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世界の隅で私を見つけたか

 神殿へ続く最後の道は、人が一人、ようやく通れるだけの、天然の隘路だった。

 時燼が、その道へ踏み込もうとした、その時。周囲の木々の影が、ざわりと揺れた。数十の影鴉が、一斉に姿を現し、刃を手に、壁となって道を塞ぐ。

「本日、神殿への立ち入りは、禁じられております。お引き取りを!」

 時燼は、ゆっくりと足を止めた。肩から閻魔刀を下ろし、巻かれたぼろ布を、指で剥ぎ取る。冷たい刀身が、朝霧の中で、白く光った。

 彼は、手首に力を込め、刀を、青石の上へ、どすりと突き立てた。鞘が石に当たり、鈍い音が響く。

 それから、影鴉たちを見上げた。その目は、冷たい玉のように、静かに凝っている。

「無関係の者まで、無闇に殺すつもりはない。お前たちは、退いていい」

 声が落ちると、鴉の群れが、一瞬、ざわめいた。

 数人が、刃を握る手を、わずかに緩め、足を、半歩、後ろへ引く。だが、残りの大半は、ぴくりとも動かず、一斉に、切っ先を時燼へと向け直した。

 刃と刃が触れ合う、冷たい音が、連なっていく。それは、死を覚悟した、不退転の構えだった。

 時燼は、小さく首を振り、刀を抜いた。魔力は、一滴も乗せない。純粋な腕の力だけで、重い刃を、勢いよく振り下ろす。

 青石の隘口、その石壁が、轟音とともに砕けた。飛び散る石片。衝撃の余波が、左右を薙ぎ払い、数人の影鴉が、弾き飛ばされる。だが、命を奪いはしない。

 影鴉たちは、顔を見合わせた。その目に、ありありと、驚きが浮かんでいる。握った刃から、知らず、力が抜けていく。先ほどまでの死戦の覚悟が、「強く、なお、手心を残す」という、その力の前で、がらがらと崩れていった。

 時燼は、刃を収め、ただ、そこに立っていた。冷たく、重い声が、さらに、あたりを圧する。

「もう一度だけ、機会をやる」

 群れの中から、影鴉の首領が、一歩、前に出た。その声は、沈んで、鋭く、それでいて、死を、まっすぐに見据えていた。

「我ら影鴉は、江嶼様のために、死ぬと決めております。それは、骨の髄に刻まれた、使命にございます」

 彼は、時燼を見上げた。その目には、一片の迷いもない、敬意があった。

「時燼様、手加減を、ありがとうございます。ですが、どうか、我らに、せめて、苦しまぬ最期を」

 数十の黒い影が、再び、壁となる。誰一人、退かない。全員が、死戦を、心に決めている。

 時燼は、その言葉を聞き、静かに、言った。

「いいだろう」

 その一言が、落ちた瞬間、彼の姿は、朝霧の中から、ふっと消えた。影鴉たちが、反応するより早く、首筋に、鋭い痺れが走り、次々と、地面へと倒れ伏していく。

 時燼は、刀を鞘へと戻し、ゆっくりと口を開いた。

「閻魔刀。彼らの、この記憶を喰らえ。俺の存在を、忘れさせろ」

 剣の鳴き声が、空を裂いた。時燼の姿は、隘路の先に、再び現れる。彼は、地面に倒れた影鴉たちを、一瞥しただけで、そのまま、神殿の方へと歩みを進めた。

 心の奥で、かすかなため息が落ちる。

「昔の俺なら、お前たちは……」

 時燼は、神殿へと続く、朱い鳥居の神道を、ゆっくりと進んでいく。幾重もの朱い影を踏み越え、霧の果ての神殿へと、足を向けた。

 その先、神殿の門前。江嶼が、一人、白い石段の上に、静かに立っていた。

 彼は、身側の波波剣の柄に手を置き、まっすぐに時燼を見据えている。その声には、わずかな、沈んだ色があった。

「場所を変えよう。この神殿は、俺にとって、両親との、唯一の、思い出の場だ。争いで、壊したくない」

 時燼の心の底を、ふと、かすかな思いがよぎった。『……お互い、苦しい身の上だ』

 彼は、何も言わず、江嶼の後を追う。二人は、前後して、神殿の裏手の、開けた空き地へと歩いていく。朝霧が、衣の裾を濡らし、その先には、沈黙の対峙だけが待っていた。

 中央まで来て、江嶼は、振り返り、剣の柄を強く握り直した。その声には、どうしても飲み込めない、困惑が滲んでいる。

「なぜ、こんなことをする。つい先日まで、何もなかったじゃないか」

 その時だった。江奈が、不意に、姿を現した。怒りと、悲しみの混じった目で、時燼を、じっと見つめている。答えを、待っている。

 時燼は、目を、わずかに逸らした。彼女の視線から、逃げるように。

 江奈が、突然、叫んだ。

「どうして……っ!」

 声は、泣き出しそうに震え、悔しさと痛みが、溢れていた。

 その叫びは、朝霧に吸い込まれ、あとには、死んだような静寂だけが残る。

 時燼は、足元に散った桜の花びらへと、目を落とした。二人の、焼けつくような視線を、避け続ける。ただ、閻魔刀の鞘だけが、朝風の中で、冷たく光っていた。

「言い残すことは、もう、ない。早く、構えろ」

 時燼は、低く、そう言った。暗金色の魔力が、手のひらから、閻魔刀の柄へと、するりと絡みついていく。

 冷たい魔力が、刀身の寒光とともに弾け、周囲の桜の花びらが、宙に張り付いたように、止まった。

 重くのしかかる、殺気。それは、隠しようのない、研ぎ澄まされた、必殺の気配だった。

 江嶼は、魔力を、極限まで高めた。もう、退く場所はない。向かうしか、ない。

 江奈は、落緋剣の柄を、両手で握りしめた。手のひらに、汗が滲む。まつげを震わせながら、それでも、時燼の目を、正面から見返した。その瞳には、悔しさと、やむにやまれぬ決意が、渦巻いている。

 指先は、まだ震えている。それでも、彼女は、一か八かの、構えを取っていた。

 二人とも、戦意など、ほとんどなかった。だが、この、凍るような魔力に、逃げ道を、すべて塞がれていた。

 時燼は、必死に構える二人を見て、静かに言った。

「無駄だ」

 その声が終わると同時に、閻魔刀が、暗金色の風を巻き起こした。ただの、一振り。それだけで、暗金色の刀気が、空気を、真っ二つに裂いた。

 江奈は、視界の光が、ふっと翳るのを感じた。次の瞬間、落緋剣が、とてつもない力で、弾き飛ばされた。虎の口に、鋭い痛みが走る。

 彼女の体は、落ち葉のように、ふわりと宙を舞い、背中から、桜の木へと、激しく打ちつけられた。満開の花びらが、はらはらと、雪のように降り注ぐ。口元から、一筋の血が、こぼれた。

 江嶼の瞳が、大きく見開かれた。喉の奥から、押し殺した低い声が、漏れる。青い魔力が、全身を駆け巡り、波波剣の刃が、刺すような光を放った。

 彼は、本能のまま、時燼へと飛びかかった。剣の速さは、青い残像を残すだけ。一撃、また一撃、時燼の急所を、狙い抜く。

 時燼は、身をひるがえして、それを、かわした。

 江嶼の周囲で、青い魔力が、水のように流れ始める。波波剣を伝って、空気の中へと、波紋のように広がっていく。剣が通ったあと、その空間に、幾重もの、青い揺らぎが生まれた。

 彼は、時燼の周りを、高速で動き、剣を振るうたびに、荒れ狂う青い波が、押し寄せる。柔らかに見える、その剣の軌跡の奥に、鋭い牙が、隠されている。青い波は、地面に触れると、水の痕を残し、それが、すぐに、硬い氷へと変わった。

 時燼は、迫り来る青い波に、鋭く目を光らせた。片手を、ゆっくりと持ち上げ、掌から、濃い暗金色の魔力を、湧き出させる。

 次の瞬間、彼を中心に。

 暗金色の結界が、一気に広がり、江嶼を、呑み込んだ。領域の中、時間の流れが、ゆっくりと、澱んでいく。江嶼の青い波は、結界の壁にぶつかり、泥沼に沈むように、動きを止めた。波波剣の唸りも、くぐもり、剣身の青い光さえ、急速に、弱まっていく。

 江嶼の剣勢が、ぴたりと、止まった。瞳孔が、激しく縮む。

「第七階位魔法か……!?」

 自分の魔力が、この暗金色の結界の中で、半分ほども、奪われている。はっきりと、感じる。さっきまで、あれほど猛っていた青い波が、今は、時燼の三歩先にも、届かない。

 足の下から、氷のような戦慄が、這い上がってくる。この男は、この次元の魔法を、一人で、平然と展開している。

 時燼の瞳が、突然、鮮やかな金色に、輝いた。

「ここからは、容赦しない」

 江嶼は、奥歯を噛み締めた。額に、青い筋が浮く。全身の魔力を、一滴残らず、波波剣へと注ぎ込む。

「領域を展開できるのは、お前だけだと思うな。俺にだって、できる!」

 剣身が、爆発的な青い光を放った。青い水の波が、江嶼を中心に、一気に弾け、流れるような、青の領域を形作る。

 無数の水の刃が、領域の中を、縦横無尽に飛び交う。鋭い魔力を帯びたそれが、雨のように、時燼へと降り注いだ。

 時燼は、暗金色の結界の中心に立ち、両手で、閻魔刀を握った。振り下ろすたび、暗金色の奔流が、向かってくる水刃を、粉々に砕いていく。耳をつんざく轟音が、絶え間なく響いた。

 二つの領域が、ぶつかり、押し合い、その境界の空間が、大きく歪んでいく。空気が、じりじりと音を立て、地面に、細かな亀裂が走った。

 浮桜島の、島全体が、余波で、大きく揺れていた。

 江嶼の呼吸が、みるみる荒くなっていく。青い領域の光が、ちらちらと、点滅し始めた。領域の維持だけでも、彼の魔力を、根こそぎ削っていく。

 江嶼が、低く吠えた。青い領域の中の水刃が、一瞬で、巨大な水の剣へと凝縮され、天地を砕く勢いで、時燼へと振り下ろされる。

 時燼は、目を鋭くし、閻魔刀の暗金色の魔力を、一気に高めた。巨大な刀芒が、生まれ、水の剣へと、迎え撃つ。

 二つの力が、まさに、ぶつかろうとした、その時。一筋の、桃色の剣気が、横合いから、飛び込んできた。水の剣と、刀芒の、ほんのわずかな隙間を、正確に、貫いた。

「かきん」

 硬い音が響き、歪んでいた空間が、罅割れていく。暗金色の刀芒も、青の水剣も、同時に、砕け散り、無数の光の粒となって、消えていった。

 江奈が、力尽きたように、片膝をつく。落緋剣を、深く土へと突き立て、かろうじて、体を支えている。口から、また、血が、あふれた。

 時燼は、短く息を吐き、金色の光を、瞳の奥から、ゆっくりと消していった。膝をつく江奈を見る。閻魔刀を握る手に、ぎり、と力がこもる。彼は、江奈の方へと、一歩、踏み出した。

 江嶼は、地面に倒れ、波波剣を杖にして、ようやく、体を起こしている。

 時燼が、江奈へと近づいていく。それを見て、彼の喉から、かすれた叫びが、迸った。

「彼女に、触るな!」

 声には、隠しきれない、恐怖が、あった。

 江奈は、一歩、また一歩と、近づいてくる時燼を、見上げた。涙が、頬を、すうっと落ちていく。もう、その声に、期待はない。あるのは、限りない無力感と、悲しみだけだ。

「時燼、覚えてる……?」

「一日前、一緒に、古い桜の木へ行ったね。あなたは、ずっと昔、浮桜島に来たことがあるって、言ってた。その時、桃色の服を着てたって。私、その色は、派手だって、笑った」

「私、まだ、来年の桜が見たい。桜を集めて、桜餅も、作りたい……私に、まだ、機会は、ある?」

 時燼の足が、ぴたりと、止まった。閻魔刀を握る指が、思わず、緩む。答えは、なかった。

 江嶼が、波波剣にすがり、最後の力を、振り絞って、立ち上がった。膝が、「かくん」と、小さく鳴る。体が、揺れる。それでも、彼は、江奈の前に、しっかりと、立ち塞がった。

 口元から血が滲み、呼吸は、絶え絶えだ。それでも、波波剣を、まっすぐに構える。

 刃に残る青い光は、もう、か細い。だが、それは、決して退かない、最後の防衛線のように、揺れている。

 彼は、時燼を、死ぬような目で、睨みつけた。その声は、一か八かの、それでいて、一片の揺るぎもない、覚悟だった。

「彼女に、手を出したければ、まず、俺を通れ」

 時燼は、江嶼の前まで歩み寄り、閻魔刀を、勢いよく抜いた。風を裂く音。そのまま、波波剣へと、叩きつける。

「がきん!」

 波波剣が、はじき飛ばされた。「からん」と、石の上に落ちる。

 江嶼は、二歩、よろめいて、後退した。だが、すぐに、踏みとどまり、鋭い目で、時燼を睨んだ。素手になっても、妹の前から、退く気はない。

 だが、時燼は、彼に、次の瞬間を、与えなかった。目から、感情が、すっと消えた。閻魔刀を、前へと、突き出す。

 江嶼の瞳が、大きく、見開かれた。その中の、激しい光が、すっと、消え、空洞になる。

 体が、ゆらり、と揺れた。時燼を、掴もうと、手を伸ばす。だが、その腕は、上がりきる前に、力なく、落ちた。

 そのまま、江奈の目の前へと、崩れ落ちる。目は、見開かれたまま。最後の、最後まで、妹を、守ろうとしていた。

 時燼は、閻魔刀を抜き、手首を返して、かるく振った。数滴の血が、地面に落ち、散った桜の花びらが、それを、すぐに覆い隠す。

 江奈は、足元に倒れた兄を見た。頭の中が、真っ白になる。気がつくと、喉の奥から、かすれた叫び声が、溢れ出していた。

「お兄様……っ!」

 その声は、悲しみと絶望に引き裂かれ、浮桜島の静けさを、真っ二つに割った。

 江奈は、江嶼の体を抱き起こし、全身を震わせて、泣き崩れた。涙が、兄の、青ざめた顔に、ぽたぽたと落ちていく。

 突然、彼女は、勢いよく顔を上げた。その目に、燃え上がるような、深い憎しみが、宿る。時燼を、きつく、睨みつけ、かすれた声で、叫んだ。

「私が……あんたを、殺す!」

 言い終えると、彼女は、横に落ちた落緋剣へと、飛びついた。柄を掴み、全身の力を込めて、時燼へと、突きかかる。

 だが、時燼は、体を、ほんの少し、傾けただけだった。憎しみに燃える、その一撃を、やすやすと、かわす。

 そして、手首を返す。閻魔刀が、もう一度、まっすぐに、突き出され、江奈の胸を、貫いた。

 落緋剣が、江奈の手から、滑り落ち、地面に、音を立てて転がった。

 彼女の体は、力が抜け、時燼の腕の中へと、崩れ込む。白い衣が、みるみる、暗い赤に、染まっていく。

 視界が、ぼやけていく。それでも、彼女は、必死に、時燼を見上げていた。呼吸は、途切れ途切れ。一語、口にするたびに、最後の力が、抜けていく。

「らい……ねん……浮桜島の……さくら……わたしの、かわりに……ひとめ……みて……くれる……?」

「まだ……みたかった……」

 言葉は、最後まで、続かなかった。彼女の手が、はらりと、力なく、垂れた。その瞳から、光が、完全に、消えた。

 からだは、まるで、力を失った桜の花びらのように、ひどく、軽かった。

 時燼は、江奈の体を、抱いたまま、数秒、沈黙した。それから、少し離れた場所に横たわる、江嶼の体へと、目をやる。

 突然、強い風が、吹き荒れた。満開の桜が、無数に、巻き上げられ、二人の体の上に、時燼の、閻魔刀を握る手の上に、降り積もっていく。

 胸の奥で、何かが、きゅっと、小さく、鳴った。彼は、閻魔刀を、鞘へと戻した。

 持ち主を失った神器が、やがて、かたちを失っていくことを、彼は、知っていた。魔力を巡らせる。紅暗い光が、掌から溢れ、枯石大刀が、応えるように、その手の中へと現れた。

 時燼は、枯石大刀を握り、地面に、まだ消え残っている、落緋剣と波波剣へと、刃を向けた。

 次の瞬間、落緋剣は、桃色の魔力の欠片へ。波波剣は、青藍色の魔力の欠片へと変わり、何かに導かれるように、次々と、枯石大刀の刀身へと、吸い込まれていく。

 枯石大刀が、微かに震えた。時燼は、刀身の鼓動を、掌に感じる。魔力を収めると、枯石大刀は、無数の星の光となって、風の中へと、消えていった。

 彼は、しゃがみ込み、江奈の体を、そっと、江嶼の隣へと、横たえた。二人の体の上に、桜の花びらが、音もなく、降り積もっていく。まるで、やわらかな毛布のように。

 時燼は、二人を、じっと、見つめた。風は、まだ吹いている。桜も、まだ、散っている。あたりには、ただ、死んだような静けさだけが、あった。

 時燼は、背を向け、神殿を去ろうとした。だが、その足が、ほんの一瞬、止まる。

 手を上げ、胸元へと触れた。指先が、服に付いた桜の花びらに触れる。花びらは、もう、半ば乾いていて、かるく捻ると、ぱらりと砕けた。

 胸元のネックレスが、かすかに、脈打った。

「落緋剣と波波剣の欠片。ようやく、揃った」

「これで、二千人目の持ち主だ……」

 だが、この「収穫」の裏には、足元に横たわる江嶼と江奈、そして、もっと以前の、数えきれない名前たちが、いる。

 掌の、桜の花びらの砕片が、風に流されていくのを、彼は、黙って見ていた。心の奥で、そっと、ため息が漏れる。

 いったい、これで、何人の命を、この手で終わらせてきたのだろう。

 千年以上の時間。生き延びるために、彼の刃は、あまりにも多くの命を、奪いすぎた。多すぎて、もう、数えることも、できない。

 風に乗る桜の香りが、不意に、苦く感じられた。彼は、思いを断ち切り、神殿の門を、後にした。

 門を出た、その瞬間、紅暗い魔力が、掌から溢れ、肩を伝って、流れ落ちる。それは、一枚の、灰けた外套へと姿を変え、彼の体を、すっぽりと包み込んだ。

 外套の裾に、乾ききっていない桜の花びらが、数枚、張り付いている。歩くたび、それが、ゆらり、ゆらりと揺れた。わずかに残る血の匂いを隠し、彼を、どこにでもいる、流浪の旅人に見せた。

 浮桜島を去る時、誰の目にも、止まらないように。

 時燼は、外套をまとい、一歩、一歩、浮桜島の港へと歩いていく。

 正午の陽が、海面に、きらきらと降り注いでいた。数隻の漁船が、ゆっくりと、網を引き上げている。

 彼は、連邦旗を掲げた、遠洋用の快速艇を見つけ、一枚の連邦紙幣を、水夫へと差し出した。

 水夫は、陽の光に、彼の灰けた外套と、紙幣の連邦紋章を、ちらりと見た。何も聞かず、エンジンをかけた。

 快速艇が、波を切って、走り出す。後ろの浮桜島は、みるみる、ぼんやりとした、桃色の光点へと縮んでいき、やがて、海と空の、その境界線に、すうっと呑み込まれていった。

 時燼は、舷に寄りかかり、外套のポケットから、桜の紙に包まれた、一粒の飴を取り出した。

 それは、一昨日の夜、江奈が、そっと、握らせてくれたもの。

「浮桜島にしかない、桜飴なんです」

 彼は、包みを開け、飴を、そっと口へと入れた。甘やかな味が、舌の上で、ゆっくりと溶けていく。潮風の、塩辛い匂いと混ざり合って、それは、妙に、酸っぱかった。

 時燼は、どこまでも青い海を、じっと見つめた。飴をくれた時の、江奈の、あの、目を細めた笑い方。そして、倒れる前の、あの囁き。

「私の代わりに、浮桜島の桜を、もう一度、見て」

 心の底で、また、ため息が落ちる。こんな託し言葉を、いったい、これまで、何度、聞いてきたのだろう。

 放浪の旅の途上で、あまりにも多くの人が、彼に、後悔と願いを、預けていった。桜は、毎年、必ず咲く。それなのに、託した人々は、二度と、戻ってこない。

 風が、塩辛い水しぶきを、彼の顔に、叩きつける。彼は、飴の包み紙を、指に挟んだまま、ぼんやりと見つめていた。紙に描かれた桜の紋様は、江奈の服にあったものと、同じだった。

 見つめていると、不意に、海風が吹き、包み紙が、指先から、すっと滑り落ちた。ふわり、ふわりと舞い、やがて、海面に落ちる。

 波にさらわれ、快速艇から、ゆっくりと遠ざかっていく。きらめく波光の中へ、小さな桜の花びらのように、消えていった。

 時燼は、包み紙の消えた、その先を、長い間、黙って見つめていた。ようやく、視線を、戻す。

 顔を上げれば、目の前に広がるのは、果てのない青空と、荒れ狂う波だけ。それが、彼を、見知らぬ、遠い場所へと、運んでいく。

 彼は、うつむき、襟元から、あのネックレスを、そっと引き出した。結晶を、軽く、握りしめる。冷たい感触が、掌の奥へと、しん、と染みていく。それから、静かに、目を閉じた。

 しばらくして、目を開ける。その瞳に、迷いは、もう、なかった。かわりに、静かな、決意が、宿っている。次の目的地の方角が、感覚の中に、くっきりと、浮かんでいた。

「……また、失敗した」


あとがき

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

もし物語や登場人物が気に入っていただけたら、ブックマークや感想をいただけると、執筆の大きな励みになります。

これからも物語を続けていきますので、よろしくお願いいたします。

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