雪、降るなら
扉をくぐった瞬間、時燼は、思わず足を止めた。外の、あの古びた様子とは、まるで違う。中は、小ぎれいで、どこか現代的ですらある珈琲店だった。
暖かな黄色の灯りが、大理石の卓を照らし、珈琲機が、かすかに唸っている。空気には、古書と、濃い珈琲の香りが満ちていた。
黒と紅の長袍をまとった魔女が、カウンターの向こうで、珈琲豆を挽いている。立ち尽くす彼に気づくと、くすりと笑い、顎で、かるく、席を示した。
「そんなところで突っ立ってないで、座ったら?」
時燼が、顔を上げる。魔女の、耳の先が、わずかに尖っている。エルフの血が、混じっているらしい。彼は、カウンターの前へと歩み寄り、腰を下ろした。
魔女は、カップを拭きながら、彼を見た。その口元に、自信ありげな笑みが浮かんでいる。
「何しに来たか、分かってるわ。この店には、第六階位魔法の『星軌』が掛かってるの。星と月に選ばれた者だけが、ここへ導かれる」
「いや……俺は、ただの好奇心だ。好奇心がなきゃ、入ってすらいない」
自信たっぷりの魔女を見て、彼は、思わず笑ってしまった。襟元から、するりとネックレスを引き出し、彼女の前に差し出す。
「お前の言う“星月の選定”って、たぶん、これのことだろ?」
魔女は、ネックレスを受け取った。冷たい飾り石を、指の腹で、そっと探る。だが、眉が、だんだんと、寄っていく。どうしても、来歴が、読めない。
頬が、ほんのり、赤くなった。小さく咳払いをし、ネックレスを、押し返すように、差し出した。
「な、なかなか、奥が深いのね。私には、ちょっと、その、見えないわ」
「でも、大丈夫。この店は、見ての通り、なんでも屋だから。ここへ来られたってことは、何かの縁よ。話してみて。力になれるかもしれないわ」
時燼は、ネックレスを片付け、逆に、こう聞いた。
「なんでも屋なら、当ててみろ。俺が、何を探しに来たか」
魔女は、一瞬、きょとんとした。それから、ふふん、と笑い、指先で、カウンターを、とんとんと叩く。
「その、旅の疲れが抜けてなさそうな様子。人を探してるか、物を探してるか、でしょうね。人なら、城邦の居住登録を、洗ってあげる」
「物なら、なくした魔晶から、失われた魔法の巻物まで。手がかりぐらい、聞き出せるわ。この、なんでも屋の情報網は、何せ、この町で一番……」
時燼は、得意げに話す彼女を見て、口を開いた。
「じゃあ、俺が探してるのは、俺にとって、とても大事な人だ。手がかりは、少ない。たしか、この混血城邦にいる、という話なんだが」
魔女の目が、ぱあっと輝いた。身を乗り出してくる。
「人探し、得意よ!さあ、その人の、似顔絵は?特徴は?たとえ、数百年前に消えた人でも、私が、手がかりを掘り出してあげる!」
時燼が、半信半疑の目を向けると、魔女は、むっと眉を寄せ、腕を組んだ。
「なによ、うちの、なんでも屋を、信じてないの?じゃあ、そこまで言うなら、腕前を見せてあげる。あそこの、路地の入り口にいる、あいつ。見える?」
「ああ」
「黒い外套を、ぎっちり着込んで、魔族の気配を、だらだら垂れ流して。あんたの後を、三つ角も、つけてきてるわよ!」
時燼は、彼女の指さす方へ、ちらりと目をやった。それから、どうでもよさそうに、言った。
「知ってる。さっきから、後ろをつけてきてたんだろう。背中の刀を、奪うつもりなんだろうな」
そう言いながら、手を後ろへと回し、閻魔刀の柄を、かるく握り、半分ほど、鞘から引き出してみせた。
魔女の視線が、閻魔刀へと、すがりつくように、吸い寄せられた。瞳が、わずかに、縮む。それ以上は、何も言わず、ただ、無意識に、手を、カウンターの縁へと、にじり寄らせた。
彼女は、すぐに視線を戻し、声を、改めた。
「あんたが、尾行に気づいてるとしても、そんな刀を、背中に背負ってるのは、危なすぎるわ。あの刀の魔気、魔族には、夜の松明みたいなものよ。欲しがる連中を、どんどん呼び寄せるだけじゃない」
時燼は、肩をすくめ、魔女の言葉を、途中で遮った。
「よくあることだ。それで、お前は、俺の助けになれるのか?」
魔女は、一拍おいて、カウンターを、ぱんと軽く叩いた。
「あんたが、尾行に気づいてるとしても、魔族の一人や二人、やりすごせたとしてもね。路地に仕掛けられた魔法の罠までは、知らないでしょ」
「それより、何より。あんた、いったい、どんな人を探してるの?この混血城邦の中なら、私が、どうにか、手がかりを引きずり出してみせるわ」
時燼は、真剣な顔になった彼女を見て、手を、自分の胸のあたりまで上げた。
「これくらいの背丈で、見た目は少女だ。銀白色の髪に、翡翠色の瞳。エルフの尖った耳をしてる。年は、若く見える」
魔女は、その言葉を聞くなり、ぱっと顔を輝かせ、カウンターを叩く指の速度が、どんどん速くなった。
「銀白色の髪に、翡翠の瞳の、エルフの小娘?なんだ、そういうことなら、私の、お得意分野じゃない。エルフ族のことなら、この街で、私の右に出る者はいないわ!」
そう言うと、魔女は、淡い白の魔力を、すうっと手のひらに集めた。手首を、かるく持ち上げる。すると、高い本棚から、分厚い書物が、何冊か、ふわりと落ちてきて、ぱさり、とカウンターの上へと、開いた。
彼女は、いちばん厚い、エルフ族の名簿に、指先を、とん、と置いた。それから、目だけを上げて、時燼を見た。口元に、勝ち気な笑みが、浮かんでいる。
「先に言っとくけど、うちの、なんでも屋の、情報料は、前金制よ」
時燼は、ポケットから、魔晶貨を、数枚、じゃらりと取り出し、指先で、カウンターへと放った。硬貨が、乾いた音を立てて、転がる。
「ああ」
魔女が、その金へと、手を伸ばした。だが、その手が、寸前で、止まった。
「もし、見つからなかったら?」
時燼が、低く、そう言った。
魔女の指が、魔晶貨の上で、ぴたりと止まった。ちらりと、彼を、横目で見る。それから、ふ、と魔力を収め、小さく笑った。
「見つからなきゃ、一銭も、いただかないわ」
「なら、まずは、それを、探ってみろ」
時燼が、カウンターの上の書物へと、顎をしゃくった。
魔女は、すぐに名簿を開き、指先で、黄ばんだ紙を、ぱらぱらと、すばやくめくっていく。最初は、その動きも、なめらかだった。だが、次第に、その手が、ゆっくりになっていく。眉が寄り、何度も、同じ頁の縁を、指先で、こすり直す。
最後の頁をめくり終え、彼女は、本を、ぱたりと閉じた。耳の先が、うっすらと、赤い。指先が、カウンターを、かりかりと、かく。声には、わずかな、気まずさと、しおらしさが、混じっていた。
「ちょ、ちょっと、待って。時間をちょうだい。他の本も、ちゃんと、当たってみるから。きっと、何か、見つかるから」
時燼は、頬杖をついて、目の前で、あたふたと本をめくる魔女を、面白そうに眺めていた。やがて、口元が、ほんの少し、ほころぶ。
「見つからなくても、いい。お前に、見つけられるとは、思ってない」
魔女の手が、ぴたりと、止まった。胸の内が、ぐしゃりと、乱れる。声が、しおしおと、沈んだ。
「どうやら、今日も、失敗しちゃったみたいね」
時燼は、前のめりになった。
「どういうことだ?」
魔女は、額に落ちた髪を、耳の後ろへと、手でかき上げた。その声は、後悔で、いっぱいだった。
「私、この、なんでも屋の、店主の、弟子なの。師匠が、急用で、遠出しててね。私、ここ数日、店を守ってるんだけど、もう、何件も、しくじってて……」
言い終わらないうちに、時燼が、低く笑った。からかうように、言う。
「店主ともあろう人が、ずいぶん、出来の悪い弟子を、置いていったもんだな」
魔女は、一瞬、むっと、頬を膨らませた。けれど、言い返す言葉も、見つからず、本を、横へと、押しやった。
時燼は、そんな彼女を、ますます面白そうに見て、それから、さりげなく、尋ねた。
「お前の、その店主は、どんな奴なんだ」
魔女は、近くの本を、一冊、手当たり次第に引き寄せ、ぱらぱらと、めくりながら、無造作に、答えた。
「あんたが言った、その子と、似てるわよ。銀白色の髪に、翡翠みたいな瞳。エルフの、尖った耳……」
そこまで言って、本をめくる指が、ぎゅっと、止まった。彼女は、身を、やや前へと、乗り出し、両肘を、カウンターについた。急き込むように、声を上げる。
「あんた、師匠の、知り合いなの?!」
言ってから、はたと、自分で首を振る。体を、すっと後ろへ引き、頭のてっぺんから、足の先まで、時燼を、じろじろと、眺め回した。
その切れ長の目、すっと通った鼻梁、年齢を感じさせない、若い顔。視線は、やがて、彼の脇に置かれた、閻魔刀へと、落ち、また、彼の顔へと、戻ってくる。それから、小声で、ぶつぶつと、呟いた。
「でも、変ね。あんた、どう見ても、二十五か六でしょ。師匠の知り合いなわけないわ。師匠、もう、七百歳すぎなのよ」
時燼は、迷う彼女を見て、指先で、カウンターを、こつ、こつと叩いた。
「お前の師匠の、知り合いなんかじゃない。ちょっと、興味が、あっただけだ」
魔女は、カウンター越しに、彼を、ちらりと見た。それから、袖の内で、音もなく、伝音の印を結ぶ。声を、息ほどに潜めて、試すように、話しかけた。
「師匠、店に、お客さんが来てるの。師匠の知り合いじゃないって言うのに、師匠と、そっくりな、エルフの女の子を、探してるって」
千里の彼方、しばらくの間の後、返事が、返ってきた。
「その者を、夕方まで、店に留めなさい。私も、今日中に、戻る」
魔女は、伝音の印を解き、顔を上げて、時燼を見た。その顔には、申し訳なさそうな笑みが、浮かんでいる。
「ごめんなさい、手がかりは、見つからなかったわ。でも、師匠が、今日、戻ってくるの。よかったら、ここで、待ってみない?」
「珈琲も、おかわりできるし。あと、一、二時間もすれば、着くと思うから」
時燼は、素直に、カウンターの端の席へと、移った。淡々と、言う。
「珈琲は、いい。夜に飲むと、眠れなくなる。何か、食い物はないか」
魔女は、一瞬、面食らったが、すぐに、笑って、頷いた。
「あるわ、あるわ。持ってくるわね。うちで焼いた、木の実のパイ。甘いけど、くどくないのよ」
そう言って、後ろの調理場へと、向かおうとしたが、二歩も行かないうちに、振り返り、カウンターの端に、手をかけて、好奇心いっぱいに、尋ねた。
「師匠と、同じ顔の人を、探してるって、何か、急ぎの用事なの?あんた、どこから来たの?」
「人探しだ。ついでに、寄っただけさ」
時燼は、窓の外の空を見た。冷えた空気が、肌に、しんと、しみてくる。
「この調子じゃ、あと数日もすれば、雪だな」
魔女は、口をとがらせ、「秘密主義ね」と、小さく呟いて、調理場へと、引っ込んでいった。
ほどなくして、彼女は、香ばしい木の実のパイを、皿に盛って戻ってきた。それを、時燼の前に、とん、と置く。それから、ぬるめの蜂蜜水を、差し出した。
「これ、合うから。甘ったるくならないようにね」
時燼は、それを、ちらりと見て、一つ、摘まみ、小さくかじった。思わず、声が漏れる。
「うまいな」
暮色が、とっぷりと、沈んでいく。店には、入れ代わり立ち代わり、旅人が、暖簾をくぐってきた。
ある者は、城邦の隠し通路を尋ね、ある者は、失くした宝具を探しに来る。魔女は、いつものように、記録を繰り、話を聞く。答える声は、どこか、はっきりしない。なぞかけのような、物言いだった。
曖昧な手がかりを、ありがとうと、握りしめて帰る者。何も見つからず、悔しそうに、扉を、ばたんと、閉めて出ていく者。
夜の闇が、窓の縁を、すっかり、飲み込んでしまうまで。最後の客の足音が、路地の向こうへと、消え去った、その時。
店の入口で、からり、と、軽やかな、扉の音がした。
万事屋の主が、ようやく、帰ってきた。
扉が開いた瞬間、店主の全身から、淡い緑の魔力が、溢れ出した。森の、しんとした、エルフの威圧。それが、店中へと、押し寄せる。
だが、その魔力が、半寸と、広がらぬうちに、時燼の傍らに置かれた、閻魔刀が、ぶるり、と、ひと鳴りした。冷たく、沈んだ刀気が、真下へと、ずしりと、落ちる。
一瞬で、エルフの威圧は、粉々に砕かれ、部屋の隅の蝋燭の火まで、大きく、揺らいだ。
店主の顔色が、さっと、変わった。額に、冷や汗が、にじむ。その体が、淡い残影となって、魔女の前へと、瞬く間に、踊り出た。
弟子を、かばうように、背に隠し、時燼を、きっと、睨みすえる。その声は、深く、沈んでいた。
「……来るなら、来い」
時燼は、目の底に、うんざりとした色を、ほんの少し、滲ませた。両手を、胸の前で、ゆるりと組む。
「いきなり、魔力で、押さえつけようとしてきたのは、そっちだろ。それを、弾かれただけで、『来るなら来い』か」
店主は、ぐ、と言葉に詰まった。先ほどの、冷たい気配は、たちまち、しぼんでいく。小さく、咳払いをして、取り繕うように、顔を、わずかに、背けた。
彼女は、魔女を隠す姿勢を、ゆっくりと解き、乱した呼吸を、静かに整えていく。それから、時燼へと、真っ直ぐに、目を向けた。声は、低い。
「……話を、聞こう。お前は、何を探している」
時燼は、顔を上げ、先ほどと同じ説明を、淡々と、繰り返した。
「銀白色の髪。翡翠色の瞳。エルフの尖った耳。見た目は、少女だ」
店主は、それを聞き、眉をひそめ、しばらく、深く、考え込んでいた。やがて、ゆっくりと、口を開いた。
「私と、そこまで似た者となると、この街には、一人だけ、いる」
「『青枝浮夢』の持ち主だ。神器——茶釜の形をした、あれの、持ち主。お前が探しているのは、その女か」
時燼は、小さく、頷いた。
「やはり、お前の店は、多少は、役に立つようだな」
「お前が、その者の名を知っているなら、彼女が、なぜ、自ら姿を隠しているのかも、分かっているはずだ」
店主の視線は、再び、時燼の脇の、閻魔刀へと、落ちた。
「だが、彼女の話は、ひとまず、置くとしよう」
「お前が、その刀を、わざわざ、ここへ持ち込んだ。それは、手合わせが、目的か」
「もし、そうなら、彼女の居場所へと、繋がる道を、一つ、教えてやる。聞くか?」




