独白
時燼は、礁石に背を預け、指先で、掌の桜の栞を、何度も、何度も、さすっていた。ただ、ぼんやりと、そこに立っている。不意に、背後から、細かな足音が、夜の静けさを裂いた。
振り返ると、江奈が、一つの紙提灯を手に、道の入り口へと立っていた。暖かな黄色の光が、彼女の影を、ゆらゆらと、やわらかく揺らしている。
彼女は、まさか彼に会うとは思っていなかったらしく、少しのあいだ呆けた後、淡い笑みを浮かべ、細い声で言った。
「夜、散歩に出てたの。そしたら、こっちで物音がしたから……まさか、あなただったなんて」
彼女は提灯を掲げ、時燼の傍らへと歩み寄ってきた。布の袋から、油紙に包んだ桜飴を取り出し、差し出す。
「夜の海風は冷たいから。飴、いかが?」
「ああ」
時燼は手を伸ばして受け取った。指先が、ふと、彼女の手に触れる。その、かすかな温もりが、夜の寒さとは、まるで別の世界のものだった。
油紙を開くと、甘い香りが、ふわりと広がる。ひと粒、口に含んだ。清やかな甘さが、舌の上で、そっと溶けていく。
江奈は、彼の隣に腰を下ろし、紙提灯を、二人のあいだへと置いた。黒々とした海へと目を向け、小さな声で語る。
「私、小さい頃、よくここに来てたの。たまに流れ星が見えるのよ。そのたびに願うの。島の人が、みんな、平穏でありますように、って」
彼女は、ふと横を向いて、時燼を見た。
「あなたは?どうして、ここに?」
時燼は、彼女の目を見つめた。喉まで出かけた言葉が、そのまま、張り付いて動かない。知っていることの、すべてが、喉の奥で、つかえて出ていかない。
彼女の、屈託のない笑みを前に、彼は、結局、ただ、小さく首を振った。
「いや。風に、当たりに来ただけだ」
江奈は、それ以上は聞かなかった。笑って頷き、また、海へと目を向ける。
しばらくの沈黙のあと、彼女が、不意に、ぽつりと言った。
「来年の桜、きっと、もっと綺麗に咲くんでしょうね。江嶼お兄様が、花を摘んで、桜のジャムを作ろうって、言ってくれてるの」
風が、その言葉を、耳の奥へと運ぶ。時燼が栞を握る手に、ぎゅっと力がこもった。
桜が咲き、散る。それに、自分は、とっくに慣れている。来年の花など、長い時の中で、ほんの一瞬に過ぎない。
それでも、時燼は、明日、この小さな期待を、自分の手で、摘み取ることになるのかもしれない。
紙提灯の光が、二人を包む。時燼の胸の中の乱れを、今だけは、そっと、隠してくれているようだった。
だが、分かっている。提灯の火が消え、明日の朝日が昇れば、逃れられない宿命と、向き合わなければならない。
時燼は、江奈の澄んだ目を見つめた。口を開きかけて、また、閉じた。
それから、彼は、胸元のネックレスへと、目を落とした。
ネックレスは、死んだ物のように、静かだった。
時燼は、それを、そっと掌に握りしめた。それから、もう一度、顔を上げて、静かに問いかけた。
「もし、人生が、あと一日だけだとしたら、お前は、どう生きる?」
江奈は、しばらく俯いて考えた。それから、顔を上げる。その目には、やわらかな憧れが、静かに宿っていた。
「朝、早く起きて、海辺の日の出を見ます。それから、なじみの道を、ゆっくり歩いて、おばあちゃんと、ひなたぼっこをして……」
声が、少しだけ止まった。彼女は、時燼を見て、声を、また、軽くした。
「おばあちゃんから聞いたんです。桜の剣は、重荷なんかじゃない。受け継いでいく、守りの力だって……」
彼女は、ふっと笑い、提灯を足元へ置いて、星を見上げた。
「だから、もし最後の日があったら、私は、やりたいことを、ぜんぶ終わらせて、それで、悔いなく終わりたい」
時燼も、星空を見上げた。海風が、二人の衣の端を、ふわりと持ち上げる。天地のあいだに、沈黙だけが満ちて、浮桜島の夜に、ひたひたと浸していく。
時燼は、礁石に手をついて、立ち上がった。喉の奥が、かすかに詰まる。けれど、口にできたのは、ただの、柔らかな気づかいだけだった。
「もう遅い。戻れ。夜は風が強い。お前も、早く帰るんだな」
江奈は頷き、提灯の紙の端を、指先で、そっと整えた。淡く笑う。
「あなたもね。道、気をつけて」
時燼は、低く、ああ、と応えた。背を向ける、その一歩が、ほんの少し、止まった。振り返ろうとして、できなかった。
大きな風が、一気に吹き抜ける。江奈は、思わず目を閉じた。もう一度、目を開けた時、時燼の姿は、遠い墨色の闇の中へと消えていた。
時燼は、黙って、通りの向こうの宿へと、歩き戻った。
扉を押すと、木の軸が、ぎい、と軋んだ。沈んでいた部屋の空気が、かすかに震える。
彼は、手を返して扉を閉め、浮桜島の、すべてを、外へと締め出した。
手にした栞を、卓の隅へ、そっと置く。それから、壁の刀掛けへと、目を向けた。
閻魔刀が、静かに、そこへ掛かっている。彼が千年、隠し続けてきた、刃。
時燼は歩み寄り、閻魔刀を手に取った。きれいな柔らかい布を見つけ、水を染み込ませ、刀身を、丁寧に拭っていく。
彼は、ひどく、丁寧だった。鍔の隙間の、かすかな埃まで、指先で拭い取る。千年のあいだに染みついた風霜を、まとわりついた殺気を、少しずつ、拭い落とすように。
すべてを終えて、しばらく、そのまま、静かに立っていた。やがて、脇へ垂らした手を、ゆっくりと持ち上げる。掌に、彩を帯びた魔力が、ほのりと凝っていく。
低い唸りが、虚空の奥から、震えて広がった。黒い気が、墨の波のように沸き立ち、冷たい光をまとって、界を破り出る。がしゃん、と重い音。
枯石大刀が、床へと、深く突き立った。刀身は、荒々しく、濃い褐色の石紋をまとい、柄に巻かれた粗い布は、擦り切れて、古びている。だが、そこには、何よりもなじみのある、手の感触があった。
時燼は、片手で、その柄を握った。少し、力を込めると、すっと持ち上がる。沈むような重さが、掌から腕を伝い、胸の奥へと、落ちていく。千年の漂泊の、いちばん確かな、連れだった。
彼は、この刀を、じっと見下ろした。目の底に、かすかな、迷いの霧が浮かぶ。浮桜島の温もりと、明日の選択。何かが混ざり合い、やがて、それは、かすかなため息になった。
「結局、最後まで、傍にいてくれるのは、お前だけだな」
桜の花びらの影が、枯石大刀の石紋の上に、ひらりと落ちた。冷たく粗い表面に、かすかな、やわらかさが混ざる。
彼は、柄を握りしめ、薄暗い灯りの中に立っている。背後には、元の場所へ戻した閻魔刀。それは、使命であり、刃であり、歳月に隠した、冷たい切っ先。
目の前には、千年を共にした枯石大刀。それは、漂泊であり、帰り道であり、骨の髄まで刻まれた、連れ。いつまでも、色褪せない、己の芯。
思い出せない過去。時の中で、散っていった人と、出来事。掴みきれなかった温もりと、歓び。それらはみな、ぼやけた影になった。
ただ、この枯石大刀だけは、山が海に変わり、王朝が興り、滅び、血の風が吹き荒れ、終わりのない漂泊が続こうとも。
記憶の定かでない、あの始まりから、今の、この浮桜島まで。ずっと、共にあった。一度も、欠けたことがない。
海風が、窓を、ごう、ごうと叩いている。まるで、彼のため息に、応えるように。
「五千三百余年。殺戮は、いつ、終わるんだろうな」
「倒れていく者たちを見るたび、俺は、自分に問う。この道で、本当に、よかったのか、と」
「……だが、会いたいんだ。本当に、会いたい。どうか、彼女を、忘れさせないでくれ……」
「死ぬことのない呪い。親しい者たちが、代々、消えていくのを、見届けること。それが、俺が背負わされた、罰なんだろう」
——
崖のほとり、夜風が、潮の匂いを運んでくる。江奈は、紙提灯を手に、まだ、礁石のそばへと立ち尽くしていた。
時燼の、あの、かすかな笑み。突然の、問い。そして、夜風に消えた、背中。
それが、頭の中で、何度も、何度も、巻き返っていく。バラバラだった破片が、少しずつ、ひとつの、冷たい答えを形づくっていく。
彼女は、ようやく、分かった。
時燼は、浮桜島の、影に潜む者なのかもしれない。
優しく近づき、夜を共にし、そっと問いかけた。あれは、すべて、仕組まれた、布石だったのだ。
その考えが、浮かんだ瞬間、江奈の指から、提灯の柄が、するりと抜けかけた。呼吸が、半拍、止まる。
だが、次の瞬間、頭に浮かぶのは、飴を受け取った時の、あの、おだやかな手つき。来年の桜の話を聞いていた時の、静かな横顔。海を見つめる、あの、散らない、まなざし。
「あの人は、やさしい人だった。一緒に風に当たって、私の、たわいない話を、聞いてくれた。なのに……」
矛盾が、胸を締めつけて、息が、うまくできない。
心の底では、信じたい。彼の目にあった、あの温もりを。だが、それでも、この温もりは、骨の髄に刻まれた使命には、勝てない。
兄と、桜の木の下で交わした約束に、勝てない。肩を並べ、この身のすべてを懸けて、浮桜島を守る。一語一語、固く結んだ、約束。
双剣は、浮桜島の根。幾千、幾万の者の、生きる道。これしきの、出会いの温もりごときで、神器を、誰かに渡すわけにはいかない。
でも、もし、本当に、刃を交えることになったら、自分は、どうすればいいのだろう。
江奈の胸の底から、隠しようのない、怖れが、込み上げる。
戦わなければいけない。相手が、時燼だとしても。兄妹二人、力を合わせても、敵うかどうかも、分からない。
それでも、一振りでも剣を交えれば、この数日の、あたたかな時間は、粉々に砕ける。それでも、柄を握るしかない。兄との約束を守るしかない。
風が、いっそう、激しくなった。提灯の火が、ゆら、ゆらと揺れ、彼女の目の中の動揺と、意地とを、照らし出す。
夜の浮桜島は、海風が礁石を鳴らす音だけが、かすかに響いている。だが、彼女の心の中は、とっくに、嵐の前の、乱れた空だった。
——
空が明けた。それでも、朝霧は、深く垂れ込めて、晴れない。
宿の木戸が、ぎい、と小さく鳴り、時燼が、外へと出てきた。房代は、静かに、帳場へと置く。
肩に斜めに掛けた閻魔刀。その足は、まっすぐに、神殿の方へと向かっていく。落緋剣と波波剣の、眠る場所。江嶼と江奈が、半生をかけて守ってきた、根。
その姿が、路地の角へと消えると、物陰に潜んでいた影鴉が、いっせいに翼を広げた。神殿へと、矢のように、飛んでいく。
神殿の中、江嶼は、行きつ戻りつ、歩いていた。その目には、一晩中、消えなかった焦りが、まだ、くすぶっている。
影鴉の報せが届いた。その瞬間、彼の張り詰めていた神経が、ふっと緩む。胸に、一晩中、のしかかっていた石が、どさりと落ちた。
もしかしたら、ただの、別れの挨拶か。それなら、昨夜の、あの崖辺の温もりは、本当のものだったのかもしれない。
だが、その安堵は、ほんの、ひと呼吸だけだった。背後から、鎧が、冷たく、鋭く、打ち合わさる音が響いた。
江嶼は、弾かれたように、振り返る。
江奈が、立っていた。銀白色の軽鎧を身にまとい、落緋剣を、掌に強く握りしめている。全身から、霜のような戦意が、静かに立ち昇っていた。
見送りに来た顔では、ない。それは、まさしく、敵を迎え撃つ、戦士の構えだった。
江嶼の胸に残っていた、最後の、わずかな望みが、江奈の目に浮かぶ決意を見た瞬間、音を立てて砕けた。
彼は、一瞬で、理解した。時燼は、別れに来たのではない。この、二振りの神器を、奪いに来たのだ。
だが、大きな疑問が、噴き上がる。
「たとえ、俺と江奈を殺したところで、何になる?たとえ持ち主が死んでも、力は、すぐに、次の守り手へと受け継がれる。こんな奪い方に、いったい、何の意味がある!」
そう、考え込む時間も、なかった。江奈の、揺るぎない眼差し。剣を握る、磐石のような手。
江嶼は、傍らの鎧を引き寄せ、手早く身に着けた。甲冑のぶつかる音が、静かな神殿の前に、鋭く響く。
「時燼、神殿へ、一歩でも足を踏み入れれば、殺せ!」
彼は、誰よりも分かっていた。この命令が、無駄かもしれないことを。あの男を、止められないかもしれないことを。
それでも、彼の目にあった迷いと、ためらいは、もう、きれいに消えていた。
江奈と、肩を並べて立つ。二振りの神器の冷たい光が、朝霧の中で、重なり合う。彼の胸に、あるのは、ただひとつ。
この戦い、勝たなければならない。
江奈が、落緋剣を握る手を、かすかに震わせ、隣の兄を見上げた。声は、抑えきれない不安で、ふるえていた。
「お兄様……私たち、勝てるの?」
江嶼は、目を伏せ、江奈の瞳に揺れる、不安の色を、まっすぐに受け止めた。喉の奥に、やるせなさが込み上げる。
それでも、彼は、手を、重く、妹の肩へと置いた。自分の、揺るがないと信じた心を、その手のひらから、注ぎ込むように。
「ああ。忘れるな、お前の兄は……」
「最強なんだ」
声が終わる。彼の目から、迷いが、消えた。
たとえ、この先に、万丈の淵が口を開けていようと。勝敗が、まるで、見えていなかろうと。
自分は、江奈の前に、浮桜島の前に、立ち続ける。
この、最後の、防衛線を。
戦い抜く




