朝霧
朝の桜が、露を含んで千葉家の庭に舞い落ちる。江嶼が江奈を見つけた時、彼女は池辺の石卓に座り、祭礼の風鈴を弄んでいた。
澄んだ音が石柵の周りに響き、その眉間には、昨日の山道での語らいへの、かすかな戸惑いが浮かんでいる。
江嶼は小刻みな歩幅で彼女の傍らまで寄り、重々しい声で告げた。
「江奈、今日から、私的に時燼へ会うことは許さない。旅館へ近づくのも、禁止だ」
江奈が風鈴を弄る手を、ぴたりと止めた。顔を上げて彼を見る。その瞳には、まだ理解しきれない思いと、少女らしい意地が宿っている。
「お兄様、あの人は、ただの普通の旅人に見えるわ。昨日、一緒に山道を歩いた時も、野良猫にまで餌をやってた。あんなに淡々とした人が、どうしてそこまで警戒されるの?」
「気にしすぎじゃない?」
江奈は覚えている。桜の木の下で、彼がぽつりと漏らした軽いため息。桜飴を差し出した時の、あの散漫な手つき。あの瞳に浮かんでいた寂しさは、偽物じゃなかった。
兄の幾重もの布陣は、彼女には、ただの心配しすぎにしか思えない。
江嶼は、まったく警戒心を見せない妹の様子に、心の底でそっとため息をついた。声が、重くなる。
「普通の旅人だと?お前は、彼が身の回りに何も持っていないように見えたかもしれない。だが、部屋には、凶器を隠している。あの散漫で無防備な姿は、すべて見せかけだ。あちこちに、罠が張ってある」
「昨日、影鴉が不用意に刀の柄へ触れただけで、武具の意思に反噬され、魔力回路を粉々にされた。あやうく命を落とすところだった」
「あの刀には、自我がある。凶気は、俺がこれまで見てきたどんな得物よりも、はるかに険しい」
その言葉は、江奈の胸に、落雷のように突き刺さった。風鈴の金具が石卓に当たって、ちりん、と鳴る。だが、そんな音は、心の震えを隠せない。
昨日、自分の髪から桜の花びらを払ってくれた、あの人が。そんな恐ろしい武器を隠していたなんて。
あの雲のように穏やかな顔の下に、これほど鋭い牙が潜んでいたなんて。
彼女は、呆然と石卓を見つめ、指先を、知らず知らず丸めた。脳裏に浮かぶのは、あの凶刃の冷たい気配。記憶の中の時燼とは、まるで別人だ。
「そんな……あんなに優しい人が、人の命を喰う刀を持ってるの?」
驚きが胸を満たし、さっきまでの反発も、疑いも、半分以上は消えていった。その目に、初めて、本当の動揺が浮かぶ。
声は、少し細くなり、まだ信じられないといった茫然さを帯びていた。
「あの人……あの人が、そんな武器を?」
江嶼は、ようやく妹が事実を受け入れた様子を見て、語気をわずかに和らげた。
「あの男の実力は、お前が思っているより、ずっと底が知れない。あの刀の存在だけで、奴が偶然の旅人でないことなど、十分に分かる」
「俺が敷いた備えは、すべて、お前を守り、落緋剣を守り、浮桜島を守るためだ」
「これからは家にいて、わがままは言うな。暗衛は、お前を監視しているんじゃない。守っているんだ」
江奈は、黙って頷いた。指先は、無意識に風鈴の冷たい紋様をなぞっている。心の中は、ぐちゃぐちゃに乱れていた。
昨日の山道の風も、たわいのない会話も、今思い返せば、すべて、薄い霧がかかったように見える。
兄の警戒が、決して杞憂ではないことは分かった。だが、あの凶々しい刀と、あの淡々とした人が、頭の中で何度も重なって、彼女は、ただ信じられないという思いに囚われていた。
庭の風が、冷たさを和らげていく。江嶼は江奈を部屋へ送り届けた後、一人、石卓の傍らに立った。
彼は桜花旅館の方角を見上げ、目の中で、複雑な思いが揺れていた。水息の網は、どれほど密に張ろうと、時燼の本当の底を、ついに探り切れていない。
こうして受け身で備えるだけでは、いつまでも根本的な解決にはならない。
ならば、自ら会いに行くしかない。彼の胸の内を読み、あの神兵の正体を突き止めるには、それしかない。ただ——
心の底に、わずかな忌避が走る。自我を持つ凶刃を従え、魔力を一滴も漏らさず隠し、談笑の裏で、こちらの出方を探ってくる男。
このような人物が、容易い相手のはずがない。
こちらには波波剣がある。だが、一歩間違えれば、情報を探るどころか、逆に劣勢に立たされ、浮桜島の防備の弱点を晒すことにもなりかねない。
だが、行かねば、時燼は霧の中に隠れたままだ。落緋剣の安否も、浮桜島の平穏も、結局は、心に刺さった棘のまま残る。
彼は深く息を吸った。恐れを押し殺し、目に残っていたためらいを、決意へと変える。
「危険を承知で、行くしかない。探りを入れるにせよ、様子を見るにせよ、この一度は、必ず」
ただし、強行はしない。あくまで、ひそかに近づき、向こうの出方を見極める。
彼は手を上げ、影鴉の頭領を呼んだ。声は低く、一言一言が慎重だ。
「伝令を。水息網はこれまで通り、すべての地点を固めろ。俺が自ら、桜花旅館へ向かう。随行は無用だ。外縁で待機し、異変があれば、即座に援護に来い」
影鴉頭領の顔に、迷いが浮かんだ。
「大人、あの時燼の実力は測り知れません。お一人で赴くのは、危険すぎます」
江嶼は遮った。
「俺が行かねば、あの男の底は、永遠に見えない」
「波波剣があれば、身を守るには十分だ。俺の指示がない限り、軽挙はするな」
彼は気づいていなかった。廊下の桜の木の影に、細い人影が、ひっそりと立っていることに。
江奈は、着物の裾をぎゅっと握りしめ、先ほどの会話を、すべて聞いていた。あの凶刃の話で、時燼へは確かに怖れが生まれた。だが、それ以上に、兄がたった一人で危険な場所へ向かおうとしていることが、胸を締めつける。
彼女は、朝靄と桜の木を隠れ蓑にし、息を殺して、そっと後を追った。気配は、限界まで薄く消して。
言い終えると、江嶼の体が、ふっと揺らいだ。次の瞬間には、淡い青の残影となって朝靄へ溶け、桜花旅館へと駆けていく。
彼の心は、いま、すべて時燼との駆け引きに注がれていた。いかに気づかれずに近づくか。いかに本心を探るか。異変の時、いかにして無事に戻るか。
そればかり考えていて、すぐ後方に、影のように付いてくる江奈の気配には、まったく気づけなかった。
淡い青の残影は、桜花旅館の門の前へと着き、足を止めた。再び気配を限界まで薄くし、門をくぐろうとした、その時。
背後から、小さな声がした。
「お兄様!」
江嶼の体が、びくりと強張った。慌てて振り返る。
桜の木の陰から、江奈が出てきた。裾は朝露に濡れ、その目は、焦りと心配でいっぱいだ。
彼の胸が、どすんと沈む。反射的に江奈を背後へかばい、旅館の門の内側を、鋭く睨みつけた。声には、怒りとやるせなさが、混じっていた。
「なぜ来た。俺の命令に背いて、こんな危険な場所までついて来るとは!」
彼は、彼女の気配に、まるで気づけなかった。心のすべてを時燼に取られていたこともある。だが、何より、これまで従順だった妹が、まさか自分を追って、危険な場所へ来るとは、想像もしていなかった。怒りと恐怖で、さっきまで整えていた計画が、一瞬で乱れていく。
江奈は、彼の背中から、ひょこりと顔を出した。その目は、強い。
「一人では行かせられない。あの人があれほど強いのに、お兄様が一人で行くなんて、心配でたまらないの」
朝風が吹き、桜の花びらが、二人の肩に落ちる。旅館の庭は、不気味なほど静かだ。
まるで、朝靄の向こうから、誰かが、門の前の兄妹をじっと見ているかのようだった。
江嶼は、江奈の目に浮かぶ、強い心配を見た。さっきまでの怒りも、結局は、兄妹の情に溶けていく。
波波剣の柄から、いったん力を抜いた。だが、また、ぎゅっと握り直す。
妹の性格は、よく分かっている。ここまでついて来た以上、一人で帰らせることはできない。これ以上、言い争えば、こちらの存在を、むやみに晒すだけだ。
「……仕方ない」
彼は、深く息を吐いた。声は、やるせなさに満ちている。
「俺のすぐ後ろを離れるな。何があっても、勝手に動くな。すべて、俺の指示に従え」
「いいな」
江奈は、こくこくと頷いた。その目から、焦りが少しだけほどけ、おとなしく兄の傍らへ寄る。彼の袖を、指先で、きゅっと掴んだ。
江嶼は、半身で江奈を守り、門の内側の気配を、鋭くうかがった。周囲に淡い青の魔力が、ごく薄く滲んでいる。早口で、小声の指示を飛ばす。
「まず俺が、向こうの出方を探る。お前は、ただ付いて来るだけでいい。余計なことは口にするな。もし奴に異変があれば、水の障壁でお前を守る。お前は、その隙に影鴉の待機地点まで走れ。いいな……」
言い終わらないうちに、庭の桜の木の陰から、のんびりとした、よく通る声が響いた。兄妹の囁きを、ぴたりと断ち切る。
その声には、どこか面白がるような笑みが、かすかに混じっている。
「そんなにこそこそ相談しなくてもいい。ここは別に、龍潭虎穴でもないんだから、そこまで身構えることもないだろう」
声が終わると、薄い白の人影が、ゆっくりと歩み出てきた。時燼だ。
相変わらずの、どこか散漫で淡々とした姿。両手は、だらりと衣の袋に突っ込まれている。
視線は、張り詰めた江嶼の体を、なんとはなしに眺め、それから、彼の傍らにいる江奈へと移った。
最後に、かるく会釈をして、気軽な挨拶の仕草をした。まるで、旧知の友に声をかけるような口調だ。
「千葉様、江奈さん、おはよう」
江嶼の全身の水の魔力が、一気に激しく渦を巻いた。空気が、冷たく沈む。手は、波波剣の柄へと、素早くかかった。江奈を、完全に背中へ隠す。
その墨色の目は、警戒一色だ。庭に人がいることに、まったく気づけなかった。時燼の気配は、この満開の桜と、初めから一つだったかのように、そこに溶けていた。
江奈は、思わず江嶼の背に、もぞりと身を寄せ、彼の袖を掴む指に、さらに力を込めた。
目の前の男は、やはり穏やかで、笑みさえ浮かべている。だが、部屋に眠るあの凶刃を思うと、その笑みの奥に、捉えようのない鋭い刃が潜んでいる気がして、あたりの朝靄さえ、重い圧のように感じられた。
庭を風が抜け、桜の花びらが、ひらひらと舞い上がる。三方、向かい合った静寂。
その中で、ただ時燼だけが、まるで散歩の続きのように、兄妹の戸惑いと警戒を、すべてまとめて目に収めていた。
数秒の沈黙の後、先に動いたのは、時燼だった。白い影が、舞い散る花びらの中を、ゆっくりと歩き出す。
肩に落ちた花びらを、かるく払い、笑いながら膠着を解いた。
「いつまでも門の前で立ち尽くしていても仕方ない。朝靄に当たり続けると、風邪を引くぞ。近くの角に、桜餅と粥のうまい朝飯屋がある。よかったら、一緒にどうだ?」
「腹が減っていては、話も弾まない。つまらないしな」
そう言って、彼は半歩、体を引き、手で道を示した。笑みはやわらかく、強制する気配は、ひとかけらもない。
江嶼の目に浮かぶ警戒は、まったく解けない。江奈を背後に守ったまま、時燼を、じっと睨み据えている。
江嶼は考える。食事に誘う。偽りの好意か、それとも、また別の、入念な探りか。だが、ここで断れば、面と向かって相手の底を探る、最良の機会を失う。それでは、むしろ受け身に回ってしまう。
江奈は、こっそりと顔を上げ、時燼の淡々とした横顔を見た。それから、江嶼の袖を、かるく引っ張る。
その目には、迷いの中にも、一つの合図が込められていた。
「行くからこそ、探れるんだよ」と。
怖れはある。だが、相手の本心を知る、唯一の機会かもしれない。門の前で、いつまでも睨み合っていても、何も進まない。
時燼は、あいかわらず、道を譲る姿勢のまま、笑みを絶やさず、返事を待っていた。
その穏やかさと、兄妹の沈んだ空気が、舞い散る桜の中で、声なき駆け引きを生んでいる。
江嶼は、時燼の全身を、ざっと目でなぞった。ごく薄い魔力を伸ばし、探りを入れる。武具の意思の凶気も、武器の魔力の揺らぎも、ない。
開かれた手のひら。ゆるんだ衣の袋。身に帯びている武器が、何一つないことを、ようやく確かめる。
張り詰めた神経が、ほんの少し、ほどけた。彼は、波波剣の柄から、ゆっくりと指を離し、低い声で言った。
「……いいだろう」
たった二文字が、ようやく、膠着を破った。
時燼は、彼の冷たい態度を、まったく気にする様子もなく、くるりと背を向けて笑った。
「どうぞ。あの店の桜餅は、数に限りがある。遅れると、白粥だけになるぞ」
彼は先に立って、桜吹雪の中を歩き出した。振り返りもしないし、あからさまな警戒の構えも見せない。
江嶼は、江奈の手を取った。かるく握って、勝手に動くな、しゃべるな、と合図をする。それから、その後を追った。
視線は、ずっと時燼の背中に張り付いている。たとえ武器を持っていないと分かっていても。
この、見るからに平凡な朝食は、やはり、刃を内に隠した探り合いに違いなかった。
時燼の胸元のネックレスが、ふと、熱を帯びた。




