落日の光
江奈は小顔をほんのり赤らめ、気づけば手が後頭部へと伸びていた。
「ええ、外の空気を吸いに来たの。家にこもってると、退屈で」
時燼は顔を上げ、彼女の少し間の抜けた笑顔を見る。目に一瞬だけ意外の色が浮かび、それから笑った。
「千葉さんは、どうして今日、俺を訪ねてきたんだ?」
時燼は傍らの長椅子へと歩み寄り、腰を下ろす。椅子の上に置かれていた桜落港の観光案内に気づき、それを手に取って眺め始めた。
「千葉さん、おすすめの名所はあるか?」
江奈はその問いに答えず、深く息を吸い、時燼の隣まで歩いていく。
「時燼、ここ、座ってもいい?」
「もちろん。ただ、まだ俺の質問に答えてもらってないが」
「あなたと、話がしたいの」
江奈は、まっすぐ時燼の目を見つめた。遠回しにはしない。
「兄は、あなたが落緋剣に狙いがあって近づいたと疑ってる。私は、自分の目で確かめたい。あの日、舞台上で、どうして落緋剣の共鳴を起こせたの?あなたは、いったい何者?それから……」
時燼は観光案内を置き、長椅子に背を預けた。口元の笑みには、わずかな面白がる色がある。
「千葉さんは、ずいぶん率直だな。少し意外だったよ」
「だが、怖くないのか?本当に兄の言う通り、俺が悪人だったらどうする?」
江奈は、隠し持った信号器を強く握りしめた。それでも声は、揺るがない。
「もしあなたが悪人なら、私は落緋剣を守る。兄のことも、私が守る。でも、誤解で、無実の人を責めたくない」
「おばあちゃんに教わったの。大切なものは、すべて守り抜けって」
時燼は、真剣に語る彼女を見て、ふっと笑った。
「いいだろう。なら教える。俺が落緋剣と共鳴できたのは、俺にも、お前と同じ桜落港の血が流れているからだ。俺が何者か、だが……」
彼は少し身を寄せ、声を潜めた。
「このあと、ある場所へ連れて行く。そこで、ゆっくり話そう」
江奈は胸が締めつけられ、とっさに断ろうとした。だが、時燼の目に宿る誠実さが、彼女をためらわせた。
兄の忠告を思い出す。それでも彼女は、信号器を押さえていた手を離し、ついに頷いた。
「分かった。でも、あんまり遠くは行かないで」
時燼は長椅子から立ち上がり、肩に乗った桜の花びらを払った。
「行こう」
彼は横を向いて江奈に笑いかけた。木漏れ日が、彼の髪先に落ちている。
「島の西の斜面に、古い桜の木がある。歩いて二十分ほどだ。途中に小川があって、桜の花びらが水面に浮かんで、小さな桃色の舟みたいに見える。面白いぞ」
江奈は頷き、立ち上がって彼の後を歩き出す。その時、桜の香りをはらんだ風が、突然、真正面から吹きつけた。時燼はとっさに体を寄せ、彼女の前に立って、舞い落ちる花びらから庇った。
江奈は、一瞬、固まった。数日前、崖の上で剣を突きつけ合った時のことがよぎる。それなのに、今の、この無意識の仕草に、胸の奥の強張りが、ふっと緩むのを感じた。
二人は市の外れを歩き、人混みを避けて進む。時燼は常に車道側を歩き、ときどき足を止めて江奈を待った。
桜の簪を売る屋台の前を通った時、彼は真珠の付いた桃色の桜簪を指さし、微笑んだ。
「これ、君に似合うよ。祭りの日の朱色の飾り紐より、ずっと優しい感じだ」
小川のそばまで来ると、彼はしゃがみ、水面に浮かぶ桜の花びらを一枚すくい上げ、江奈の手のひらに乗せた。
「見てみろ。流れが緩やかだから、花びらは渦を巻くように漂う。昔、ここに住んでた頃は、よくしゃがんで数えてた。十周すると、遠くへ流れて行くんだ」
江奈も隣にしゃがみ、手のひらの花びらが、さざ波に揺れて震えるのを見た。指先が冷たい水に触れ、思わず笑みがこぼれる。
「本当。踊ってるみたい」
時燼は、その笑顔を見つめ、目元に柔らかな光が広がった。立ち上がる時、彼女の髪に乗った桜の花びらを、そっと払ってやる。
「あと五分も歩けば着く。老桜の枝が、坂の下まで垂れてるから、すぐに分かる」
角を曲がると、土の坂が目の前に現れた。坂の上の老桜は、幹が太く、枝は傘のように広がり、幾重にも重なる桃色の花びらが、風のたびに、はらはらと落ちている。
時燼は速足で坂を上がり、幹のそばにしゃがむと、土の中から一枚の古い木牌を掘り出した。
木牌はとっくに朽ち、縁は歳月に食われてでこぼこになっていた。指先が触れただけで、木くずがぽろぽろと崩れ落ちる。顔を寄せると、地中に長く埋まっていた古書のような、かすかな黴の匂いがした。
ただ、木牌の中央の刻印だけは、はっきりと残っている。刻印の奥には、ごく淡い金の光が、消え残った煙のように宿り、朽ちかけた木を隔てるように守っていた。
「これを見ろ」
時燼は、刻印に指先をそっと当て、江奈を見上げて笑った。
「昔、ここに住んでた頃、毎日この木牌に一本、刻みを入れてた。あの頃は今ほど強くなくて、人を探すのに手間取ってたから、これで日を数えてたんだ」
「十三本目の刻みを入れた時、やっと、その時の相手の手がかりを掴んだ」
「木牌が腐らないように、刻印に魔力を込めておいた。まさか、こんなに長く残るとは思わなかったが。無事だったのは、ここだけだ」
江奈は身を寄せて隣にしゃがみ、木牌の上を指さした。
「この魔力、すごいわ。こんなに長く、刻印を守り続けるなんて」
「でも……」
彼女は顔を向け、口元に、からかうような笑みを浮かべた。
「『こんなに長く』って、まさか、本当に百年以上も生きてるの?人がそんなに長く生きられるわけないわ。魔力があったって、大げさよ。きっと、子供の頃に遊びに来ただけで、今ごろ年寄りぶってるんでしょ」
時燼は、笑う彼女を見つめ、反論はしなかった。かわりに、足元の形の良い桜の花びらを一枚拾い、そっと彼女の髪に挿した。
それから、もう一度しゃがみ、木牌を慎重に土へと戻し、表面を平らに撫でる。何かを、起こさないように。
「偽物かどうか、そのうち分かるさ。もしかしたら、君も、この木が咲くところを見られるかもな……いや、もう、その機会はないか」
「行こう」
彼は立ち上がり、ズボンの土をはたいた。
「木の裏に、小さな土盛りがあって、昔はよく、そこに座って夕日を見てた。まだ残ってるはずだ」
江奈は髪に挿された花びらに触れ、地面に戻された木牌へ目をやった。胸の奥に、まだ小さな疑問は残っている。けれど、満開の桜が、その疑いを、ふわりと薄めてくれた。
彼女は立ち上がり、彼の後を追う。風が花びらを巻き上げ、二人の背後の地面へと落としていく。木牌と、語られなかった歳月を、再び土の中へと、静かに埋め戻すように。
二人は、敷き詰められた桜の花びらを、さくさくと踏みしめながら、木の裏へと歩いた。
江奈は小走りに時燼の隣へ追いつき、彼の服の裾を、そっと引っ張った。疑問と、からかいの混じった声で問う。
「ねえ、昔ここに住んでたって。あの頃も、今みたいに灰色の服で、桜の木の下に座って、気取った顔してたの?」
時燼は、声を上げて笑い、彼女の額を指で軽く弾いた。
「あの頃は、今よりずっと若くて、淡い桃色の服を着てた。この桜と同じ色だ」
江奈は目をまん丸にし、額を押さえて笑った。
「うそ!桃色?変なの。女の子の服を盗んだ小泥棒みたい」
時燼は、わざと眉を寄せ、怒った顔を作った。
「何がおかしい。あの頃は、麓のお婆さんにも、桃色が似合うって褒められて、桃色のマフラーまで編んでもらったんだ」
「でも、そのあとは……まあ、やめておこう」
彼の視線は、木の裏の平らな草地を走り、目に一瞬、何か懐かしむような色が過ぎった。だが、すぐに江奈へ笑いかける。
「昔は、ここに土盛りがあって、いつも、その上に座って餅をかじってた」
「まさか五百年で、土盛りが風雨に削られて消えるとはな。残ったのは、この古い桜だけか」
江奈は草地を見つめ、昔、桃色の服を着た少年が、土盛りの上で餅を頬張る姿を想像し、思わず唇をとがらせた。
「ふん、本当みたいに言うんだから。私に桜餅を奢らせようと、してるんでしょ!」
「そんなに長く生きてるなら、恐竜でも見たって言えばいいのに」
時燼は、太い枝を拾い、草地の真ん中に丸を描いた。かつて土盛りがあった場所を、その輪で示す。眉を上げて。
「恐竜は、見たことがない。だが、この輪の中の草には、俺が昔こぼした餅の欠片の匂いが、まだ残ってるかもしれん」
「あとで山を下りたら桜餅を買って、ここで食う。もし懐かしい味がしたら、君の負けだ。俺が、君の餅を騙し取ろうとしてたってことになる」
江奈はしゃがみ込み、指で地面の輪を、わざと崩した。時燼を、じろりと睨む。
「騙されない!食べたいなら、自分で買って!」
「でも……もし本当に、五百年前の餅の味がしたら、半分だけ分けてあげる。それでどう?」
時燼は、彼女のいたずらっぽい顔を見て、笑いながら髪をくしゃくしゃにした。
「いいだろう、その賭け、乗った。あとで、半切れを惜しむなよ」
風が桜の花びらを運び、二人の足元に描いた輪の中へ、はらはらと落ちてくる。五百年越しの小さな約束に、桃色の判を押すように。
笑い声と、花びらが落ちる音が、古い桜の下で、ふわりとほどけていく。この一瞬の安らぎが、浮桜島の夕暮れに、静かにしまい込まれていった。
二人は並んで山を下りた。江奈は、まだ「五百年の餅の味」で時燼をからかい、桃色の服で土盛りに座り、顔じゅう花びらだらけで餅を食べる彼の姿を、大げさな身振りで勝手に作り上げる。時燼は笑って聞き流し、ときどき口を挟んだ。
「適当に作り話をするな。あの頃は、君よりずっと大人しかった」
小川のそばまで来た時、風が急に強くなり、梢から桜の花びらが、いっそう濃く降りしきる。
時燼は眉をわずかに寄せ、遠くの林の影へと目を走らせた。だが、何も言わず、江奈の手首を軽く引く。
「急ごう。遅くなると、市の桜餅が売り切れる」
江奈は引っ張られながら、後ろを振り返って舌を出し、小声で文句を言う。
「急ぐことないじゃない。誰も、あなたと取り合いしないわよ」
桜餅の屋台へ着くと、白髪の婆さんが、手際よく餅を袋へと詰めてくれた。渡す時、婆さんは突然、時燼の顔をじっと見て、笑いながらため息をつく。
「あんた、目鼻立ちが、ようできとるねえ。うちの爺さんが、生きとった頃、よう話しとったお客さんに、そっくりだわ」
「爺さんが言うには、だいぶ昔に島へ来たお人だそうで。わしは会うたことないけど、よう口にしてたよ」
時燼は、油紙の袋を持つ指先を、一瞬止めた。目の奥に、気づかれぬほどの、かすかな動揺が走る。だが、すぐに笑みを作って応じた。
「それは、ご縁ですね」
江奈は、すかさず彼の耳元へ寄り、腕を小突いて、からかうように囁いた。
「ほら、ばれたでしょ。婆さんの言ってるのは、べつの人よ。年寄りぶってるあんたじゃない。桃色の服を褒められた、なんてね」
二人は、小川のほとりの青い石板に腰を下ろし、餅を食べた。指先に甘い桜の粉がつき、甘い香りと、小川の冷たい匂いが広がる。
江奈は餅をかじりながら、ふと首をかしげて、彼の顔を見た。手は無意識に、腰の落緋剣の房へ触れている。
「どうして落緋剣の後継者を探してるの?いったい、何をするつもり?」
「ただ桜の木の下で、木牌を掘ってるだけの人には、見えないわ」
時燼は、餅をかじる手を、ほんの少し遅らせた。小川を流れていく桜の花びらへと、目を向ける。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「悪いことじゃない。時が来たら、ちゃんと話す」
江奈が、俯いて、黙ってしまったのを見て、彼は、もう一言、付け加えた。
「もし、今回、うまくいけばの話だが」
江奈が、顔を上げて、彼を見た。
「成功って……何が?」
時燼は、答えなかった。
その言葉が終わった瞬間、江奈の腰の落緋剣が、ふるりと震えた。剣房の桜玉が、細やかな光を点し、腰の飾り紐まで、かすかに揺れる。
その光が、小川の水明かりに溶けた。
時燼は、その光へと目を落とし、張り詰めていた瞳の色が、ほんの少しほどけ、温もりが浮かんだ。
餅を食べ終え、帰り道についた頃、空は、すっかり暮れていた。宵闇が、浮桜島の梢を覆い、古い桜の影が、地面に長く伸びる。
江奈は突然、木の幹に刻まれた、新しい浅い傷を指さして叫んだ。
「見て!今でも、木に傷をつける人がいるのね。昔のあんたの木牌みたい」
時燼は歩み寄り、腰をかがめ、子供が刻んだ、いびつな文字を指先でそっと撫でた。
それから手を上げ、その刻印の隣に、指先で小さな桜の紋様を描いた。淡い金の光が、一瞬、指先に弾けて、木目の中へと溶けていく。あとには、最初からそこにあったような、ほのかな跡だけが残った。
「後世に、小さな置き土産だ。昔の俺と同じように」
彼は、静かにそう言った。
江奈は、木目に隠れた淡い金の跡を見て、思わず笑った。
「なんだ、あんたも、そんな子供みたいなことをするんだ」
時燼は体を起こし、手の木くずをはたいて、苦笑した。
「たまにはいいだろ。恥ずかしいことじゃない」
夕風が、淡い夜霧を運び、最後の桜の香りを攫っていく。二人は並んで帰路を歩いた。時燼は、やはり車道側を歩き、江奈を草むらから遠ざけて守っている。
江奈は、市で見かけた目新しい話を、ぺちゃくちゃと喋り続けた。時燼は、横を向いて耳を傾け、口元に、かすかな笑みを浮かべている。
夜風が、二人の声をやわらかく揉み消し、花びらの散る音と混ぜ合わせた。
婆さんの言葉。語られなかった過去。目の奥に隠した秘密。
すべてが、浮桜島の夜風に包まれ、春の残り香とともに、これからの日々の中で、ゆっくりと解かれていくのを待っていた。
江奈の中の疑いは、日ごとに薄れていった。兄は、少し神経質すぎるのではないか、とさえ思うようになっていた。
家に戻ると、江嶼が居間で、影鴉から届いた監視の記録を見ている。彼女は、思わず口を開いた。
「お兄様。私、あの人は本当に、ただの観光客だと思う。何も、おかしなことはしていなかった」
江嶼が顔を上げた。その目は、相変わらず厳しい。
「江奈、油断するな。静かであればあるほど、嵐は近い」
江奈は黙った。だが、心の中では、明日にでも兄に、時燼の監視をやめてほしいと、そう切り出そうと考えていた。
彼女は歩み寄り、そっと口を開いた。
「お兄様、あの人は、千葉家の方角さえ、一度も余計には見なかった。落緋剣にも、触れようとしなかった。もしかしたら……」
「本当に、お兄様の勘違いかもしれないわ」
江嶼は監視記録を閉じ、鋭い視線を保ったまま答えた。
「江奈、落緋剣の共鳴を起こせること自体が、異常なんだ。強い魔力を持つ者ほど、自分を隠すのがうまい。日常の細かな姿に、騙されるな」
「でも、敵意は感じなかったの」江奈は、ポケットの中の玉佩を握りしめた。
「それに、もし本当に落緋剣を狙ってるなら、私たちから逃げるはずよ。どうして、市や山で、あんなに堂々としてるの?」
彼女は一瞬言いよどみ、それから声を強くした。
「彼を信じるからじゃない。お兄様に、これ以上、気を張ってほしくないだけ」
江嶼は、妹の真剣な眼差しを見た。それが一時の感情ではなく、自分の負担を分かち合おうとするものだと、彼には分かった。
しばらく沈黙した後、彼はついに折れた。
「分かった。これから外出する時は、必ず影鴉を連れていけ。少しでも危険を感じたら、すぐに俺へ知らせろ」
「それから、あの男に、変な場所へ連れていかれるな。いいな」
江奈は頷いた。だが、胸の内は、かすかにざわついていた。
彼女は、盲目的に時燼を信じているわけじゃない。ただ、ずっと張り詰めたままの兄を、少しでも楽にしたかった。
江嶼は手で、江奈に休むよう促した。
しばらくして、数羽の影鴉が、砂の模型の縁へと降り立った。低い声で、何事かを告げる。
江嶼の顔色が、変わった。




