そうけんさい
園内、ピンク色の桜の木々の間に、色とりどりの提灯が吊るされ、大勢の住民が思い思いに写真を撮って楽しんでいた。
時燼は中央舞台に近い場所を確保し、傍らの桜の木にもたれかかった。俯いて何かを弄っているふりをしながら、密かに魔力を巡らせる。
次の瞬間、目に見えぬ魔力が彼の体から広がり、細密な網となって、音もなく桜花園の全域を覆った。
周囲のエネルギーの流れが、一瞬で鮮明になる。影鴉たちは魔力を抑えているつもりでも、彼の探知の前では、まるで灯りを掲げているようなものだった。
最も際立っていたのは、千葉江嶼と江奈の身に宿る、二振りの神器の魔力の波動だ。一方は深い海のように、もう一方は咲き誇る桜のように、ゆらめいている。
時燼の指が、手元の画面で止まった。口元に、面白がるような笑みが浮かぶ。
「江嶼の張った布陣は、たしかに緻密だ。だが、あの男は忘れている。本当の魔力探知に、大仰な装置など必要ない。十分に強力な魔力の核さえあればいいのだ」
轟ッ——!!
突然、深い青の竜巻が舞台の中央から立ち昇り、周囲の桜を巻き上げ、桜花園のすべてを呑み込んだ。日光がかき消され、世界は一瞬、暗闇に沈む。双剣祭の始まりだった。
園内の提灯が、いっせいに消えた。舞台の照明だけが、中央の黒い箱を照らし、すべての視線を一点へと引き寄せる。
一秒、二秒、三秒——黒い箱が弾け、桜の花びらが舞台の四方へと舞い散る。空は、ゆっくりと明るさを取り戻した。
歓声と喝采が沸き起こる中、舞台の中央に、江嶼と江奈がゆっくりと姿を現す。
礼服を身につけた江嶼が、右手を掲げた。すると、一つの剣箱が、ゆっくりと浮かび上がる。
江嶼が魔力で箱を開くと、中から波波剣の青い光が、目を刺すように溢れ出した。
続いて江奈が、魔力で桜の花びらを寄せ集め、剣の形を作り、その柄を握る。花びらが散り終えた時、落緋剣がゆっくりと姿を現した。
その時だった。時燼は、足元の地面から微かな震えが伝わってくるのを感じた。地下の水息感知器が一斉に起動し、魔力の線が瞬く間に網となって、舞台全体を包み込む。
時燼は、そっと笑った。先ほどの探知で分かっていた。北西の隅にある感知器が、先刻の魔力干渉のせいで、反応に半拍の遅れを生じていることを。
陣が閉じる寸前、目に見えぬ魔力が地面を這い、その隙間へと滑り込む。まるで鍵のように、感知器の核を、そっと揺らした。
瞬間、陣全体の魔力の波動が、乱れた。すぐに正常へ戻る。だが、波波剣を握る江嶼の手は、確かに一瞬止まった。
彼は弾かれたように顔を上げ、時燼の位置を正確に見据えた。その眼差しは、警戒と疑惑に満ちている。
江奈も兄の異変に気づき、その視線の先を追った。時燼が、桜の木に寄りかかり、こちらに向かって軽く手を振っている。まるで、ただの挨拶のように。
だが、彼女は感じ取っていた。時燼の身から漂う、その有るか無きかの魔力。あまりに強大で、剣を握る手が、無意識に強くなる。
江嶼は深く息を吸い、突然、声を張り上げた。
「本日、双剣は共鳴し、桜落港の平穏を守る!もし心に邪な想いを抱く者がいるならば、神器の無情なる裁きを受けるがいい!」
水の力を帯びたその声に、その場の誰もが静まり返った。だが、江嶼の視線だけは、時燼を離さない。
時燼は、それを聞いて、わずかに眉を上げただけだった。
次の瞬間、彼はごく微弱な魔力を、わざと放った。それは落緋剣と似た気配を帯び、江奈の腰に差した落緋剣を、かすかに熱くする。剣鞘に描かれた桜の紋様が、淡い桃色に発光した。
江奈の顔色が変わった。思わず剣の柄を押さえる。江嶼の眼差しは、一瞬で氷のように冷たくなる。
彼はようやく確信した。時燼の狙いは、落緋剣だけではない。浮桜島の奥に隠された秘密にまで、届いている。
猶予はなかった。人混みの中では戦えない。巻き添えが出る。
江嶼は怒りを押し殺し、江奈に目配せを送り、剣を収めるよう促した。
そして群衆へ向き直り、無理に笑みを浮かべた。
「先ほどの現象は、神器が、港内の祈りの心を強く感じ取ったにすぎません。皆さま、どうか慌てないでください。双剣共鳴の儀式は、この後、控えの間にて執り行います。それまで、どうぞ園内をご自由にお楽しみください」
そう言うと、時燼へ再び視線を戻した。魔力による、二人だけに聞こえる伝声で、警告を飛ばす。
「貴様の顔は覚えた。控えの間まで来い。さもなくば、影鴉に全住民を避難させる。そうなれば、貴様は——」
時燼には分かっていた。江嶼は、ことを大きくしたくない。無実の民を巻き込みたくない。
彼はどうでもよさそうに肩をすくめ、服についた花びらを払うと、桜の木から背を離した。両手をポケットに突っ込み、ゆるりと控えの間の方へ歩いていく。
江奈は落緋剣を握りしめ、複雑な目で時燼の背中を見送った後、江嶼に続いて控えの間へと向かう。
舞台の周囲にいた住民たちは、男が控えの間へ入っていくのを見て、わずかに首をかしげたが、深くは気にせず、ぱらぱらと散っていった。
影鴉に化けた数人の係員だけが、時燼の背中を、鋭い目で追っている。
時燼は控えの間の入口に着くと、振り返って住民を誘導する影鴉たちを一瞥し、口元に面白そうな笑みを浮かべた。
時燼が控えの間へ足を踏み入れた瞬間、背後の扉が「バン」と音を立てて閉まった。
振り返ると、十数羽の影鴉が扇状に展開し、すべての出口を塞いでいる。短刀の刃に、冷たい魔力の光が走っていた。
江嶼と江奈は、十歩ほど先に立っている。江嶼の波波剣を握る手には、青筋が浮き、いつでも動ける体勢だった。
「言え。貴様、何者だ?」江嶼の声が、梁に吊るされた桜の飾りを震わせ、花びらをはらはらと落とす。
「桜落港の観光客が、これほどの魔力を持つはずがない。ましてや、意図的に落緋剣の共鳴を引き起こすなど、なおさらだ!」
時燼は、ゆっくりと桜落港の宿泊証を取り出し、ひらりと揺らして見せた。
「俺は時燼。観光で来ただけだ」
「数日前、市で君の妹、千葉江奈にぶつかられた。彼女が玉佩を落としたから、声をかけたんだが、聞こえなかったらしい。今日、双剣祭に来たのは、その玉佩を返すついでだ。祭りも見てみたかったしな。まさか、ここまで『熱烈』に歓迎されるとは思わなかったが」
江奈が、一歩、前に出た。落緋剣が、すでに三寸抜かれている。桃色の剣光が、彼女の冷たい横顔を照らした。
「とぼけないで!本当に玉佩を返すだけなら、なぜ舞台上で、私の剣の共鳴を起こしたの?」
「それに、一昨日、わざと私を尾行したわね。私に近づき、落緋剣に近づく。本当の目的は、何なの?」
彼女の声に、迷いはなかった。
江嶼も頷き、波波剣の鞘に浮かぶ水紋を、床へと広げた。地面に、無形の水の網が張り巡らされていく。
「江奈の言うとおりだ。偶然が重なりすぎれば、それは陰謀だ」
「本当の目的を話すか、ここで身柄を預けてもらうか。我々が貴様の素性を掴むまではな」
時燼は、江奈の手にある剣と、床に張られた水の網を眺め、笑った。
「俺が落緋剣に何かしようってなら、とっくに舞台上でやっている。わざわざ、お前らと控えの間まで来る必要があるか?」
「それに、この影鴉と、お前ら兄妹ごときで——」
時燼は軽く身を捻り、力を込めた。全身の魔力が、弾けるように広がり、周囲の魔力を乱す。
「俺を、止められない」
江奈の額に、冷や汗が滲む。時燼の魔力が、恐ろしいほど強いことは分かっている。だが、不思議と、敵意は感じられなかった。
江嶼も、それに気づいている。眉間のしわが、さらに深くなった。
「たとえ、いま敵意がなくとも、目的がない証拠にはならん。今日から影鴉が、貴様を監視させてもらう。落緋剣に、一歩でも近づいたら——」
「一歩たりとも近づかん」
時燼は言葉を遮り、宿泊証をポケットへと戻した。
「俺は他人の剣を奪う趣味はない。ただ、玉佩を返しに来ただけだ。これから数日は、桜落港を観光させてもらう。監視したいなら、好きにしろ」
彼は、入口の方へ顎をしゃくった。
「もう、行っていいか?」
江嶼は数秒、時燼をじっと見据えた後、影鴉たちに手で合図を送った。
影鴉たちは刀を収め、道を開ける。時燼は背を向け、扉を押し開いた。桜の花びらが、部屋の中へと舞い込んでくる。
彼は振り返り、江奈を一瞥した。視線は、彼女の手にある剣の上で、わずかに止まる。
「次からは、玉佩を落とさないことだ。それと、玉佩を返しに来た相手に、むやみに剣を抜くのはやめておけ。本物の悪人に遭った時、今回のようにはいかないぞ」
江奈の、剣を握る手が、ぴくりと強張った。桜の花びらが舞う中へ消えていく時燼の背中を見つめ、その瞳には、言いようのない複雑さが浮かんでいた。
江嶼が、隣に立った。
「あの男の言葉に惑わされるな。余裕ぶっていればいるほど、あれは自分の力に絶対の自信があるからだ。何を企んでいようと、我々は落緋剣を守り抜く」
江奈は頷き、玉佩を胸元にしまい、落緋剣を握り直した。分かっていた。時燼が剣の共鳴を起こした、あの瞬間から、桜落港の平穏は、もう終わったのだ。
控えの間に残された江奈は、玉佩を手に握りしめて立ち尽くしていた。指先には、先ほど時燼が触れた時の温度が、まだ残っている気がした。
江嶼は波波剣を収め、影鴉たちへと命じる。
「直ちに桜花旅館の宿泊記録を調べろ。市と双剣祭、それぞれの監視記録を確認し、時燼のここ数日の足取りを洗い出すんだ。五名を張り付け、二十四時間体制で監視させろ。異常があれば、即座に報告だ」
影鴉たちは一斉に応じ、素早く散っていった。部屋には、兄妹だけが残る。江奈は、兄の張り詰めた横顔を見て、小さく口を開いた。
「お兄様……本当に彼は、落緋剣を奪いに来たのでしょうか」
江嶼は振り返り、疑う余地のない強さを宿した目で、答えた。
「江奈、あいつの見せかけに、惑わされるな」
「見知らぬ男が、桜落港へ来たその足で双剣祭に現れ、落緋剣の共鳴を起こした。これが偶然のはずがない」
「平然としていればいるほど、あれは何かを持っている。我々は落緋剣を守らねばならない。誰にも、隙を見せるな」
江奈は俯き、玉佩の桜の紋様を、指先でなぞる。
時燼が舞台上で手を振った、あの姿を思い出す。控えの間で「剣を奪うつもりなら、とっくに奪っている」と言った、あの声。そこに、挑発はなく、妙なまでの潔さがあった。
「でも、あの人には、機会があったのに、私を傷つけなかった。それどころか、わざわざ玉佩を返しに来て……」
「それも偽装かもしれない」江嶼は遮ったが、声の調子を、わずかに和らげた。
「江奈、お前が優しいのは分かっている。だが、人の心は深い。時燼の魔力は異常だ。素性も分からん。桜落港の安全を、賭けに使うわけにはいかない」
「いいか。これからは、あの男には近づくな。一人で会うのも禁止だ」
江奈は黙って頷いた。だが、胸の奥のもやもやは、消えなかった。
彼女は窓の外を見た。時燼が去っていった方角。その姿は、もう、どこにも見えなかった。
江嶼は、物思いに沈む妹を見て、小さくため息をついた。
「お前の考えていることは分かる。だが、我々にできるのは、落緋剣を守り、浮桜島を守ることだけだ」
「時燼の目的がなんであれ、もしあいつがお前に手を出すなら、俺は決して許さん」
その声には、守る者の覚悟が込められていた。けれど江奈は、兄の眼差しの奥に、かすかな不安が揺れているのを見た。時燼の背後の力を案じ、これから桜落港に吹き荒れる嵐を、恐れている。
——翌日からの二日間、江奈は兄の言葉を守らなかった。
買い物を口実に、時燼がよく足を運ぶ場所へこっそりと出向き、その様子を観察した。
初日の朝、彼女は埠頭近くの桜寿司屋で、時燼を見かけた。窓際に座り、寿司を食べながら外の漁船を眺め、ときどき店主と笑って話し込んでいる。どこからどう見ても、ただの観光客だった。
午後になると、桜落山の山道で、また彼の姿を見つけた。時燼は道端にしゃがんで桜を眺めており、江奈が近づいても気づかない。彼女が誤って小枝を踏み折るまで。
時燼はようやく振り返り、笑顔で挨拶をしてきた。
「奇遇だな、千葉さん。君も山登りか?」
江奈は、彼が何者なのか分からなかった。なぜ、桜落港に現れたのかも。
だが、彼女は、ぼんやりと感じていた。時燼の来訪は、破壊のためではない。兄さえ知らない、何かの秘密のためなのではないか、と。
彼女は決めた。今度は、こっそり観察するのではなく、直接会って、はっきりと問いただそう、と。




