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こんけつのとしこっか

 快速艇が、深い青の波を裂いていく。エンジン音が海風に混じり、時燼の麻の外套を、ばたばたと翻していた。

 彼は舷に寄りかかり、遠く、ようやく輪郭を現してきた港へと、目を向けている。指先が、外套の裾に張り付いた、半ば乾いた桜の花びらを、無意識に、さわさわと弄っていた。

「若いの、何を見てるんだ?」

 しゃがれた声が、隣から聞こえた。

 振り返ると、快速艇を操る、水夫の男だった。

 日焼けした肌は潮風にさらされ、ごつごつした手は油で汚れている。長年、海の上で生きてきた者だと、ひと目で分かった。

 男も、舷へと寄りかかり、茫洋とした海面を見ながら、ため息をこぼす。

「わしも、この海で三十年、仕事をしとる。風波には、よう揉まれた。お前さんのように、若いのに一人で渡る奴も、まあ、おるにはおる」

「どうだ、行き先は決まっとるのか?わしで良ければ、道ぐらい教えてやるぞ」

 時燼は、港へと目を戻した。

「混血城邦へ行きたい。この港で、船を乗り換えるには、どうすればいい」

 男の目が、ぱっと輝いた。太ももを、ぱしんと叩く。

「奇遇だな!この先の新港から、混血城邦行きが、一日三便、出とる!」

「エルフの船と、ドワーフの船は、やめとけ。港の西側に、黒鴉旗を掲げた船がある。船長の老黒は、半獣人でな、牙が二本あって、見た目は、ちと、恐ろしいが……」

「わしら人族には、実直な男だ。この前、小さな娘が、あの船に乗って、悪い商人に金を騙し取られたんだが、老黒が、むりやり取り返してやったくらいだ。運賃も、良心的でな……」

 時燼は、黙って頷き、「黒鴉旗」という言葉を、胸の内に繰り返した。

 男が指さす方へと、目を向ける。港には、色とりどりの旗を掲げた船が、ひしめいていた。

 男は、時燼が話を聞き入れたのを見ると、その肩を、ぽん、と叩いた。

「安心して行け。混血城邦は、入り乱れた場所だが、決まりさえ守れば、そうそう、ひどい目には遭わん。もうすぐ着く。着いたら、老黒の船の場所を教えてやる」

 時燼は、低く、ああ、と応じ、再び、近づいてくる、あの喧騒へと目をやった。

 鴎が、頭上で、ぎゃあぎゃあと鳴きながら、輪を描いている。時燼は、街の中を、当てもなく歩いていた。

 何か、情報はないかと、ふと、一軒の酒場へと足を踏み入れる。中は、ひどく賑わっていた。木卓はどこも客で埋まり、笑い声が、絶えず、響いている。

 彼は、窓際の席を見つけ、帆が風にひるがえる景色を眺めながら、麦酒を一杯、注文した。

 酒が運ばれてきた、その時。灰色の布服を着た男が、壁へと一枚の貼り紙を張り出した。赤い紙に、黒い字。

「浮桜島、急変。千葉家兄妹、江嶼・江奈、何者かに殺害される。島内、政情不安定化」

 誰かが、それを、ちらりと見て、呟いた。

「千葉家の島主兄妹が、やられたのか」

 隣の卓の漁師と、笑いながら話し始める。

「こりゃ、浮桜島の桜糖が、値上がりするぞ。わし、先週、十斤も注文したばかりだってのに!」

 漁師が、卓を叩いて笑う。

「お前は、糖の心配か。わしは、仕入れの方が、よっぽど心配だわ。以前は、千葉島主がおれば、通関の書類も、その日のうちに通った。これからは、何日、待たされるか分からん」

 酒場の男が、杯を拭きながら、口を挟む。

「そうだろうな。聞いた話じゃ、船乗りたちも……」

 時燼は、貼り紙の「千葉家兄妹、江嶼・江奈」の文字を、じっと見ていた。口に含んだ麦酒の苦さが、じわりと広がる。彼は、目を伏せ、もう一口、飲んだ。窓の外では、鴎の鳴き声が、ますます激しくなり、羽ばたきの影が、貼り紙の「千葉」の二文字を、ふと、覆った。

 杯を置き、時燼は、卓の縁を、しばらく見つめていた。それから、立ち上がり、カウンターへと歩いていく。

 酒場の男は、まだ杯を拭いていた。彼が来ると、笑って尋ねる。

「兄ちゃん、おかわりかい?それとも、お勘定かい?」

 時燼の声は、外套の奥で、くぐもっていた。

「黒鴉旗の船は、どの港だ」

 酒場の男は、杯を拭く手を、ほんの少し、止めた。それから、窓の外を指さす。

「表を出て、左だ。三つ目の桟橋だよ。ただし、あの船は、午後にならんと出ん。急ぐなら、港で待っとるといい」

 酒代を払い、時燼は、店を出た。

 男が教えたとおりに歩いていく。あたりの音が、やがて、港の霧笛に、かき消されていった。前方の桟橋の先に、あの黒鴉旗が、風にはためいている。

 三つ目の桟橋まで来ると、黒鴉旗を掲げた船が、見えた。甲板では、数人の水夫が、木箱を運んでいる。

 船首に、熊の耳を持つ、大柄な半獣人が、寄りかかっていた。煙管をくわえ、皺だらけの運行表を、手でめくっている。

 時燼は、その前に立った。

「すまない。この船は、混血城邦へ行くか」

 半獣人の船長が、顔を上げた。琥珀色の獣の目が、時燼を、上から下まで、ざっと眺める。煙管を、船舷に、こつ、こつと叩いた。

「午後三時、出港だ。空きは、あと一つ。乗るなら、先に銀貨だ。荷物は、下の船倉に置け」

 銀貨を渡すと、船長は、時燼の外套の裾に付いた、かすかな桃色の花びらに、気づいた。熊のような眉を、わずかに寄せる。

「お前、浮桜島から来たのか」

 時燼は、目を伏せ、指先で、その花びらを、かるく弾いた。花びらは、桟橋の板の隙間へと落ち、海風にさらわれて、白い波の中へと消えていく。

 船長の獣の目が、二秒ほど、彼を見ていた。だが、それ以上は、何も聞かず、船舱の方を、親指で示した。

「下の、左から三番目の船室だ。中の荷物には、触るなよ」

 時燼は、その言葉に、こくりと頷き、甲板へと上がった。水夫たちが、木箱を運ぶ、重い足音が、耳の傍らで、どすどすと響く。黒鴉旗が、頭の上で、ばたばたと鳴っていた。

 船の下では、波が桟橋を打ち、新しい旅の始まりを、急き立てているようだった。

 彼は、甲板の端に立ち、桟橋を行き交う人々を眺めた。

 青銅色の肌をしたドワーフ。尖った耳のエルフ。力を合わせて木箱を運ぶ、数人の半獣人。

 混血の者もいる。人間の顔をしながら、鷹の翼を持つ少年が、船舷にしゃがみ込んで、機械仕掛けの鸚鵡に、油を注していた。

 この場所には、潮の匂いのほかに、ドワーフの硫黄の匂い、エルフの薬草の苦い香り……いくつもの匂いが、混ざり合って、漂っている。各族の物語が織り込まれた、一枚の網のように。

 時燼は、その喧騒を、ただ、黙って見つめていた。やがて、遠い水平線へと、目を移す。

 午後三時の鐘が、港の時計台から響いた。

 半獣人の船長が、煙管をくわえたまま甲板へと出てきて、しゃがれた声で怒鳴る。

「いいか、全員、何かに捕まっとれ!出航するぞ!」

 水夫たちが、船舷の魔法の輪を、いっせいに回した。輪に嵌められた魔晶が、淡い青から、深い青へと、瞬く間に変わる。

 船底から、透明な魔法の障壁が、ふわりと広がり、海水を、外へと押しのけていった。

 足下の甲板が、かすかに震える。見下ろすと、黒鴉号が、ゆっくりと海面を離れ、螺旋状の風が、船底で渦を巻き、海水を、細かな白波へと変えていた。

 船が、海面から十数メートルの高さまで浮かび上がると、帆に描かれた黒鴉の紋様が、一瞬、きらりと光った。次の瞬間、船は、風に乗り、混血城邦へと、空を、まっしぐらに飛び始めた。

 ドワーフたちが、歓声を上げる。

「この黒鴉号の風魔法陣は、やっぱり、よう効くな!この前の、亀甲船とは、わけが違うわ!」

 時燼は、甲板の端に立ったまま、船底に遠ざかる海を、じっと見ていた。

 黒鴉号は、雲の中を、三、四時間も飛び続けた。夕陽が、ゆっくりと沈んでいく。

 時燼は、小窓に近い、貨物棚の傍らに身を寄せた。首に提げた、あの神器を感知するネックレスを、そっと握りしめ、冷たい飾り石を、指で、さすっている。

 やがて、強い眠気が、押し寄せてきた。まぶたが、次第に重くなり、彼は、いつの間にか、眠っていた。

 ——夢の中で、重い枯石大刀が、震え、唸っていた。

「時燼、お前は、己が交わした、永生の呪いを、忘れるな」

「いまだに、神器中を追い、枷を外そうと足掻くか。呪いを裏切った末路を、忘れたのか。お前には……」

 過去の、幾千、幾万の、別れの欠片が、頭の中で、狂ったように渦を巻く。骨の奥から、引き裂かれるような、虚空の痛みが、湧き上がってきた。

 その時、不意に、一つの影が、目の前を、すうっと横切った。

 赤い髪。赤い瞳。

「今回、答えは、見つかったか?」

 彼は、夢の中で、何も答えなかった。

 ただ、その、砕けた景色の渦を、静かに見つめ、そして、そっと、目を閉じた。

 どれほど、そうしていたか。誰かが、彼の肩を、かるく叩いた。

 時燼は、はっと目を開いた。目の前に、半獣人の船長が立っている。

「若いの、混血城邦の空港に着いたぞ。降りる時間だ」

 時燼は、目をこすり、ネックレスを襟の奥へとしまい、船長の後を追って、船室の外へと出た。

 船舱を出た瞬間、目に飛び込んできたのは、山の中腹に、へばりつくようにして築かれた、巨大な城邦だった。

 空港のプラットフォームには、同じような飛行船が、十数隻も停まっている。

 魔晶が、青と紫の交じり合う光を、明滅させ、様々な種族の影が、忙しなく行き交っていた。知らない匂いと、喧騒が、一斉に、押し寄せてくる。

 時燼は、目の前の光景を、しばし眺めた。空の旅は、どうやら、無事に終わったらしい。これからは、この混血城邦で、神器の手がかりを、探さなければならない。

 人波に乗って空港を出ると、魔晶を嵌め込んだ、魔法の昇降機が、プラットフォームの縁に、ずらりと並んでいた。昇降機の箱は、透明で、中の乗客が、上へ下へと、動いているのが見える。

 彼は、そのうちの一つに乗り込み、眼下の都市へと向かう押し釦を押した。魔晶が、ぱっと輝き、昇降機は、ゆっくりと、降下を始めた。

 ガラス越しに、外の景色が、次第に、はっきりと見えてくる。半山腹の空港が、小さく遠ざかり、眼下に、都市が、じわじわと広がっていく。

 色とりどりの尖塔。ドワーフの鍛冶場。エルフの樹上の家。半獣人たちが、市場を行き交い……名も知らぬ、魔法の装置が、街のあちこちで、光を放っていた。

 昇降機は、数分かけて、ゆっくりと、中央広場の傍らへと降り立った。

 時燼は、外へ出た。足下の石畳は、魔法陣の紋様が刻まれ、踏むと、ほんのりと温かい。

 彼は、あたりを、ざっと見渡した。色とりどりの尖塔は、数百年前よりも、ずっと密集している。

 視線は、向かい側に並ぶ、新しい尖塔の鍛冶場へと、しばらく留まった。

 彼の記憶では、あの場所には、昔、山菜を売る、土を盛っただけの露店が、並んでいたはずだった。

 中央広場を出た、その時。首元のネックレスが、突然、熱を帯びた。

 時燼は、胸の内を、ぎゅっと引き締め、その導きのまま、脇道の小路へと、足を向けた。

 路地は、いくぶん薄暗く、両側には、妙な看板を提げた小さな店が、ひしめいている。

 やがて、一軒の、古い布の暖簾を下げた店の前で、足が止まった。暖簾には、かすれた神器の紋様が、刺繍されている。かなりの年季が入っているようだった。

「……ここか」

 時燼は、暖簾を手で押し上げ、中へと足を踏み入れようとした。

 その時、暖簾の奥から、先に、声がした。

「待っていたよ」


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