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暗潮

 千葉家の議事庁。蝋燭の火が揺らめき、千葉江嶼は指先で波波剣の柄を、こつ、こつと軽く叩いていた。

 幽藍の水光は、凝っては放たれずに留まっている。指の腹が剣身の水紋をなぞるたび、彼の心は、また一つ沈んでいった。

 江奈が、私的に時燼へ会いに行った。それだけでも、想定の外だ。今、一語一語届く報告に、わずかな手落ちも許されない。

 影鴉の頭領が、翼を畳み、砂の模型の傍らに身を屈めて降り立つ。身にまとった魔法を解き、人の形を取ると、両手をそろえて礼をした。

「ご報告いたします。本日の時燼と千葉様、全行程の探査が完了いたしました」

 影鴉頭領の声は、紙やすりのようにしゃがれ、一語一語が正確だ。

「辰の刻、時燼は桜花旅館を出て……」

 傍らの影鴉が、すかさず補足した。その口調には、重苦しさが滲んでいる。

「一点、奇妙なことがございます。時燼は、自分が長く生きてきた、と、はっきり口にしました。あまりに長く、浮桜島の元の姿さえ、覚えていないと」

 江嶼は眉を寄せた。指先に凝らした水の力が、音もなく砂の模型へと広がっていく。胸の内を、冷たい思惑が渦巻く。

「長く生き、浮桜島の最初の姿さえ覚えていない。これは、ただの軽口では済まされない」

「江奈の前で、それを堂々と言えるのは、江奈の純粋さなら深く追及しないと、計算し尽くしているからか」

「あるいは、浮桜島、いや、落緋剣にまで繋がる過去を、背負っているかだ。そんな男が、偶然、通りかかった旅人のはずがない」

 彼は、沈んだ声で追及した。

「その言葉を発した時、周囲に誰かいたか?観桜台の近くに、気配や痕跡、草木や山石との異常な接触を、残してはいなかったか」

 影鴉頭領は、即座に応じた。

「すでに係の者を折り返し向かわせ、検分させております。観桜台の石の腰掛け、周囲の桜の木、地面。いずれにも魔力の刻印はありませんでした」

「また、時燼の気配は極めて速く拡散し、浮桜島の事物との異常な結びつきも、確認されておりません」

 江嶼はしばし沈黙した。議事庁の中には、蝋燭の火のはぜる音だけが、ぱちぱちと響いている。

 彼は砂の模型へ目を落とし、頭の中で、細部を素早く繋ぎ合わせていく。

 終始、落緋剣には近づかず、千葉家についても探りを入れない。一見、何の企みもない。だが、それほどまでに作為的な「おとなしさ」は、精巧に張り巡らせた偽装としか思えない。

 影鴉の潜伏に気づきながら、手を出さない。戦う価値もないと見下しているのか、それとも、浮桜島の防衛網の深さを、密かに観察しているのか。

「長く生きてきた」と口にしたのは、一瞬の隙か。それとも、こちらを動かすために、わざと投げた煙幕か。

 彼は、すべての穴を塞がねばならなかった。時燼を追い詰めて暴発させ、江奈や浮桜島の民を傷つけさせるわけにはいかない。

 落緋剣に、わずかでも失態は許されない。相手に、こちらの内情を探らせる隙も、与えてはならない。

 ややあって、彼は顔を上げた。声は沈み、冷たく、指示は明晰だ。一言一言に、幾重もの思惑が込められている。

「第一に、影鴉を二組増派しろ。どちらも、微細な魔力残留の有無を確認せよ。必ず無属性の探知器を用い、己の魔力では触れるな。奴が魔力の罠を残し、影鴉の気配を逆探知する恐れがある」

「もう一組は旅館を張り込み、出入りを監視しつつ、部屋と購入品を密かに検めろ。神器や浮桜島に関わる器物がないか、確認するんだ」

「第二に、従来の追跡部隊は、百丈の距離を保て。奴の一挙手一投足を、すべて報告しろ。特に、過去について語る瞬間と、島の事物へ触れる瞬間は、見逃すな。異常があれば、即刻、伝令を飛ばせ」

「第三に、江奈の部屋の外へ、暗衛を四名増やせ。二人は表、二人は影。交代で護らせろ。もし江奈が再び私的に時燼へ会いに行っても、無理に止めるな。すぐ俺に知らせろ。後は俺が出る」

「第四に、今日、時燼と接触した者を、全員洗い出せ。時燼の気配サンプルを密かに採取し、水紋玉盒へ封じておけ。奴が気配を断って姿を消した時、そのサンプルを辿り、全域を追跡できるようにする」

 三つの影が、同時に身を屈めた。揃った声が、石の壁に跳ね返る。

「仰せのままに!」

 声が消えると、影鴉たちは三筋の残像となって議事庁の窓から舞い出し、濃い夜の闇へと溶けていった。動きは鋭く、役割は明確に分かれている。

 江嶼は一人、砂の模型の前に立った。水の力が再び広がり、港一帯を、目に見えぬ細かな水息の感知網で覆っていく。

 淡い青の光は、夜陰に隠れている。だが、ほんのわずかな異常な魔力の揺らぎであっても、彼は最初の一瞬で察知できる。

 胸の底に、執念が凝っていく。

「時燼、貴様が浮桜島で『長く生きた』という隙を見せたのなら、俺は、その裂け目から、一枚ずつ偽装を剥がし、真の目的を暴いてみせる」

「落緋剣は浮桜島の根幹だ。江奈は、俺の唯一の妹だ。その二つは、貴様には触れさせも、企ませもしない」

 窓の外、無数の桜が、音もなく舞い落ちる。議事庁の窓枠に落ちた花びらが、冷たい水の気をわずかに帯び、やがて、かたちもなく消えていった。

 影鴉たちの影は、隙のない網となって、時燼が今日、足を踏み入れたすべての場所へ、静かに撒かれていく。

 ——その時だった。

 一筋の、よろめくような暗い影が、窓の静寂を、突然、破って、床へと激しく倒れ込んだ。

 その影鴉は、羽が暗い血に浸され、骨に張り付いている。

 どうにか体を支えようとするが、全身の震えが止まらない。桜花旅館の密かな検分へと向かった一羽だ。今、息も絶え絶えに、最後に戻ってきた。

 その手に、一角の粗布が、死に物狂いで握りしめられている。布面には血の痕が斑に染み、消えぬ殺気がまとわりついていた。

 影鴉は血を吐きながら、這うようにして訴える。声は砕け、極限の恐怖に震えていた。

「だ、だんな……わ、わたし……しくじりました……」

 江嶼の目は、冷たく細められた。軽率に探りを入れることはしない。まずは、淡い青の水紋で、彼の身に渦巻く異質な凶気を、きつく縛りつけた。

 江嶼は、その粗布の切れ端に目を走らせ、影鴉の魔力回路に浮かぶ黒い紋様を認めた。腹の底が、すとんと冷える。武具の意思の反噬。しかも、その凶気は、極めて苛烈だ。

「話せ」

 その一言が、議事庁に沈み、空気を張り詰めさせた。

 影鴉は、残る力のすべてで顔を上げた。目には後悔と、拭いきれぬ恐怖が浮かんでいる。一語一語、搾り出すように言う。

「命に従い、時燼の部屋を検めておりました……枕元に、この布に包まれた物があり、魔力の揺らぎは、まったくございませんでした……」

「また、彼は出掛ける際、いかなる武器も携帯しておらぬ様子。ならば、これを手に入れれば、あるいは、あの男の素性や実力が分かるかと……僭越ながら、独断で、お持ちしようと」

「しかし、布の下、柄に指が触れた瞬間、凶悪の極みのような武具の意思が、一気にこの身の魔力回路へと突き刺さり……私には、抗う術もございませんでした」

「あの得物には、確かな意思がございます。手の内を返すように、私の魔力の根幹を砕きました。私は、慌てて、この粗布の一端だけを引きちぎり、逃げ帰るのが精一杯で……」

 彼の体が、ひと際大きく跳ねた。回路を巡る黒い凶気が暴れ、口元から、どす黒い血があふれ出る。息は、また弱くなった。

 江嶼は、水の力を急激に送り込み、幾重もの膜で影鴉の心の臓を包んだ。なんとか息を繋ぎ、その間も、視線は、あの粗布から離さない。

 彼は粗布を拾い上げた。指先で、布の角を強くつまむ。怒りと、それ以上に強い警戒のため、指の関節が白くなる。

 あの凶気は、魔道のものではない。すべてを斬り捨てるような、圧倒的な気配。さらに、極めて強い自我を秘めている。

 これは、ただの武器ではない。武具の意思がこれほど強く、自ら持ち主以外を拒み、反撃する。しかも、時燼はその気配を一滴残らず隠し、影鴉の精緻な探知すら、やすやすと欺いていた。

 全身を、冷たいものが巡る。思考は、さらに激しく燃え上がった。

「時燼、やはり、とんだ底を見せおった!」

「俺が必ず部屋を検めに来ると、あいつは分かっていた。わざと、この神兵を枕元に置き、身にも着けず、気配も断ち、無防備を装っていた。あれは、武具の意思を用いた、罠だ」

「誰かが、あの得物に手を出すことも、影鴉の実力のほども、すべて計算の上。その上で、反噬という形で、浮桜島に、声なき威圧を叩きつけたのだ」

「あやつは、最初から、俺の布陣など、眼中にない」

 江嶼は、床に倒れた影鴉を、しばし見下ろした。それから、叱責の色を、一片も乗せずに言った。

「下がって、療養しろ」

 影鴉は、一瞬、呆けたように目を瞬かせ、それから、苦しげに頭を下げた。駆けつけた暗衛に支えられ、よろよろと退出していく。

 議事庁に、再び静けさが戻る。江嶼は一人、蝋燭の火の傍らに立ち、粗布の切れ端を指に挟んだ。

 胸の内は、ますます冴え渡っていく。時燼の実力は、予想よりも、はるかに恐ろしい。

 この数日の、あの鷹揚な態度。すべては偽装だった。「武器を持たずに外出する」ことすら、わざと見せた隙で、人を罠へと招き入れるための、仕掛けだ。

 彼は粗布を、砂の模型の上へ、乱暴に投げつけた。布面の凶気が水息の感知網とぶつかり、細かな波紋を立てる。だが、それも一瞬。水の力が、たちまち呑み込んだ。

 江嶼の墨色の瞳に、鋭い決意が宿る。

 この一局、時燼が先手を取った。だが、勝負が決まったわけではない。

 彼は机の端を、こつ、と軽く叩いた。音もなく、影鴉頭領が滑り込んできて、身を屈めて待つ。

 江嶼の声は、沈み、冷たい。

「時燼の部屋には、二度と近づくな。全影鴉に伝令しろ。以後、時燼の持ち物、部屋の器物には、一切、手を出すな」

 影鴉頭領は、短く応じ、窓から闇へと消えた。指令は、島中へと走っていく。

「時燼が、どれほどの者であろうと、この浮桜島は、俺の地盤だ」

 ——

 夜が、桜花旅館の木の廊下を覆い、時燼は、細かな花影を踏みしめながら、ゆっくりと部屋へ戻った。

 扉を押し開ける。彼の視線は、まず枕元へと走った。粗布に包まれた刀が、ベッドの端に凭れかかり、刀身がわずかに傾いて、喰らい尽くせなかった、見知らぬ魔力の余韻を、かすかに漏らしている。

 彼は歩み寄り、布を外した。柄に触れた瞬間、残っていた影鴉の気配を、指先で、ぱらぱらと砕いて消す。その瞳に、淡い無常の色が浮かんだ。

「閻魔刀、俺が斬る相手以外の魂を、喰らうなと言ったはずだ。これ以上、人を殺したくはない……」

 閻魔刀が、意思を持つかのように、低く唸った。

 時燼は窓の外へ目を向けた。浮桜島の夜の中を、淡い青の水息が、ひそやかに走っていく。

 先刻よりも、ずっと密で、ずっと奥深く。刃を見せぬまま、江嶼の感知網が、一段、深く張り直されていた。

「面白い」

 これほど頭が回り、布陣に隙がない。それでこそ、浮桜島の盤上で、時間を費やすだけの値打ちがある。

 彼は身をかがめ、閻魔刀を枕の下へと、ぞんざいに押し込んだ。それから襟元を開き、首から提げた十字のネックレスを引き出す。

 かすかに熱を帯びた宝石をつまみ、浮桜島の深部へと目を凝らした。

 あの奥で、神器たちの気配が、絡み合い、呼応している。

「千葉江嶼、だが、お前は知るまい。俺が求めているのは、剣一振りの勝ち負けなんかじゃない」

 閻魔刀が、鞘から抜かれる直前のような、ひと際鋭い唸りを、夜の中へと静かに響かせた。

「俺に、残された時間は、そう多くない」


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