秘密
「老翁、この飯屋、思ってたのと、ずいぶん違うな」
時燼は、やけに質素な飯屋を見渡して、からかうように言った。
「趣が分からんか。これはな、質素というのだ」胤大は、両手をひらひらと振った。「年を取れば、分かるようになる」
飯屋には、磨き抜かれた木の長卓が一つと、見るからに平凡な椅子が、いくつか並んでいるだけ。卓の上の蝋燭の火が、ゆらゆらと揺れていた。
胤大は上座に座り、給仕に料理を運ばせる。料理が、一品、また一品と卓へと並べられていく。時燼は、江奈の隣に腰を下ろした。
表面が黄金色に香ばしく焼けた焼き魚、透き通った漬け梅……時燼は、思わず鼻をすん、と鳴らした。
「いい匂いだ。道中で食ってた、乾いた堅焼きパンより、ずっといい」
胤大は、さっそく清酒の栓を抜き、時燼の杯へ、なみなみと注いだ。酒液が杯の中で、細かな光を揺らし、彼の目に浮かぶ感心の色を映し出す。
「その若さで、その腕。連邦本部へ行けば、精鋭訓練所にも入れるかもしれんぞ。若い連中が、血眼になって入りたがる場所だ」
時燼は杯を手に、目の高さまで掲げた。
「老翁、買いかぶりだ。あれは、運よく耐えられただけです。それに、俺は、昔から自由に生きてきた。訓練所の規律は、性に合わない」
江奈が、横から、一番やわらかく焼けた魚の身を、時燼の器へと取り分けた。好奇心いっぱいの声で尋ねる。
「じゃあ、時燼は、これまで、どんな場所へ行ったの?何か、面白いことは、あった?」
時燼は、顎に手を当て、少し考えてから答えた。
「場所なら、まあ、いろいろ行った。砂漠の移動都市、雲の上に浮かぶ天空城……」
「面白いことか……一度、雨林の中で、光る蝶の群れに、半晩追いかけ回された。最後は、木の洞に隠れて、やっと逃げ切った」
彼は、軽い調子で言った。だが、江奈は、目をきらきらさせて聞いている。
胤大は、笑って首を振り、ときどき、ぽんぽんと卓を叩いた。
「小僧、ずいぶん、あちこち行っとるんだな。そうだ、時燼、島に長居する気があるなら、剣術でも、何手か学んでみんか?」
「基礎は悪くない。剣術が加われば、一段、強くなれるぞ」
時燼が、まだ旅の予定があると口を開こうとした、その時。胤大は、彼の肩を、ぽんと叩き、有無を言わせない熱意で続けた。
「旅は、いつでも行ける!島は、ちょうど祭りの時期で、たいそう賑わっとる。外から来たお前には、初めてのもんだろう。何日か、ゆっくり遊んでからでも、遅くはない」
江奈も、目を輝かせて、相づちを打つ。
「そうそう!美味しい屋台が、たくさん出てるの。時燼、ぜひ、残って見て!」
時燼は、叔父と江奈の、期待に満ちた目を、まじまじと見た。心の中で、ぱちぱちと、そろばんを弾く。
それから、わざと、仕方なさそうに笑い、両手を広げて見せた。
「分かった分かった。じゃあ、もう何日か延ばして、うまいものでも食って、祭りを眺めていこう」
胤大は、ますます嬉しそうに笑い、江嶼も、わずかに頷いた。時燼が島に残ることに、もう、あからさまな拒否は見せない。
胤大は清酒の杯を手に、時燼と、こつんと杯を合わせた。澄んだ音が、小さく響く。
「さあ、時燼が残ることを、そして、もうすぐの祭りを祝して、乾杯!」
時燼も、笑って杯を上げ、ひと口、ぐっと飲んだ。清酒の香りが、口いっぱいに広がり、じんわりと温かい。
江奈は、食べながら、去年の話を、時燼に聞かせ始めた。
「去年の桜祭り、江嶼お兄様と、川へ灯籠を流しに行ったの。そしたら、私、うっかり灯籠をひっくり返しちゃって、中の蝋燭で、そばの蓮の葉に、小さな穴を開けちゃって」
「慌てて手で消そうとしたら、真っ黒になっちゃって。江嶼お兄様が、きれいな水を探して、洗ってくれたの」
彼女は、身振り手振りで話しながら、恥ずかしい失敗を語るうち、頬が、うっすら赤くなる。
江嶼は、隣で聞きながら、仕方なさそうに眉を寄せた。だが、反論はしない。紙ナプキンを、江奈へ差し出す。
「焼き魚を食いながら、しゃべるな。小骨に気をつけろ」
江奈は、ぺろりと舌を出し、素直に紙ナプキンを受け取って、骨を取り始める。だが、二秒も経たないうちに、また、時燼へ話しかけた。
「そうだ、ここのところの糖油菓子、すっごく美味しいの。外はかりっとしてて、中はもちもち。ごまがまぶしてあって、一口食べたら、心まで甘くなるんだから!」
胤大は、兄妹のやりとりを、目を細めて眺めていたが、やがて、時燼の方を向いた。
「この二人は、小さい頃から、ああだ。江奈が騒いで、江嶼が、いちいち面倒を見る。数日したら、屋台街へ連れて行ってやる。食いたいものは、なんでも買ってやれ。わしの奢りだ!」
夕餉が終わると、胤大は、手を拭き、笑いながら提案した。
「今夜は月がええ。山の見晴台へ行かんか。島の夜景を、眺めるのに、ちょうどいい」
江奈は、ぱっと目を輝かせ、すぐに立ち上がった。
「いいですね!夜の見晴台、久しぶりです」
江嶼も立ち上がり、戸口の紙提灯を、さりげなく手に取る。
「道が暗い。提灯の明かりで行こう」
何人かで、石畳の道を、山へと上っていく。月の光が、木の葉の間から、さらさらと落ちてくる。江奈は、真ん中を歩き、ときどき立ち止まっては、空の星を指さし、胤大に話しかけた。声は、小さく、はずんでいた。
江嶼は提灯を掲げ、足元を、注意深く照らしている。
時燼は、一番後ろを歩き、前を行く三人の姿を、しばし眺めた。その胸の内が、ふと、動く。
胤大が、ときおり振り返って「山は風が冷える。冷えるぞ」と声をかけてくる。心の底に、ずいぶん久しぶりの、温かいものが、そっと湧いた。
見晴台に着いた時、島は、すっかり夜に沈んでいた。遠くの波が、かすかな光を帯びて、揺れている。
江奈は、欄干に身を預け、小さく呟いた。
「ここに来るたび、島が、すごく静かだなって思うんです」
江嶼は、彼女の隣に立ち、自分の上着を脱いで、その肩にかけた。何も言わない。ただ、その目が、とびきり優しかった。
胤大は、時燼の肩を、とんと叩き、少し離れた場所へと誘った。その声が、ゆっくりと、低くなっていく。
「時燼、あの二人は、いまは、ああやって、穏やかに見えるじゃろう。じゃが、両親が生きとった頃、あの家は、大きな家じゃった。それなりに、妬みも、ようけ受けた」
「十年前、江嶼の両親は、家の商いを、遠海へ広げようとしとった。家をもっと、盤石にしたいと、な。じゃが、誰が思ったか、船を出したきり、二度と、戻らんかった……」
そう言うと、彼の目は、遠い海面へと泳いだ。指が、無意識に、袖口を、さわさわと撫でている。
時燼は、その小さな仕草を見て、胸の内に、もやもやと、疑いが湧いた。
「遅い。時燼、お前も、もう休め」胤大は、そう言い置くと、「わしらは、先に戻る」
深夜、家の者すべてが、深く寝静まった頃、時燼は、こっそりと、胤大の書斎へと忍び込んだ。
高い位の警戒魔法陣が張られていたが、時燼には、準備があった。指先に、柔らかな魔力を、糸のように凝らし、細い針で、陣の目を、そっと突く。陣の光が、ふらりと揺れ、次の瞬間には、沈黙した。
時燼は、書棚を、ざっと探った。やがて、書棚の、いちばん下の段で、波の紋様の彫り込まれた、古い銅の箱を見つける。箱には、簡単な封印魔法が、刻まれていた。
紋様へ魔力を流し込むと、銅箱は「かちり」と音を立て、開いた。中には、黄ばんだ航海日誌が、一冊、横たわっている。
最初の頁を開く。
兄嫁夫妻は、遠海へ行くと聞かない。もし、あれが成功すれば、わしに家督の目は、永遠に回ってこない。明日、あれに、違う航路を教えよう。嵐の季節。これで、永久に、片が付く。
時燼の指が、きつく、握り締められた。胸の底が、すうっと冷える。昼間、胤大が、笑いながら、干した果物を差し出してきた時のことを思い出す。「時燼、初めて島に来たんじゃろう。名産を、ようけ食べてみい」
その裏に、こんな企みが隠されていたのか。不意に、自分に刻まれた呪いのことを思った。どちらも、穏やかな仮面の下に、凍るような冷たさを隠している。
突然、背後で、声がした。
時燼は、弾かれたように振り返った。戸口に、江嶼が立っている。手に、光る月光石を、握りしめていた。書斎の防衛陣を、ずっと、見張っていたのだろう。
月光石の光が、江嶼の顔を照らしている。その表情は、恐ろしいほど静かで、ただ、眉間の薄い傷痕だけが、光と影の間で、ちらちらと揺れていた。
時燼が、逃げようとした、その時。江嶼は、小さく、首を振った。語り出した声には、少年の頃の迷いが、そのまま残っている。
「俺は、十五の時に知った。あの日、叔父が酔い潰れて、俺は探知魔法で、この箱を見つけた。日誌を見た時、頭が、真っ白になった」
「日誌を持って、叔父に、問い詰めに行こうとした。だが、台所の入り口まで行った時、叔父が、前掛けをして、炉の前にしゃがみ、江奈のために生姜湯を煮とる姿が、目に入った。鍋をかき混ぜながら、『江奈は、このところ咳が多い。よう濃く煮てやらんと。砂糖は、控えめにな』と、そう、呟いとった」
江嶼は、書斎の中へと、足を踏み入れた。月光石の光が、日誌の文字と、彼の、かすかに震える指先を照らす。
「あの時、分かったんだ。叔父は、ただの悪人じゃない。家督を望んだのは、『兄嫁夫妻は、気が弱くて、商いで損をする』と、いつも言っていた。自分なら、もっと、この家を守れると、本気で、そう思っていたんだろう」
「俺たちに向ける優しさも、本物だ。江奈の晴れ着も、俺の教科書も、みんな、叔父が、夜遅くまで働いて、金を作って、買ってくれた。……憎めない。だが、許せもしない。俺は、日誌を元に戻して、何も知らんふりを、続けるしかなかった」
最後に、彼は、眉間の傷を、かるく揉んだ。
「この傷は、十五の時、日誌を握りしめて、叔父の部屋の前で、散々迷って、戸の枠に、頭をぶつけた跡だ。今でも、あの時の、どうにもならなさを、思い出させる」
時燼は、その話を聞きながら、目の前に、遠い昔の景色が、ふわりと浮かぶのを感じていた。
あの、ずっと自分を待っていた、人魚の少女。五百年の、孤独な時間。あれは、たった一つの約束を、守るためだった。もう一度、会うという、約束を。
江嶼は、時燼の様子には、気づいていないようだった。卓の上の月光石を手に取り、戸口へと向き直る。
「今夜のことは、江奈に言わないでくれ。あいつは、もう少し、穏やかな日々を、生きる資格がある」
月光石の光が、彼の影を、長く、長く、伸ばしていく。あまりにも強く張り詰めた、一本の弦のように、いつ、ぷつりと切れても、おかしくない影だった。
江嶼が去った後、時燼は、黙って、航海日誌を銅箱へ戻し、銅箱を、書棚のいちばん下へと、押し込んだ。何もなかったように、元通りにする。
彼は、日誌から、ひらりと落ちた一枚の桜の栞を、そっと握りしめた。そして、部屋を出ると、当てもなく、海辺の崖へと歩いていった。
夜の海風は、潮の匂いと冷たさを運び、衣の裾を、ばたばたと鳴らす。
時燼は、崖の岩に背を預けた。岩に張り付いた貝殻が、風に揺れて、かりかりと、かすかな音を立てる。それは、昼間、江奈が見せた笑い方に、どこか、似ていた。
彼は、書斎での会話を、考えないようにした。ただ、海を、じっと眺め、風が髪を乱すままにした。
千年以上の時を生き、このような夜を、幾度も、幾度も、越えてきた。違う大陸で、違う海辺で。それでも、今のような胸の痛みを覚えた夜は、一度もなかった。
江嶼の、やりきれなさ。江奈の、笑顔。叔父の、穏やかな顔の下に隠した、冷たい企み。そして、とっくに決まっている、己の計画。それが、胸の奥で、ぐちゃぐちゃに絡み合って、解けない。
海風は、ますます冷たくなっていく。時燼は、桜の栞を、そっと懐へとしまった。海面に、かすかな光が、ひとつ、瞬いて、すぐに消えた。
明日、彼は、動く。
だが、今だけは、この崖の上で、もう少し、風に当たっていたい。遠い海の果てが、うっすらと白み始めるまで。
あの光は、闇を裂き、やがて、彼を追い詰めるだろう。
最後の決断を、迫るために。




