朝の屋台
街角から、桜餅の甘い香りが、ふわりと流れてくる。一見、のどかな街並みのようでいて、三人の心は、いまだ声なき駆け引きに縛られたまま、ほんの少しも緩んではいなかった。
三人は、散る桜を踏みながら街角の朝の屋台へと着いた。老桜の傍らに構えた店は、竹の暖簾が半ば巻き上げられ、蒸籠からは白い湯気が、ゆらゆらと立ち昇っている。桜餅の甘やかな香りと、粥の温かい匂いが、ふわりと顔の前まで押し寄せてきた。
店主は、こめかみに霜の混じった老人だった。蓋を取って粥をよそっているところで、ふと顔を上げ、江嶼と江奈の姿を見るなり、その目をぱっと輝かせた。慌てて杓子を置き、手を拭いて、熱心に出迎える。
「千葉様、江奈様。こいつはお珍しい!今日はどうして、こんな朝早くにうちなんかへ?」
二人の顔は、もちろん覚えている。そう言いながら竹の暖簾をめくり、奥へと招き入れ、厨房へ向かって声を張り上げた。
「桜餅、二籠、追加だ!蜜も一壺、温めとけ!」
振り返るなり、窓際の木卓を手早く拭く。
「さあ、お掛けなさい。今日の桜餅は、今朝摘みの新桜で作ってる。これが、また格別に甘いんだ」
よそよそしさは、ひとかけらもない。時燼へ向ける目にも、二人の連れだと思ったのか、ごく自然な親しみが浮かんでいた。
「こちらの方は、お二人のお連れさんですか?どうぞどうぞ、ご一緒に。うちの味を見てやってください」
江嶼は、かるく会釈をし、「どうも」と短く応えた。江奈の手を引いて、卓の傍らへ座る。店内は木卓がいくつか並ぶだけで、客もみな、顔なじみの街の者ばかりだ。
異常な気配は、ない。眉根の力を、わずかに抜いた。だが、それでも、江奈を自分の側から離さない。
時燼も、向かい側へ腰を下ろした。肘を卓の縁にかるく乗せ、目を細めて老人へ会釈する。
「ありがとうございます。では、千葉様と江奈さんのおかげで、俺も土地の味を、ご相伴にあずかるとします」
老人は、いっそう顔をほころばせ、両手を振った。
「なぁに、遠慮なんて要りませんよ!ゆっくりしてってください。すぐお持ちしますから!」
そう言うと、白い湯気の立ち込める蒸籠の向こうへと、軽い足取りで戻っていく。
だが、卓についた三人の胸の内は、それぞれ別の思惑で、静かに渦を巻いていた。
老人が手早く皿を並べる。桜餅は、白い餅肌に桜色が淡く透け、清粥は、とろりと温かく、米の香りを立ち昇らせる。暖かな朝餉の景色が、かえって、三人の間の沈黙を、いっそう濃く浮かび上がらせた。
江嶼が、先に箸を上げ、桜餅を一切れ、江奈の椀へと乗せた。それから、向かいの時燼へ目を向け、単刀直入に、沈黙を破った。
「単刀直入に聞こう。お前がこの浮桜島へ来た、本当の目的は何だ」
声と同時に、彼の周囲から、淡い青の魔力が、ほのかに滲み出し、時燼の足元を、見えざる網で固く縛る。
時燼は、粥をすくう手を止めずに、目だけを上げた。その笑みは、散漫で、かつ、開けっぴろげだった。粥をひと口、口へ運び、ゆっくりと飲み込んでから、のんびりと答える。
「もちろん、遊覧だ。浮桜島の桜林は、大陸でも名高い。一度、自分の目で見てみたかったんでね」
それから、付け加えるように、かるい口調で言った。
「魔力を消し、刀を隠したのも、俺自身の魔力が深すぎて、島の防護魔法陣を刺激してしまうといけない。島の静けさを乱し、遊覧の興を削ぐのも、馬鹿らしいだろう」
「外を歩くなら、鋭さを隠すのは、当たり前のことだ」
江嶼の目が、わずかに揺れた。「鋭さを隠して、島を乱さない」。その言葉だけで、彼の懸念が晴れるはずもない。
そんな話、彼は、ひとことも信じていなかった。
傍らの江奈は、ひとり、物思いに沈んでいた。この数日、彼女もまた、ごく薄い桜の魔力を身にまとい、それとなく周囲を探ってきた。時燼の一挙一動は、たしかに散漫で、桜林を歩き、島の味を楽しみ、どこにも作為がない。まるで、ただの旅人だ。
「魔力を隠し、騒ぎを避ける」というのも、たしかに高位の魔法使いが旅に出る時の、ごく普通の流儀だろう。理屈の上では、筋が通っている。
だが、そう思うそばから、浮かんでくる。兄が持ち帰った、あの凶々しい気配の残る粗布。天地の魔力を震わせた刃。それから、つい先ほど、近づいた時、波波剣が、自分の意思とは別に、びり、と震えたこと。
あれは、神兵と、同じ源を持つ高位の魔力が、共鳴した音だ。ただの魔法使いに、起こせるものじゃない。
矛盾した気配が、胸の中の疑いを、ますます濃くしていく。なのに、それを裏付ける確かな証拠は、どこにも、つかめない。
時燼は、兄妹二人の表情を、正確に読み取っていた。片方は、沈み、張り詰めている。もう片方は、迷い、揺れている。
だが、彼は、それを気にも留めない。自分で桜餅をひと切れかじり、のんびりとした口調で切り出した。
「どうやら千葉島主は、俺が遊覧の旅人には見えないらしい」
言葉が終わると、卓の上から、会話が消えた。あとには、磁器の匙が椀の縁に触れる、かすかな音と、竹の箸が餅をつまむ、小さな音だけが残る。
江嶼は、目を伏せた。ときおり、ちらりと時燼を視界の端に捉え、すぐにまた、椀の中へと視線を落とす。時燼は、あいかわらず、まるで先ほどの緊張など、最初からなかったかのように、ゆったりとしている。
老人が、新しく蒸し上がった桜餅を持って、通りかかった。「お口に合いますか」と笑いかける。
江嶼は黙って頷いた。時燼は「ああ、甘くていい」と短く返した。
それきり、三人の間には、また、さっきよりも深い沈黙が、静かに落ちた。椀と箸が、かすかに触れ合う音だけが、店の中に、ぽつり、ぽつりと響いている。
時燼は竹の箸を置き、紙で口元を拭いてから、ゆっくりと口を開いた。
「浮桜島の景色は、だいたい見終えた。もう数日したら、島を出るつもりだ」
この言葉に、江嶼が顔を上げた。沈んだ瞳で、問い返す。
「何日だ」
時燼は、指先を軽く顎に当て、窓の外を流れていく桜の花びらへ、目をやった。それから、一拍おいて、ゆっくりと、二文字を吐き出した。
「二日」
その声が落ちると、江奈の中の矛盾が、いっそう激しく波立った。たった四十八時間。これほど慌ただしい帰り際は、たしかに、気の済むまで遊んで、あっさり去っていく旅人と、ぴったり重なる。
『でも、あの凶刃は?波波剣の震えは?あれは神兵と、同位の魔力が起こす共鳴よ。偶然のはずがない。それが、たった数日で島を去る、通りすがりの人間に、起きるっていうの?』
江嶼の目は、冷たい深淵を覗き込んだように、どす黒く沈んでいた。二日。それだけあれば、島中の警戒を張り巡らせ、時燼の一挙一動を、すべて見張り、ここ数日の足取りを、根こそぎ洗い直せる。
相手が本当に島を出るにせよ、偽りの芝居にせよ、この二日間、すべてを、こちらの手の内に置いてみせる。
時燼は、まるで、どうでもいいとでも言うように、ふっと笑い、手を上げて老人を呼んだ。勘定を済ませる。島を去るという話は、ただの世間話で、二人の警戒など、まるで気にしていないようだった。
ただ、椀の縁に、うっすらと残った冷めた粥の雫と、窓から卓の隅へ舞い落ちた桜の花びらが、この「二日」という刻限を、浮桜島の、この声なき駆け引きにおける、もっとも明確な、終わりへの秒読みに変えていた。
江奈が、先に、匙を置いた。卓の縁へ手を添え、静かな声で、沈黙を破る。
「だいたい、いただきました。私、少し外を歩きたいです。街角の桜が、散るところを見ていたくて」
彼女は江嶼をひと目見て、それから、向かいの時燼の方を、無意識のうちに、ちらりと見た。立ち上がり、衣の裾を軽く整え、一足先に、竹の暖簾をくぐって、店の外へ出る。
時燼は、揺れる暖簾の影を見送り、口元に浮かべた笑みを、崩さなかった。指先で、卓の縁を、ぽん、ぽんと、気のない調子で叩きながら、のんびりと言った。
「散り際の桜か。たしかに、もう一度、見る値打ちはあるな」
江奈は、店の外の桜の木陰に立っていた。二人が、先に後から出てくるのを見ると、柔らかな声で、この先の桜並木を案内すると言い出した。
通りすがる街の者は、兄妹の顔を見知っていて、道のあちこちから、明るい声が飛んでくる。
時燼は、その光景を、となりで眺めながら、かるく冗談めかした。
「どこを歩いても、声をかけられる。この島の暮らしの温もりは、桜の景色より、よほど人を惹きつける」
江奈が、振り返って、笑った。
「ええ、当たり前です。島の人は、みんな、優しいから」
そのまま歩くうちに、卓の上では消えなかった緊張が、暮らしの匂いの満ちた街の中で、少しずつ、ほどけていく。
日が高くなり、桜の枝が、まだらな影を落として、青い石畳に、金色の光を、こぼしていた。
江嶼が、不意に、足を止めた。横目で、となりを歩く時燼を見る。
「あんたの魔力は、たいしたものだ。この島の演武場で、腕を磨いている手合いが、何人かいる。どうだ、一つ、手合わせをしてみないか。武をもって友と交わる。この半日の暇を、無駄にしないためにも」
時燼は、江嶼の言葉の裏にある探りを、読んだ。それでも、ものうげに応じる。
「面白そうだ。どうせ歩き疲れたところだ。千葉島主の案内で、行ってみるとしよう」
江奈は、二人の顔を、きょとんと見上げた。その唐突さに、わずかに驚きながらも、兄の狙いは察した。黙って、傍らに立つ。
江嶼は、それ以上は言わず、片手で、桜並木の向こうに見える演武場を示した。
「どうぞ」
三人は、向きを変えて、歩き出した。街の暮らしの空気が、静かに遠ざかっていく。正午の熱風が、肩に散る桜の花びらを、ふわりと揺らす。「手合わせ」という名の探り合いが、晴れた光の下で、すでに、じりじりと熱を持ち始めていた。
演武場へ向かう道すがら、先に口を開いたのは、江奈だった。細かな紋様の刻まれた石の欄干を指さし、柔らかく説明する。
「この演武場は、三百年前、浮桜島の初代島主が、自ら工事を見て建てたものなんです。もともとは、島の魔法使いたちが、手合わせをして、島の守護陣を整えるための場所でした。今では、島の腕利きが集まる場所になっていますけど」
彼女は、遠くに姿を見せる石造りの建物へ目を向け、ほんの少し、声に敬意を混ぜた。
「初代島主が、この石の陣の中に、魔力を和らげる紋様を残していて、手合わせの時も、周囲を守りながら、お互いの魔力の波を、はっきり映し出してくれるんです」
「ここを作った時、『点を留めよ』という、魔力の使い方の掟を定めたと聞いています。この三百年、この演武場で命を落とした人は、一人もいません」
江嶼は、聞き流しながらも、その目は、ずっと時燼の一挙一動を追っている。彼の反応から、何か、手がかりを拾えないかと。
時燼は、目の前の建物を、ざっと見渡し、指先で、身の傍らの石の欄干を、なにげなくなぞった。石の壁に刻まれた紋様へ視線を走らせた時、その動きが、一瞬だけ、止まった。
初代島主の魔力の刻印に、気づいたらしい。だが、口にしたのは、ほんのひとこと。
「なるほど、歴史のある場所か」
抑揚のない、短い言葉。だが、それが、江嶼の目を、いっそう深く沈ませた。
時燼が、初代島主の魔力の刻印と、何か関わりがあるなら。この手合わせで、必ず、その実を掴めるはずだ。
やがて三人は、演武場の入口へと着いた。詰めていた衛士が、江嶼の姿を見て、深々と礼をする。時燼へ向ける目には、隠しきれない好奇心があった。
江奈が口を開きかけた、その時。場内から、魔法使いたちの手合わせの音が、かすかに漏れてきて、彼女の声を遮った。長く待たれた探り合いが、いよいよ、この、百年の石の場で、始まろうとしていた。
場内で手合わせをしていた、魔法使いたちが、いっせいに、こちらを振り返った。
江嶼の顔からは、感情が消えている。心の中では、すでに、次の手を、素早く回していた。時燼の本当の実力を引き出せるのは、島で最も魔力の深い、あの男しかいない。
江嶼は、身近に控える親衛に、目だけで合図を送った。島の首席魔法士を、すぐに呼んで来い、と。親衛は、こくりと頷き、小走りに去っていく。その足音には、焦りが混じっていた。
その、人を呼ぶ隙に、江嶼は、場の中央へ、のんびりと立つ時燼へ、目をやった。そして、もう一つ、手を思いつく。
素手のままでは、底は割れない。浮桜島の制式の魔剣を持たせれば、客人への礼も欠かさない。それに、制式の武具には、島の魔力の規格が刻まれている。剣を握る際の魔力の馴染み、魔紋の起動の深さで、あの男の素性が、さらに、はっきり見えるはずだ。
彼は、武器庫の詰め番へと、声を張り上げた。
「制式魔紋の長剣を、一振り。客人と手合わせをする。失礼のないようにせよ」
詰め番は、短く応え、駆け足で剣を取ってくると、両手で、時燼の前に差し出した。
江奈は、その場に立ち、時燼が、この、浮桜島の刻印を宿した剣を、どう受けるのか、息を詰めて見守っている。
時燼は、差し出された剣を、ちらりと見た。指先を持ち上げ、鞘へ、そっと触れる。触れた瞬間、剣身に走る魔紋が、ぴくりと震えた。彼の内に隠された魔力に、引き寄せられるように。
江嶼は、その変化を見逃さなかった。目が、すっと細くなる。腹の底に、鋭い驚きが走った。
だが、時燼は、すぐには剣を取らない。眉を上げて、江嶼の方を向き、ものうげな声で言う。
「千葉島主は、やけに丁寧だな。ただの手合わせに、そこまで改まらなくてもいいだろうに」
口では、そう言いつつ、その指先は、もう、鞘の上部の留め金にかかっていた。手首を、かるく回し、巧みな力加減で、す、と剣を引き抜く。鋭く、澄んだ剣の音が、演武場に、ふわっと広がった。
時燼は、剣を体の脇に構え、かるく振った。剣の房が、ふわりと揺れ、剣先が地面をかすめて、小さな石の粉を、ぱらりと散らす。
その目は、剣身を流れる淡い光を追い、剣の出来を見極めている。
江嶼は、掌を、ぐっと握りしめた。あとは、首席魔法士が来れば、この男の、本当の底が、見える。
その時、場外の廊下の奥から、荒い足音が、近づいてきた。呼ばれた首席魔法士が、早足で、こちらへと向かってくる。
廊下の奥の足音は、だんだんと、大きくなる。白い魔紋入りの戦装束をまとった男が、大股に現れた。
髭には白いものが混じり、しかし、その背筋は、ぴんと伸びている。身に帯びた魔力は、深く、重く、揺らがない。浮桜島の首席魔法士、江嶼の叔父、胤大だ。
胤大は、場内を、ぐるりと見渡し、まず江嶼を見て、低い声で問うた。
「私を呼んだと聞いた。何か、大事があったか」
江嶼は、半歩、前に出た。声を潜め、耳の傍らで囁く。その声には、並々ならぬ重みがあった。
「叔父上、あの男です。指先で触れただけで、制式の魔剣の紋様を震わせました。実力は、底知れません。この後の手合わせ、どうか、本気を。あの男の、本当の限界を、探ってください」
胤大は、江嶼の肩を、ぽん、と軽く叩いた。目が合った。そこには、年長者としての落ち着きと、それだけで十分だという、無言の励ましがあった。
「分かっている。力の加減は、心得ている。底を探りながら、この演武場の掟も、破りはせんよ」
言い終えると、胤大は、眉根を寄せ、場の中央に立つ時燼へと、向き直った。
その眼差しには、値踏みするような、鋭い重みが加わっている。
時燼は、その視線を受け止め、口元には、あいかわらず、あの散漫な笑みを浮かべていた。
だが、胸元のネックレスが、突然、熱くなった。布越しに、鎖骨を、じゅっと灼く。今までで、いちばん短い。半秒にも満たない、警告のような熱だった。




