ぎょくはい
祭りが終わり、観光客たちが次第に散っていく中、時燼は石灯籠にもたれかかり、江奈の落とした玉佩を手の中で弄んでいた。
神器の気配は、とうの昔に骨の髄まで染み込んでいる。これほど近い距離なら、わざわざ探りを入れるまでもなく、玉佩を通じて落緋剣のおおよその位置を感じ取ることができた。
ほどなくして、千葉江奈が落緋剣を抱えて木造の建物から出てきた。身には隠蔽の暗魔法をまとい、足音を潜め、路地を抜けて島の東の崖へと向かっていく。
あたりの安全を確かめた、まさにその時だった。背後に広がる林の影から、ひとつの人影が、ゆっくりと姿を現した。
「千葉江奈?」
江奈は勢いよく振り返り、落緋剣を瞬時に抜き放つ。淡い紫の魔力が即座に刀身へと流れ込み、雷の刃が剣先で凝縮され、じりじりと音を立てた。
江奈は時燼を鋭く睨みつけ、剣先を彼の喉元へまっすぐ突きつける。その瞳は警戒に満ちていた。
「あんた……?どうやって私を見つけたの?なぜ私を尾行するの?」
時燼は両手で玉佩を差し出し、静かな口調で言った。
「昼間、君が俺にぶつかっただろう。これを落としたんだ。返しに来た。それだけだ」
彼は刀を抜かず、一切の気配も放たない。まるで、ただの落とし物の届け人だ。
江奈は、ほんの一瞬だけ、緊張を解こうとした。だが、すぐに思い直す。音もなく自分の背後まで近づき、それでいてここまで落ち着いていられる。実力は、間違いなく底知れない。
「玉佩を返すだけなら、どうしてここまでついてくるの?」
江奈の剣を握る手に、さらに力がこもる。雷の刃が、回転を速めた。いつでも撃ち出せる体勢だ。
「それに、私の名前を知っている。私を見つけ出し、落緋剣を見ても、少しも驚かない……」
彼女は賭けに出られなかった。目の前の男に悪意がないと決めつけることなど、できない。狙って近づいてきた未知の強敵を相手にするなら、先に手を出し、混乱を生んで逃げるのが最善だ。
時燼は、彼女の顔に浮かんだ決意を見て、心の底でそっとため息をついた。
千年以上生きて、江奈のような守り手は、嫌というほど見てきた。慎重で、敵に隙を与えない。本来なら、玉佩を返したら立ち去り、頃合いを見て落緋剣を手にするつもりだった。
だが、この様子では、江奈はそんな機会を与えてくれそうにない。
彼はしばし沈黙し、それから口を開いた。
「もう一度言う。俺はただ、玉佩を返しに来ただけだ」
時燼はわずかに眉を寄せた。
「もし君がどうしても戦うというのなら、俺も黙ってやられるつもりはない」
江奈は、彼の手の中の玉佩を見つめた。確かに、自分が落としたものだ。
彼女は一瞬だけ気を緩め、剣を握る手から力が抜けた。
「どうせ昼間も会ってるし、大丈夫……」
その刹那、時燼の胸元のネックレスが、激しく震えた。
冷たい何か。彼が何度も押さえ込んできた、あの何か。それが神器を視界に捉えた瞬間に目を覚まし、ネックレスを伝って外へ漏れ出し、真っ直ぐに江奈を捉えた。
彼は一秒で、それを再びねじ伏せた。
だが、その一秒で、江奈は感じ取ってしまった。自分に何かが、正確に狙いを定めたことを。
殺意でも、魔力の波動でもない。もっと純粋で、もっと古いもの。獲物を定めた捕食者のようで、鍵穴を見つけた鍵のようだった。
江奈の全身から魔力が一気に膨れ上がり、即座に戦闘態勢へと切り替わる。眼光は刃のように鋭く、落緋剣を握る腕へと力がこもった。
雷をまとった一筋の剣撃が、空気を裂くほどの速さで、真っ直ぐに放たれた。
時燼は内心で驚いた。この一撃の速さと威力は、予想をはるかに超えている。まともに受ける余裕などない。
千年の戦闘本能に頼り、彼は剣撃が迫る瞬間、勢いよく身をよじって跳んだ。雷の剣気が胸元をかすめ、巻き起こる風が肌を刺す。
それでも剣気の余波が衣の裾を捉えた。「嗤啦」という音と共に、布地が雷に焼かれ、焦げた匂いが広がる。
剣撃は背後の地面へと突き刺さり、深い穴を穿った。砕けた石と電光が飛び散り、近くの夜鳥が翼をばたつかせて飛び去っていく。
時燼は着地し、静かだった瞳が、ようやく凝ったものへと変わる。彼は江奈を見つめ、わずかなやるせなさを込めて言った。
「半言も、口を挟む時間もくれないのか」
江奈の剣を握る手が、わずかに震えていた。先ほどの一撃、彼女は力の半分を込めた。相手を深く傷つけられずとも、せめて隙を生めると考えていたのに。
男は、それを容易くかわし、衣の端を掠めただけだった。
周囲の桜は、なおも風に舞って、江奈の肩や剣の上に落ちていく。
それでも、彼女は少しも気を抜けない。あの柔らかな花びらさえ、今は棘を持っているように思えた。一瞬たりとも、油断してはいけない。
だが、不思議なことに、時燼の身からは、血に飢えたような殺気が、微塵も感じられなかった。
その穏やかさが、圧倒的な実力差の前では、かえって彼女の不安を煽る。強者の善意は、いつでも悪意に変わりうる。彼女は賭けられなかった。
たとえ無害だと言われても、人気のない崖の端まで追いかけてくる。その行動自体が、すでに不確かさで満ちている。
江奈の声は冷たかった。
「玉佩を返すだけだと言うなら、なぜ私をここまでつけてきたの?」
「私に傷を負わせられるだけの力を持っている。その強さそのものが、もう脅威なの。素性も知れず、恐ろしく強い人を、信じられるわけがない」
時燼は、張り詰めた彼女の顔を見て、仕方なさそうにため息をついた。
「本当に、ただ返しに来ただけだ。どうすれば信じてもらえる?」
江奈は剣を握る手を、さらに強くした。自分は時燼には敵わない。このまま戦い続けても、傷を増やすだけだ。
いま無理に絡み合うより、一度退いて、相手の正体と目的を確かめてから、改めて動いたほうがいい。彼女は素早く周囲の地形を見渡し、即座に方針を固めた。桜落港へ逃げる。あそこなら人が多く、群衆を利用して撒ける。港の長たちに助けを求めることもできる。
腹を決めた江奈は、ためらわず、勢いよく身を翻した。足元に魔力を走らせ、一気に桜落港へと駆け出す。
走りながらも、何度も背後を振り返り、落緋剣を振るって小型の雷の剣気を放ち、追う時燼の足を止めさせようとした。
彼女の瞳には、逃走の緊張と、それ以上に、守る者の決意が宿っていた。
落緋剣を、正体不明の男の手に渡すわけにはいかない。
時燼は、剣気を放ちながら逃げていく背中を見送り、仕方なく首を振った。追わずに、その場に立ったまま、彼女の姿が桜の林の奥へ消えるのを見届ける。
「この小娘、なかなか機転が利く」
彼は胸元のネックレスに目を落とした。飾り石は、静かに沈んでいる。それからポケットの玉佩へ手を伸ばし、指先で桜の紋様をなぞった。冷たい玉の表面に、江奈の体温が、ほんのわずかに残っている気がした。
「こうなったら、次に落ち着いて話すのは、難しそうだな」
ため息でも、後悔でもない。誤解に対する、やるせなさを帯びた呟きだった。桜落港の方へ目を上げると、灯りが、すでに彼女の姿を呑み込んでいた。
「いま追いかけても、江奈を、もっと怯えさせるだけだろう」
時燼は視線を戻し、背後の桜の林へと歩き出した。黒い影が、桃色の花吹雪の中に現れては消え、やがて夜の闇に溶けていく。
崖の端に残るのは、消えかけた雷の気配と、風に擦れる満開の桜だけだった。
「お兄様!」
千葉江奈は、よろける足で神殿へと駆け込んだ。乱れた髪が頬に張り付き、毛先からは海水の雫が落ちる。裾には崖の草屑がつき、手にした落緋剣は、まだ低く唸り、雷の気配を刃の上に残していた。
千葉江嶼は、砂の模型の前に立っていた。
「祭りの間は、港の警備を強化しろ。何があっても、事を起こすな——」
妹の声に振り返ると、彼は一瞬で、剣の異変と、妹の瞳の奥に潜む動揺を見抜いた。
「どうした?」
江嶼は速足で歩み寄り、半ば膝をついた江奈を支えた。声は落ち着いていた。
「剣が共鳴している。何者に遭った?」
江奈は彼の袖を強く掴み、混乱した目で、震える声を搾り出した。
「崖に、黒い短髪の男がいたの。玉佩を返すって言って……でも、近づいたら、どうしても心がざわついて……」
「落緋剣まで、おかしな反応をして、私に警告してるみたいで。私、怖くて、それ以上は何も聞けなくて……勝てないと思って、逃げ帰ってきたの!」
江嶼は黙って聞き終えると、落緋剣の刃に指を滑らせ、残る雷の気配に触れた。眉根が、きゅっと寄る。だが、すぐに怒り出すことはしなかった。
彼は議事庁の隠し棚へ歩み寄り、桜模様の石レンガを押した。小さな青銅の鳥笛が、ぱちんと飛び出す。
江嶼は笛を手に取り、唇に当てて、ごく短く吹いた。音はほとんど聞こえないほど低い。しかし、それは瞬く間に神殿を抜け、島中の隠密たちへと届いていく。
「焦るな」
「もう影鴉には伝えた。あの男を密かに追跡し、入島記録をすべて洗い直させる。偽造された身分であっても、必ず暴き出す」
彼は砂の模型の前へ戻ると、江奈が崖から神殿まで逃げ帰った道筋を指でなぞり、崖の周囲の分岐路を、次々と指し示した。
「男がお前を追ってこなかった。それは興味深いな。本当に玉佩を返すつもりで、お前の警戒に押しとどまったのか」
「それとも、わざとお前を逃がして、神殿の動きを探ろうとしたのか」
江嶼の指は、模型の桜の林の上で止まった。その目が、鋭く細められる。
「崖の周囲、すべての出口に影鴉の監視を置いた。あの男が再び姿を見せれば、すぐに報せが来る」
「現場の検分は、まだ危険だ。相手が本物の手練れなら、罠を残して我々を待っているかもしれん」
彼は江奈へ向き直り、声を和らげた。
「お前はここで休んで、温かい茶でも飲め。影鴉から報せが入り、男の足取りに異常がないと分かれば、俺が自ら波波剣を持って崖へ向かう。残された痕跡は、その時に洗う」
その頃、崖の桜の林の中、時燼は古い桜の枝に身を預け、ネックレスの波紋を感じながら、桜落港の方角を眺めていた。
「この小さな浮桜島に、神器が二振りも眠っているとは」
「なかなか、手の込んだ厄介事を用意してくれたものだ」




