罠に誘う
二刻ほど前、議事庁の青銅の鳥笛が、突然、細かな音を立てた。江嶼が笛の表面に指を軽く当てると、かすかな黒い影が窓から滑り込み、影鴉の姿となって、砂の模型の縁に舞い降りる。
「ご報告いたします」影鴉の声は、しゃがれて低い。
「崖辺周囲十里、港、桜の林、旧市街まで、くまなく捜索いたしましたが、ご説明通りの、黒い短髪の男の気配は確認できませんでした」
「崖辺に留まった痕跡さえ、意図的に消されたようで、極めてかすかな風元素の揺らぎだけが、残っております」
江嶼の顔色が、一気に沈んだ。手は波波剣の柄を強く握り締め、墨色の瞳に、重苦しい光が走る。
「可能性は三つある」
「第一に、彼は風属性魔法に極めて精通しており、わざと痕跡を残して、我々を誘い込もうとしている」
「第二に、彼が使っているのは魔法ではなく、もっと古い力だ。風元素は、行動の際に自然と生じた残り香にすぎない」
「そして最後は……」
江奈は傍らに静かに座っていたが、その言葉を聞くうち、拳を無意識に握りしめていた。
「お兄様、彼はきっと桜落港から離れていません!明日、私が港でわざと姿を見せます。彼は玉佩を返すと言っていた。もしかしたら、自分から会いに来るかもしれません!」
「だめだ」江嶼は即座に拒否した。語気は厳しい。
「お前が自ら姿を晒せば、我々は完全に主導権を失う」
「彼の狙いが落緋剣なのか、お前自身なのか、それとも桜落港全体の封印なのか、まだ分からない」
「もし、お前が姿を現すのを待って罠を張っていたら、お前だけでは済まない。浮桜島周辺の民まで、巻き込まれかねない」
江奈は眉をひそめ、戸惑いを浮かべた。
「でも、ずっと受け身で待つわけにもいかないでしょう?彼は気配を消せる。影鴉にも見つけられない。このまま待っていても、彼が自分から姿を見せるとは思えません」
江嶼は砂の模型の前に立ち、蜜餞店の位置を指先で円を描くようになぞった。
「受け身は、死を待つことではない」
彼は円の外側の数本の道を指し示しながら続けた。
「この蜜餞店は、港の繁華街にある。四方八方に抜け道があり、何かあれば七方向へ逃げられる」
「事前に結界を張れば、相手に気づかれてしまう。だから——」
彼は江奈を見た。その瞳に、わずかな策謀の色が浮かぶ。
「お前は、いつも通り蜜餞店へ行け。わざと姿を見せるな。影鴉を商人に偽装させ、周囲で密かに監視させる」
「もし本当にお前を探して来たなら、影鴉がまず彼の行動経路を記録する。彼が立ち去った後、その道筋をたどって調べる。そうすれば、相手を刺激せずに、行動を把握できる」
——
街角のラーメン店が、暖かな黄色い灯りを灯していた。時燼は一番奥の席に座り、袖をまくり上げている。
目の前の豚骨ラーメンが湯気を立て、時燼は箸で半熟卵をそっと摘まみ上げ、窓の外、神殿の方角へと視線を投げていた。
突然、くしゃみが出た。指先が震え、箸の上の半熟卵が器の中へ落ち、汁がわずかに手に跳ねる。
時燼は鼻をこすり、口元にやるせない笑みを浮かべ、心の中で呟いた。
「そこまでか。ただ玉佩を返そうとしただけなのに、あれだけの監視をつけて。おかげで、麺を食うのも落ち着かん……」
彼は紙で手を拭き、ついでに卓の角にこぼれた汁へ指先が触れた。すると、その汁は瞬く間にごく薄い白い霧となって、風に散るように消えた。痕跡は、ひとかけらも残らない。
それから箸で器の縁を軽く叩いた。その余韻が、遠くから響く、ほとんど聞こえない青銅の鳥笛の音を、ちょうどかき消す。
時燼は神殿の方を見上げ、瞳にわずかな遊びの色を浮かべた。
「千葉江嶼……なかなか用心深い神器の持ち主だ」
そう呟くと、半熟卵を摘まみ上げてひと口かじった。濃い黄身が舌の上でとろけ、先ほどの監視も対峙も、すべて麺をすする合間の小さな出来事にすぎないかのようだった。
——
深夜、議事庁では蝋燭の火が揺らめき、十数羽の影鴉が、次々と砂の模型の縁に降り立った。羽には夜露が光っている。
「大人、我々は三組に分かれ、崖辺周辺十里に感知網を張りました」影鴉の頭領の声は、しゃがれている。
「特徴に合致する者を、十七名まで追跡しました……その中の一人が、我々が路地へ入った時、すでに姿を消しておりました」
「路地の隅々まで探し、水属性追跡符まで使用しましたが、痕跡は一つも見つかりませんでした」
江嶼は波波剣を手に、砂の模型の前に立っていた。刃の幽藍の水光が、彼の顔を照らし、眼差しをいっそう深く沈めて見せる。
彼はしばらく沈黙し、それから口を開いた。
「水属性追跡符は、生物の水気の揺らぎを捉える。呼吸の名残であっても、三里先までは追えるはずだ」
「それを完全に避けたとなると、彼は気配を隠すだけでなく、移動中もあらゆるエネルギーを収束し、体内の水蒸気さえ制御していることになる」
「そういう相手が、思いつきで落緋剣に近づくはずがない」
江奈へ向き直り、語気を引き締めた。
「蜜餞店の作戦は、中止だ」
「あの男は警戒心が強すぎる。こちらがわざと誘えば、罠だと見抜くだろう」
「ならば逆だ。『我々が絶好の機会を与えた』と、向こうに思わせる」
江奈は首をかしげた。
「でも、どうやって機会だと思わせるの?」
江嶼はすぐには答えず、窓辺へ歩み寄り、裏手の桜花園の方角を眺めた。
「相手は神器を欲しがっている。蜜餞店の餌では、ああいう男は釣れない」
「この手の男を引きずり出すには、断れない『時』を与えるしかない。双剣の共鳴、生き血を以て引くと」
口元に、勝算を込めた笑みが浮かんだ。
「双剣祭だ」
「明朝、すぐに通達を出す。港内の異変を鎮めるため、双剣祭を前倒しで開催すると。対外的には、儀式をできるだけ正式に装う。『双剣の共鳴には、持ち主の生き血を引かなければ、完全な力は発揮できぬ』という話も、併せて流せ」
江嶼は少し間を置き、付け加えた。
「そして、前もって防衛陣は張らない。明朝、通達を出した後、影鴉を住民に紛れ込ませ、桜花園へ向かう群衆に混ぜて、水息感知器を密かに設置させる」
「そうすれば、仮に彼が感知器の存在に気づいても、儀式のための通常防衛だと思う。自分を狙った罠だとは考えない」
江奈は聞き終え、わずかに黙ってから尋ねた。
「もし、彼が来なかったら?」
「来る」
江嶼は手にした波波剣へ目を落とした。剣身の水光がゆらめき、彼の瞳の奥に宿る重みを映している。
「賢い相手ほど、己の欲望に足をすくわれる。彼の目的が神器そのものであれ、神器を利用した別の何かであれ、必ず動く」
「彼が姿を見せれば、その反応で本心が分かる。それこそが、双剣祭を前倒しにした、本当の狙いだ」
江嶼は波波剣の柄を握り、掌の中で水の力を静かにめぐらせた。
「俺の水息感知器は、奴を捉えるだけでなく、双剣へ近づく際のエネルギー波を記録できる」
「その記録から、あの男が過去に落緋剣と接触したことがあるか、あるいは他に神器に関わる何かを身に隠しているかまで、割り出せる……」
江奈は、兄の落ち着いた横顔を見て、胸の不安が少しずつほどけていくのを感じた。
「お兄様、安心して。明日は私も協力する。彼がどんな目的でも、私たちで必ず対処してみせる」
江嶼は頷き、再び窓の外の夜闇へと視線を向けた。声は、低く、確かなものだった。
「明日の双剣祭は、祈りのためではない。闇に隠れた者を、自ら明るみへ引きずり出すためのものだ」
翌朝の桜落港、魔導掲示板には、双剣祭の前倒しを知らせる告知が、繰り返し流れていた。道行く住民たちが、次々と足を止めて見上げる。
人混みの中、時燼は普段着のまま、どこにでもいる旅人と変わらない姿で立っていた。
耳にイヤホンを着け、音楽を聴いているふりをしながら、視線だけは絶えず周囲を素早く走らせる。広場の隅では、影鴉が二人、警備員に化けて、それとなく群衆を監視している。掲示板の脇では、水属性感知器が、青い光を弱々しく点滅させていた。
時燼は人波に乗って桜花園へと向かい、道すがら氷菓子を一つ買った。かじりながら、周囲の噂話を拾う。
「双剣祭の生き血共鳴って、千葉家の秘伝の儀式らしいぜ。今まで外に公開されたことがないんだと」
「神器が光るところが見られるかも!わざわざカメラ持ってきちゃったよ!」
時燼は氷菓子をひと口かじった。冷たい甘さが舌に広がる中、心の中では冷ややかに笑っていた。
生き血の共鳴?おそらく、千葉江嶼が自分を誘い出すためにでっち上げた話だろう。
桜花園の入り口に着き、食べ終えた氷菓子の棒をゴミ箱へ捨て、改札の表示板を見上げた。画面には「双剣祭観覧入口」と表示され、制服姿の係員が二人、検札をしている。
時燼は前もって買っておいた観覧券を差し出した。指先が、ふと係員の手首に触れる。相手の体が、見分けがつかぬほど微かに強張った。
何かを感じ取って振り返ろうとした時には、時燼はもう、何食わぬ顔で桜花園の中へと歩き出していた。
胸元のネックレスが、ほのかに熱を帯びる。
落緋剣と波波剣。どちらも、この中にある。




