいる五階の魔法士。江嶼の言う「底知れない」気配は、どこにもない。
一瞬、胸の内に驚きがよぎった。が、すぐに、それを押し込めた。
江嶼は、昔から、あれこれ考えはするが、虚言を吐く男ではない。本気を出せと言うからには、今の自分には見抜けない奥の手を、必ず隠している。
目の前の若者が、どれほど若く、魔力も弱く見えようと、甥の判断は信じる。気を抜いてはならない。
胤大は、手を持ち上げ、腰の本命の魔剣の鞘に当てた。全身の魔力が、素早く広がり、石の壁に刻まれた緩衝の紋様を、この重い魔力が、じわりと震わせる。
彼は、時燼へ向けて、かるく頷いた。
「小僧、かかってこい」
声が落ちると同時に、全身の魔力が、一段、跳ね上がった。剣は抜いていない。だが、その構えは、すでに、全力で敵を迎え撃つものだ。
周囲の空気が、翻る魔力で、にわかに乱れている。そこに、一片の手加減もない。
江嶼は、傍らに立ち、場の二人を、食い入るように見つめていた。心の内で、ひそかに思う。
叔父上の実力は、もとより、自分より、はるかに上だ。波波剣なしでは、自分など、相手にもならない。連邦全域で見ても、叔父上は間違いなく、一級の使い手だ。
あれほど念を押したのだ。叔父上の力なら、必ず、時燼の隠した底を、引きずり出してくれる。
江奈の顔には、苦しげな色が浮かんでいた。叔父の全身に満ちる魔力が、ますます濃く、重くなるのを見て、思わず、声を張り上げる。
「叔父上、頑張って!」
その声を聞くと、時燼が、つい、と横を向いた。口元に、散漫な笑みを浮かべ、からかうような調子で言う。
「江奈、なぜ老翁ばかり応援する。俺にも、一声くらい、かけてもいいじゃないか」
江奈は、きょとんとし、頬が、ほんのり熱くなった。慌てて、付け足す。
「あ、あなたも……頑張って、ください」
時燼は、満足そうに笑うと、正面へと向き直った。
胤大は、時燼から視線を外さない。指先が、本命の魔剣の鞘の上で、素早く、とんとんと、軽く叩かれる。呪文が、幾重にも重なり、速さは、ほとんど一本の線になる。
「第三階位魔法『風刃』!」
三道の淡い青の風刃が、一瞬で形を成した。鋭い悲鳴を上げて、時燼の面へと、まっしぐらに飛ぶ。刃の風が空気を裂き、かすかな「ひゅっ」という音を散らす。
時燼は、一歩も動かなかった。手首を軽く回し、制式の長剣で、体の前に、浅い弧を描く。銀の光が、薄絹のように剣身を包んだ。
「ちん」
小さな音がして、風刃は、剣の弧に触れた瞬間、そのまま、数筋のそよ風になって砕け散る。時燼の額にかかった前髪が、ふわりと揺れただけだ。
「老翁、その程度か?」
胤大は、この、ごく普通に見える若者が、第三階位の魔法を、これほど鮮やかに砕くとは、思っていなかった。
ためらわず、次を放つ。
「第四階位魔法『地棘』!」
時燼の足下、青い石板が、不意に細く裂けた。土の匂いをはらんだ鋭い石の棘が、幾本も、土を破って突き出し、時燼の足首を、まっすぐに狙う。
時燼は、つま先で青い石板を、軽く蹴った。風に持ち上げられたような身軽さで、半尺ほど跳び上がり、棘をかわす。
それと同時に、手首を返し、剣先を、一本の棘の穂先へ、かるく当てた。銀の光が、ぱっと走る。硬い石の棘は、一瞬で細かな粉になり、さらさらと地面へ落ちていった。
胤大は、一面に散った石の粉を見て、目の奥から、油断の色が、きれいに消えた。
「少しはやるようだ。ならば、これを食らってみよ」
声が終わると、両手で、すばやく印を結ぶ。全身の魔力を、もう抑えない。潮が満ちるように、一気に溢れ出させた。
「第五階位魔法『岩崩墜』!」
胤大の重い声とともに、厚い魔力をまとった無数の岩塊が、何の前触れもなく現れ、唸りを上げて、時燼へと降り注ぐ。演武場の、全体が、微かに震えていた。
時燼は、やはり、その場から動かない。制式の長剣を、体の前に、横に構えた。
魔力を注ぐと、剣身は、瞬く間に、暗い紫の魔力に覆われた。岩塊が剣にぶつかり、鈍い音を立てる。
時燼は、一歩も退かない。手首すら、わずかも動かない。
次の瞬間、かすかな「かた、り」という音が、響いた。
江嶼の瞳が、一気に縮む。あの制式の長剣の刃に、剣先から、細かな罅が、次々と広がっていく。銀の光も、それに合わせて、ぐらりと揺れた。
江嶼は拳を握りしめた。爪が、手のひらに食い込む。
あの剣は、並の品とはいえ、第六階位相当の魔力の衝撃に、耐えられるはずだ。それを、時燼は、外へ流した魔力だけで、罅を入れた。
胤大も、剣に走る罅に、気づいた。深く息を吸い、もう一度、両手で印を結ぶ。速さは、先ほどよりも、さらに速い。魔力が集まる気配も、大きい。周囲の空気さえ、焦げるように熱を帯びてきた。
「天穹、響け。雷霆、目覚めよ」
「契約を結び、尽きぬ嵐と雷を召喚せよ」
「暗雲集い、雷鳴とどろき、電光、長空を裂け」
「雷光の届く所、万物、崩れ落ちよ」
「第六階位魔法『雷嵐』!」
黒い雲が、一瞬で、演武場の空を覆った。細かい電光が、雲の中で、しきりに走っている。
次の瞬間、腕ほどの太さの雷が、無数に、時燼の頭の上から、容赦なく打ち下ろされた。空気を裂く「じりじり」という音が、耳の奥を刺す。
江奈は、思わず口を押さえた。目をまん丸にして、小さく叫ぶ。
「叔父上の雷嵐……あの人、防げるの……?」
時燼は、ようやく、あの散漫な笑みを消した。両足をわずかに開き、右手で剣を胸の前に構える。
呪文は唱えない。ただ、落ちてくる雷を、じっと見据えていた。電光が、身に触れる、ほんの寸前。
突然、剣を振り抜いた。
銀の光が、走った。
荒れ狂う雷は、まるで見えざる手に導かれるように、時燼の体をかすめ、そのまま地面へと落ちていく。わずかな細い電光だけが、彼の衣の裾に触れた。
「びりっ」
袖口と裾が、裂けた。だが、その下の肌に、焦げ跡一つない。
胤大は、その場に立ち尽くし、額に、うっすらと汗が滲んでいた。
「こ、これは……お前、防御魔法を、使っておらんのに、どうして……」
時燼は、剣についた灰を、ぱっぱと払い、剣先を胤大へ向けた。
「老翁、あんた、たしかに、なかなかの腕だ。俺も、本気で相手をするに足る」
「これより、全力で行く。気をつけろ」
胤大の瞳が、激しく収縮した。両手で魔剣を振りかぶり、呪文が、落ちる。
「第五階位魔法『魔剣斬』!」
数メートルはあろうかという黒い剣気が、時燼へ向かって、まっすぐに飛ぶ。
剣気が通った後、地面は、真っ二つに裂け、深い溝を作った。緩衝の紋様が、剣気に裂かれ、「ぶおん」という、低い唸りを上げる。
時燼は、避けなかった。魔剣斬へ向かって、自ら踏み込み、剣を振り下ろす。
「がきん!」
鼓膜を裂くような衝突音が、炸裂した。制式の長剣と、黒い剣気が、ぶつかった瞬間、剣身に走っていた罅が、一気に弾ける。
剣は、真っ二つに折れ、半ばの剣が「からん」と、地面に落ちた。
だが、あの、すさまじい勢いだった魔剣斬も、この一撃で、ばらばらに砕け、無数の黒い霧となって散っていく。かろうじて残った剣気の余波が、時燼の裂けた衣の端を、さらに大きく引き裂いた。
胤大は、完全に、立ち尽くした。魔剣が、手の中で、かすかに震えている。彼は、信じられないものを見るように、時燼を見ていた。
江奈が、口を押さえ、小さく声を上げる。
「剣が、折れた……!でも、あの人、無事……」
「老翁、いまのは、あんたの攻めだった。次は、俺の番だ」
そう言うと、折れた剣を握っていた手を、そっと開いた。手のひらを、上へ向ける。凝っていた銀の光が、急に、一か所へと集まり始めた。
まばたきの間に、六芒星の魔法陣が、現れる。周囲の空気が、びりびりと震え、演武場の風までが、その陣へと吸い込まれていくようだった。
時燼が、かるく声を上げると、手のひらの陣が、一気に輝いた。銀白色の光線が、一筋、放たれる。
「第六階位魔法『極光』!」
「ひゅっ」という鋭い音とともに、光は、胤大の面へと、まっすぐ飛んだ。
胤大は、瞳を大きく見開き、退かなかった。本命の魔剣を、強く握り直し、低く叫ぶ。
「斬る!」
魔剣を、極光へ向けて、力いっぱいに振り下ろした。
真っ直ぐに突き進む極光は、魔剣によって、真っ二つにされた。銀白の光が、胤大の肩を掠め、後方の石壁に激突し、二つの大穴を、えぐり開ける。
魔剣を握る胤大の手が、じん、と痺れた。その目には、隠しきれない驚愕が、明滅している。
この若者、見た目は若いが、第六階位の魔法を、驚くほど速く紡ぎ、しかも、魔力の凝りようが、新米の魔法士とは、まるで違う。
たった今の一撃、本命の魔剣で、全力で斬り払わなければ、とても受け切れなかっただろう。
時燼は、わざとらしく、眉を上げ、目を大きくした。
「老翁、あれを斬り開くか。なかなか、やるな!」
胤大は、額の汗を拭い、突然、白い上着を引き剥がすと、地面へと投げ捨てた。
下は、黒い、体に密着する戦闘服。年を取っても、まだ、鍛え上げられた体の線が、くっきりと浮かんでいる。
「お前が、その気なら、私も、隠す必要はない」
胤大の声が、一段、低くなった。その目には、本気の戦意が、ごうごうと燃えている。
「これからは、気をつけろ!」
場の中、二つの影が、速く、速く、交錯していく。あとに残るのは、残像だけ。刃と刃がぶつかり合う「ちんちん」という音が、ほとんど、ひとつながりに響く。
ぶつかるたびに、魔力の揺らぎが生まれ、周囲の緩衝紋様を、休みなく明滅させた。
時燼は、胤大の魔剣を、身をかわして避け、同時に、指先で、魔剣の側面を、かるく触れた。銀の光が、ぱっと走る。胤大は、魔剣から、とてつもない力が伝わってくるのを感じ、握った手が、一瞬、深く痺れた。
「がきん!」
鋭い音が、場に響く。
胤大は、よろめいて、二歩、後ろへ下がった。
「な、なんだ、その力は……!」
胤大は、深く息を吸い、魔剣を握る手から、突然、濃い黒い光が、溢れ出した。黒い光は、魔剣を伝い、やがて、魔剣の上に、巨大な黒い翼の幻影を、形作っていく。
翼の羽根の一本一本まで、はっきりと見える。それは、刺すような冷たい魔力の波を、周囲へと放っていた。
「これが、我が本命の魔剣の、最終形態……魔翼斬だ」胤大の声には、一片の揺るぎもない決意が宿っている。
「時燼、この最後の一撃、受けてみよ!」
声が終わると、背後の魔翼の幻影が、大きく羽ばたいた。胤大の体が、黒い電光となって、天地を砕かんばかりの勢いで、時燼へと突き進む。
江嶼は、その光景を、食い入るように見ていた。叔父の魔翼斬は、見たことがある。あの威力は、小さな山の一つ、真っ二つにできるほどだ。時燼が、いくら強かろうと、全身全霊で受けなければ、耐えられるはずがない。
江奈は、強く握りしめた腕が、震えていた。その目は、ひたすら、不安に揺れている。
時燼は、突進してくる胤大を見て、ふっと息を吐き、笑った。
無駄な動きは、ない。そのまま、魔翼斬へ向かって、正面から、踏み込んだ。
「どごおっ!」
魔翼斬が、すべてを砕く勢いで振り下ろされ、二つの力が、真っ向からぶつかった。
その瞬間、幻影は、無数の光の粒となって、砕け散る。時燼の体は、余波にはじかれ、大きく宙を飛んだ。
「どん」
と、演武場の石壁に背中から激突し、浅い、人の形をした穴が、壁に沈んだ。
胤大は、肩で息をしている。本命の魔剣を握る手は、細かく震え、魔剣の黒い光は、もう、ほとんど残っていない。今の一撃で、彼の魔力の、ほぼすべてを、使い果たしていた。
彼は、壁に打ちつけられた時燼を見た。だが、その顔に、勝者の笑みはなかった。
「あの小僧、さっきの一撃、横へ跳べば、かわせたはず。なのに、なぜ、正面から受けに来た……」
江嶼は、慌てて駆け寄り、時燼を抱え起こそうとした。だが、時燼は、自分で、浅い穴の中から、よろよろと立ち上がってきた。
髪には石の粉がつき、服は壁の埃で、白っぽく汚れ、見るからに、みすぼらしい。
江嶼は、手を貸しながら、彼の状態を、注意深く探った。額に、ほんの少し、擦り傷があるだけ。呼吸は、やや乱れているが、魔力を使い果たした時のような、乱れは、ない。
江嶼の心の中で、疑念が、むくむくと膨らんだ。さっきの壁への激突は、見た目には、とてつもない衝撃だったはず。それなのに、この様子では、まるで、全力を出し切ったようには、見えない。
江奈も、小走りに駆け寄ってきた。埃まみれの時燼と、息を切らせた叔父の顔を、交互に見比べ、その目に、わずかな後ろめたさが浮かぶ。小さな声で言った。
「時燼、ごめんなさい。私が、叔父上に、手合わせをお願いしたりしたから……。叔父上は、島で一番の戦力なの。この勝負、あなたには、重すぎたんじゃない?」
時燼は、服の石の粉を、ぱんぱんと叩きながら、笑った。その口調は、相変わらず軽い。
「やめてくれ。老翁は、手加減してくれたんだ。でなきゃ、あの魔翼斬を、俺が受けられるわけがない」
そこへ、胤大が歩いてきた。その言葉を聞くと、思わず、笑い混じりに言い返した。
「この小僧、まだ、とぼけるか!本当に、かわせなかったのなら、いま、こうして、立っていられるわけがないだろう」
彼は、時燼の肩を、ばしりと叩いた。その目には、隠そうともしない感心の色が、浮かんでいる。
「だが、たいしたものだ。この若さで、あれだけの実力。我が魔翼斬は、威力だけなら、第七階位の魔法に迫る。あれを、まともに受けて、立っていられるだけで、若い者の中では、もう、頭一つ抜けておる」
時燼は、頭を軽くかき、認めも、否定もしない。ただ、胤大へ向かって笑った。
「老翁、買いかぶりが過ぎます」
江嶼は、傍らに立ち、叔父の言葉と、先ほどの、あの細かな違和感を、頭の中で、静かに重ね合わせていた。時燼への実力の評価が、また、一段、引き上げられる。
その場の空気が、一瞬、硬くなった。江嶼が、まだ、ひとり、考え込んでいるのを見て、胤大は、笑いながら、彼の肩を叩いた。耳元で、小さく囁く。
「そう、眉根を寄せるな。若い頃の、お前の父に、そっくりだぞ」
それから、時燼へ向き直り、声を、がらりと明るく変えた。
「さあ、手合わせの話は、もう、それまでだ。勝ち負けは、どうでもいい。時燼、この若さで、あれだけの腕だ。むしろ、めでたいことよ。さあ、私が、飯をおごってやる。遠慮は、無しだ!」
胤大は、先に、食堂の方へと歩き出した。江奈は、慌てて、その後に続き、振り返って、時燼に手で「どうぞ」と促す。
「時燼、こちらへ」
時燼は、笑いながら頷き、後を追う。江嶼の傍らを通り過ぎる時、まだ、顔の強張った彼を、ちらりと見た。そして、片目を、ぱちりと、瞬かせた。
江嶼は、不意の仕草に、一瞬、呆けた。耳の先が、わけもなく、ほんのり赤くなる。慌てて、視線を外し、足早に、その後に続いた。




