蝶雪浮夢
漆黒の魔力が、幻境を、内側から、ずたずたに、引き裂いていく。虚の中から、一振りの黒い刃が、その姿を、現した。重く、落ち、草の波が、さらに、大きく、うねる。
オシダナの視線が、枯石大刀の虚像へと、すうっと、吸い寄せられた。茶を淹れていた指先が、ほんの一瞬、止まる。
「……どうやら、本当に、もう、逃げられそうにない」
彼女は、枯石大刀から、目を、ゆっくりと、時燼へと、戻した。その、時燼の両の目を、まっすぐに、見据えて、口を開いた。
「私は、青枝浮夢を通して、お前の過去を、少しだけ、視た。お前は、ずっと、一人だった。それなのに、今は、どうして」
時燼は、茶を、ほんの少し、口に含んだ。その声は、冷たく、鋭い。
「それが、お前の、聞きたいことか」
オシダナは、小さく、首を振った。淡く、笑う。
「いいや。ただ、私が、勝手に、興味を持っただけだ」
「話しても、構わん」
「あの年、俺は、ある、赤い髪に、赤い瞳の、龍族の少女と、出会った。あの子に、よく、似ている」
少し、間を置き、自嘲するように、低く、笑った。
「……千年も生きてきて、まさか、他人の、残した悔いを、代わりに、晴らすことになろうとはな」
オシダナの視線は、再び、あの大刀の虚像へと、戻った。声は、静けさを、取り戻している。
「私を殺す前に、お前は、もう一人、神器持ちの命を、奪いに行くつもりだろう」
「さすがは、予言の神器。そこまで、視えてるか」
オシダナは、ほんの、ごくかすかに、笑った。
「それだけじゃない。今回、お前は、それを、殺す必要は、ない……」
時燼は、彼女を、じっと、見た。幻境の光が、その瞳の中で、明滅している。
「知りすぎるのは、良いことじゃないぞ」
オシダナは、時燼を、無視して、机を、軽く、指で、とんとん、と叩いた。
「そう遠くないうちに、あの神器持ちは、軍勢を率いて、この混血城邦を、攻めに来る」
「お前が、欲しがっている、あの神器だ」
時燼の目に、わずかな、感心の色が、浮かんだ。
「あの、長柄の得物か。船の櫂のような、あの、『赤沙』とやらか」
オシダナは、静かに、頷いた。
時燼は、少しの間、黙り、それから、答えた。
「教えてくれたこと、礼を言う」
「問いは、終わったか」
オシダナは、ゆっくりと、首を横に振った。
「いや、まだだ。あと、ひとつだけ」
「……お前は、神器持ちを、何人も、殺してきた。それなのに、なぜ、今になって、あの龍族の子の、後悔を、晴らそうなどと、思った。お前の、その“命を、終わらせる”行為は、遺志を、継いでいるだけか。それとも、お前自身が、本当に、何かを、気にし始めたのか」
時燼の、目の底に、ゆるやかに、迷いが、にじんでいく。
彼は、星が生まれ、消えるのを、見てきた。海が、大地になるのも、見てきた。なのに、たった一つの問いに、釘で打たれたように、その場に、縫い止められている。
時燼は、ただ、ゆっくりと、首を振った。
「……これだけ、長く、生きていると、“遺志”と“気持ち”の、境い目など、とうに、分からなくなっている」
言い終えると、時燼は、枯石大刀を、す、と抜き、その切っ先を、オシダナの喉元へ、まっすぐに、突きつけた。
「そろそろ、終わりにしよう。この、退屈な、問答も」
オシダナは、喉元に、ぴたりと、寄せられた、その切っ先を見た。逃げるどころか、手を、胸の前で、ゆっくりと、押し上げ、青枝浮夢へと、触れた。
淡い青の魔力が、壺の口から、あふれ出す。幻境が、突然、激しく、ゆがみ始めた。もとの、灰色の霧が、不気味な、赤い色に、染まっていく。
彼女の声が、ゆがんだ空気の、向こうから、震えるように、響いた。
「問いは、終わった。だから、今度は、私が、賭けに出る番だ」
声が終わると、幻境は、ガラスのように、一欠片、また一欠片と、砕け始めた。灰色の霧も、光も、影も、一瞬で、消えていく。
時燼は、枯石大刀を、振り上げたまま、その手を、半空に、止めた。切っ先は、まだ、先ほど、オシダナの喉があった、その位置に、残っている。彼は、急に、何もなくなった、目の前の景色を、見つめ、ぽつりと、言った。
「運命を、これほど、信じていた者が、最後に、選んだのが……」
幻境は、ゆっくりと、砕け散っていく。時燼の足下に広がる虚空は、いつの間にか、宿の部屋の、木の床へと、変わっていた。
我に返った時、目に映ったのは、暖炉の光と、丸くなった、小さな影。刀の柄を握っていた手を、ゆっくりと、ほどく。
黒い刃は、その手の動きに合わせて、細かな、黒い光の粒となり、ふわりと、散っていった。
レヴィテルが、そこに、しゃがみ込んでいた。小さな顔を、膝に埋め、肩を、ひくひくと、震わせている。
胸には、あの、きれいに、たたまれた、新しい服の包みを、ぎゅっと、抱きしめていた。布は、もう、涙で、ぐっしょりと、濡れている。
時燼は、彼女の前に、しゃがみ込み、曲がってしまった帽子を、手で、そっと、直してやった。声を、やわらかく、落とす。
「どうした」
レヴィテルは、顔を、ぱっと、上げた。赤い瞳は、泣きはらして、はれぼったい。
口を、開こうとしたが、喉が、しゃくりあげて、言葉にならない。しばらくして、ようやく、途切れ途切れに、こぼし始めた。
「わ、私……あなたが、あの光に、連れて行かれるのを、見てて……体、動かなくて……もう、二度と、戻ってこないんだって……服を、買ってくれたのも、私を、連れて行ってくれたのも……みんな、嘘だったのかなって……」
最後の方は、もう、言葉の形を、していなかった。彼女は、また、顔を、膝に埋めて、それまでよりも、激しく、泣き出した。
時燼は、泣きはらした顔と、涙で、濡れた袖口を見て、思わず、喉の奥で、ふっと、笑った。
レヴィテルは、時燼が、笑ったのに、気づいて、ぽすん、と、彼の胸に、飛び込むと、小さな拳で、彼の腕を、何度も、叩いた。
「戻ってきた。消えてない。嘘でもない」
レヴィテルの、叩く手が、ぴたりと、止まった。それでも、声は、しゃくりあげたまま、言い募る。
「笑うなんて……私が、どんなに、怖かったか……あの光が、あなたを、連れて行く時、私、何度も、呼んだのに、返事、してくれなくて……手を、伸ばしても、届かなくて……もう、二度と、会えないって、本当に、そう思ったの……」
時燼は、彼女の言葉を、最後まで、静かに聞いた。それから、手を伸ばして、彼女を、そっと、胸へと、抱き寄せ、頭を、なでた。
「もう、泣くな。うまい、麺を、食いに行くぞ。巷の、あの、温かいやつだ。玉子を、二つ、つけてもらおう」
時燼は、泣きじゃくる、彼女の、小さな拳に、腕を、びりびりと、痺れさせながらも、その声には、自分でも、気づかないような、甘やかす色が、混じっていた。
レヴィテルの、泣き声は、だんだん、小さくなっていった。龍の角も、かすかに、ふるえ、拳も、ゆっくりと、ほどけていく。かわりに、時燼の袖を、死に物狂いに、つかみ直した。手を、離したら、また、あの白い光に、攫われてしまいそうで。
「う……うん……!でも、もう、さっきみたいに、急に、消えたり、しないで……ずっと、心配で、ずっと、怖いの……」
時燼は、彼女を、立たせてやり、その、小さな手が、まだ、袖を、離さないのを、ちらりと、見た。それから、もう一度、彼女の頭を、かるく、なでて、小さな帽子を、くしゃりと、曲げた。
彼女は、ようやく、ほんの少し、手の力を、緩めた。けれど、まだ、一歩ごとに、彼の後ろを、くっついて、歩いている。赤い瞳は、ずっと、彼の背中に、張り付いたままだった。宿の入り口の、敷物の前まで来て、ようやく、そっと、手を、離した。
巷の入り口まで来ると、銀色の鎧を着た、二人の衛兵が、壁に、もたれて、話し込んでいた。レヴィテルの、帽子の下から、小さな角が、わずかに、のぞいているのに、気づく。
一人は、ちらりと、見ただけで、目を、戻した。もう一人が、口元を、わずかに、ゆがめて、言った。
「どこの、混血の子だ。早く、連れて行け。冷えるぞ」
時燼は、短く、ああ、と返し、彼女の手を、引いて、中へと、歩いていく。レヴィテルは、ときどき、こっそりと、時燼の横顔を、見上げては、慌てて、俯いて、ついていった。
奥へ進むほど、香りが、強くなっていく。
鈴が、ちりん、と鳴って、店内に入ると、骨の出汁の、濃い匂いが、ふわりと、漂ってきた。数人の客が、木卓で、黙々と、麺をすすっている。
時燼が、小麺を、二つ、頼む。しばらくして、麺屋の主人が、麺を運んでくるよりも先に、レヴィテルの腹が、「ぐう」と、鳴った。
彼女は、ぱっと、顔を、赤くして、深く、うつむいた。
時燼は、箸を、一膳、彼女の前に、差し出した。
「すぐ来る。箸を、持っておけ」
麺屋の主人が、布の暖簾を、押し上げて、湯気を立てる、二杯の麺を、運んできた。碗の中には、青い葱が、浮かんでいる。
時燼は、自分の碗から、黄金色の、目玉焼きを、二つとも、彼女の碗へと、移した。
彼女が、箸で、恐る恐る、麺を、一本、持ち上げ、ふうふうと、息を、吹きかける。
小さな口で、ゆっくりと、食べているのに、熱い麺のせいで、すぐに、額に、うっすらと、汗が、にじんできた。
半分ほど、食べた頃には、汗が、ますます、増えてきた。時燼は、紙を、取り出し、手を伸ばして、彼女の顔を、そっと、拭った。
レヴィテルは、顔を上げ、油の、ひかった、笑顔を、彼に、向けた。それから、すぐに、また、俯いて、碗の中の麺を、かきこんだ。帽子の下の、耳の先が、こっそりと、赤く染まっていた。
麺を、食べ終え、時燼が、勘定を、済ませ、レヴィテルの手を、引いて、店を出る。
外の風は、来る時より、ずっと、冷たかった。彼女は、顔を、帽子の中へ、うずめ、小さな手で、彼の大きな手を、ぎゅっと、握り返した。
二人は、提灯の灯る、巷を、ゆっくりと、宿へと、歩いていく。足音が、静かな夜に、こつこつと、小さく、響いていた。
宿の前まで来ると、時燼は、扉を開け、体を、横に、ずらして、彼女を、先に、入らせた。暖かな黄色い灯りが、彼女を、ふわりと、包んでいく。
時燼は、レヴィテルの、布団の端を、そっと、直してやり、暖かな灯りの中で、彼女の、まつげが、小さく、震えるのを、見届けた。それから、部屋の灯りを、消した。
「かちり」と、扉が、閉まる。彼は、外の夜へと、出ると、背に、閻魔刀を、負い直し、記憶の中の、魔女ジョエルの、なんでも屋へと、足を、向けた。
真夜中の通りに、人は、いない。街灯だけが、長い影を、地面に、落としている。
やがて、「万事屋」の看板を、掲げた、あの小屋が、目の前に、現れた。
窓には、まだ、昏い灯りが、ともっている。昼間、来た時と同じ、どこか、曖昧な、空気が、あたりに、漂っていた。
時燼が、扉を、押すと、ジョエルが、窓辺で、水晶玉を、布で、磨いていた。尖った、エルフの耳が、灯りに、透けて、見える。
彼女は、時燼を、見ると、片眉を、上げた。
「こんな時間に、何か、あったの?」
時燼は、扉の枠に、背を、もたれかけた。
「魔族が、攻めてくる。もう、すぐ、ここまで、来るぞ。昼間、あの子の、服を、見立ててくれた、礼だ。早く、ここを、離れた方が、いい」
ジョエルの、水晶玉を、磨く手が、少しだけ、止まった。彼女が、何か、言おうとする前に、奥の間から、垂れた、布の暖簾が、ふわりと、持ち上がった。
子供のような、背丈。翠の目と、尖った耳を持つ、エルフ。店主の、ラヴェンナが、腕を組んで、時燼を、見た。
「真夜中に、押しかけてきて、ただの、知らせ、だけか?」
時燼は、繰り返した。
「魔の軍勢が、攻めてくる。俺は、早く、逃げた方が、いいと、言いに来ただけだ」
ラヴェンナは、かるく、笑った。翠の瞳が、灯りの中で、ちらりと、光る。
「魔族が、攻めてくる?とっくに、知っている。私は、七百歳を、超えているんだ。戦乱など、いくつも、越えてきた。逃げるものか」
時燼は、少し、沈黙した後、言った。
「……あんたに、一人、頼みたい。俺の代わりに、しばらく、あの子の、傍に、いてやってほしい」
ジョエルは、ぱちくりと、目を、瞬かせた。それから、すぐに、合点がいったように、声を、弾ませた。
「ああ、あの、ちび龍の子ね?」彼女は、店主の方を、振り返った。「前に、話したでしょ。レヴィテルって、いう子」
ラヴェンナの目が、ぱっと、輝いた。その視線は、時燼の腰に差した、閻魔刀へと、ゆっくりと、向かっていく。
「あの子を、護るのは、かまわない。ただし、あんた、その刀……私に、何日か、研究させてくれないかしら」
「この刀は、俺が、持っている。だが、あんたに、これを、守り抜けるか?」
店主は、口を、とがらせた。
「……やめとく」
そう言うと、彼女は、懐から、蔓草の模様が、彫られた玉佩を、取り出し、ぽん、と、時燼へ、投げた。
「これを、先に、あの、ちび龍に、つけておやり。明日、連れて、来なさい。ただし、言っておくけど、私が、あの子を、守るのは、魔族が、退くまでだ」
時燼が、それを、受け取ろうとした、その時。店主は、不意に、その手を、引っ込めた。
「この玉佩は、渡しても、いい。けど、あんた、一つ、約束して。あの神器持ちを、殺さないで。彼女は、私の、古い友達なの」
差し出した、時燼の手が、ぴたりと、止まった。
閻魔刀が、時燼の、心の揺れを、感じ取ったように、微かに、唸る。
一方は、果たさねばならない、使命。もう一方は、レヴィテルの、命。
レヴィテルは、独立した、ひとつの存在だ。彼女には、彼女自身の物語が、ある。
自分の魔力を、彼女に、押しつけるのは、時燼にとって、もう、「守る」とは、呼べなかった。それは、「奪う」ことだ。彼女は、物でもなければ、ましてや、飼い慣らす、愛玩動物でもない。
彼の、喉が、かすかに、上下した。だが、どうしても、一言も、出てこない。彼は、その場に、縫い止められたように……




