約束
時燼が勘定を済ませ、暖簾を押し上げて外へ出た瞬間、雪混じりの風が、冷たく、体を刺した。
彼は、襟元を、かるく合わせ、街路の奥へと、足を向けた。後ろから、小さな足音が、おそるおそる、ついてくる。遠くもなく、近くもなく。
横を、ちらりと見ると、レヴィテルが、肩をすくめ、赤い髪に雪を積もらせながら、小走りで、ついてきていた。
時燼と目が合うと、彼女は、その場で、ぴたりと、固まり、小声で、もごもごと言った。
「わ、私……ついていくだけで……迷惑は、かけませんから……」
時燼は、何も言わず、前を向いて、歩き出した。だが、その足は、ほんの少し、遅くなっていた。
二人の足跡が、白一色の世界に、ゆっくりと、伸びていく。
細い路地を曲がった、その時だった。巷の入り口から、荒っぽい怒鳴り声が、炸裂した。
「いたぞ!あの小娘だ!囲め!」
数人の城邦兵が、両側の物陰から、飛び出してきた。素早く、包囲を、狭めてくる。その目は、レヴィテルに、がっちりと、釘付けられていた。
彼女は、びくっと、体を震わせ、慌てて、時燼の後ろへと、駆け寄り、小さな手で、彼の服の裾を、死に物狂いで、つかんだ。
時燼は、顔を、ゆっくりと、兵たちへと向けた。全身から、淡い金色の魔力が、音もなく、あふれ出る。
声なき威圧が、雪の上を、すうっと、広がっていく。時燼の周りで、雪粒が、ひとりでに、地面へと、急降下し、空気そのものが、凍りついた。
兵士たちの足が、ぴたりと、止まった。胸が、苦しく、締めつけられ、刀を握る手が、意思に反して、震えている。その顔には、押し殺せない、恐怖があった。
誰一人、半歩も、前に、出られない。
時燼は、自分の服を、ぎゅっと握る、その小さな手を、ちらりと見た。それから、冷たい目で、兵たちを、一掃し、喉の奥から、たった一言を、吐き出した。
「どけ」
威圧が、さらに、一段、強くなった。兵士たちの顔から、血の気が、さっと、引いていく。彼らは、よろよろと、後ろへと、下がり、どうにか、細い道を、開けた。
時燼は、もう、彼らを見なかった。裾を、かるく、引き、足を、踏み出した。
レヴィテルは、一歩、また一歩と、ぴったり、ついていく。半歩たりとも、離れない。
遠くの、屋根の上。青枝浮夢の持ち主が、静かに、そのすべてを、見下ろしていた。翡翠の瞳が、吹雪の中を歩く、あの影を、じっと、追っている。
彼女は、手を伸ばし、砕けた雪を、ふわりと、つかんだ。その声は、清らかで、やわらかく、どこか、遊ぶようだった。
「……そう。お前は、冷血には、なりきれない。ほんの少しの、ぬくもりで、命の道は、傾く。すべては、ここから、生まれる」
その目は、雪に消えていく、二つの足跡を、いつまでも、追っていた。見えるものと、見えぬものが、その瞳の中で、ゆらゆらと、重なっている。
宿の前まで戻ると、時燼は、レヴィテルの体を、後ろから、ざっと、見た。着ているのは、洗いざらしの、色あせた、薄い布きれだった。
「その服、みすぼらしい。新しいのを、買ってやる」
時燼は、彼女の返事も待たず、巷の入り口の、仕立て屋へと、歩き出した。
レヴィテルの目が、ほんの一瞬、ゆれた。口元が、知らず、上がりかけ、慌てて、手で、隠す。その胸に、嬉しさを、ぎゅっと、押し込めて、小走りで、あとを追った。さっきよりも、ずっと、近くに。
仕立て屋へ着き、時燼が、暖簾をくぐろうとした、その時。後ろから、聞き覚えのある、軽やかな声が、飛んできた。
「あら、あんたじゃない!」
振り返ると、先日の、なんでも屋の魔女が、立っていた。厚手の毛皮の外套を、ふわりと、まとい、手には、油紙の包みを、抱えている。雪の中で、ぱちぱちと、まばたきをして、時燼を見た。
それから、彼の横にいる、レヴィテルに、気づいた。その目に、好奇心が、ふつふつと、沸いていく。笑顔を浮かべ、こちらへ、早足で、寄ってきた。
「あんた、エルフの女の子を、探してたんじゃなかったの?」
「なに、この、ちっちゃな龍の子は?もしかして、あの時、うちの店で、私を、からかったんじゃないの?」
時燼は、振り返り、彼女を、ちらりと見た。口調は、淡々としているが、どこか、とげがある。
「べつに。どうせ、お前は、人を見つけられなかったんだ。今さら、その話を出すな」
魔女は、目を、にんまりと、細めた。からかうように、体を、ぐっと、寄せてくる。
「あら、どうかしらね。口では、ああ言っても、手は、離してないし。分かってるわよ、そういうの」
そう言いながら、しゃがみ込み、レヴィテルの髪に積もった雪を、手で、そっと、払った。その声は、とろけるように、甘い。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
レヴィテルは、突然の、やさしさに、目をぱちくりさせ、思わず、時燼の後ろへ、半歩、下がった。小さな声で、答える。
「レ、レヴィテル……です……」
「レヴィテル?」
魔女は、目を、きらりと、輝かせ、指先を、あごに、ちょんと、当てた。ふふ、と笑う。
「その名前、どっかで、聞いたことある気がするわ。もしかして、北の、龍族の名前?」
時燼は、半歩、前に出て、レヴィテルを、自分の体の、かげに、かばった。少し、うんざりした顔で、言った。
「服を、選んでやるのが先だ。雪の中で、ぐずぐずしてるな。なんでも屋には、また、今度、行ってやる」
暖簾を、さっと、くぐって、仕立て屋へと入る。時燼は、ところ狭しと並ぶ、色とりどりの布を、ぐるりと、見回した。それから、後ろから、ついてきた魔女に、ちらりと、振り返る。その声に、かすかな、とまどいが、混じっていた。
「……お前、見立ててやれ。何着か、まとめて、頼む」
魔女は、笑って、うなずいた。厚手の服を、何着も、腕に、抱えていく。一着一着、指さしながら、説明を、始めた。
「まず、この、黄色と、生成りの、厚い綿入れ。それから……」
そう言いながら、また、うさぎの毛の縁取りがついた、小さな編み帽子を、二つ、手に取って、帳場へと、のせた。
「北の龍族は、寒さに強いって、いうけど、この子、線が、細いものね。これぐらい、あったかくしないと」
レヴィテルは、背伸びをして、その、ふわふわした、新しい服を、じっと、見つめていた。赤い瞳は、きらきらと、光り、龍の角まで、ぴんと、立っている。けれど、手を、伸ばそうとは、しない。ただ、こっそりと、時燼を、見上げていた。
時燼は、レヴィテルを、ちらりと見た。それから、黙って、帳場の主の前へと、進み出た。
「全部、包んでくれ」
主は、威勢よく、うなずき、手早く、荷造りを始めた。魔女は、商品棚に、背を、もたれかけ、笑いながら、時燼を見た。その目には、からかいの色が、まだ、残っている。
「じゃあ、俺たちは、もう、帰る。見送りは、いい」時燼は、魔女に、礼を言った。「そういえば、お前のことを、ずっと、魔女と呼んでいたが、名前は、何というんだ」
「私?私は、ジョエル。今度、レヴィテルと、一緒に、店に、遊びにいらっしゃい」
ジョエルは、ひらひらと、手を振って、見送った。
仕立て屋を出ると、レヴィテルは、包まれた、新しい服を、胸に、ぎゅっと、抱えていた。目は、きらきらと、光り、足取りが、どうしても、はずんでしまう。
時燼は、そんな彼女を見て、前の、小さな宿へと、戻る。荷物を、まとめ、レヴィテルに、声をかけた。
「もっと、まともな宿に、移るぞ」
雪の巷を、新しい宿へと、歩いていく。レヴィテルの足が、知らず、ぴょんぴょんと、跳ねている。喜びが、全身から、あふれ出していた。
時燼は、横目で、彼女を見て、静かに、言った。
「これからの日々は、そう、簡単ではないぞ」
レヴィテルは、ぴたりと、足を、止めた。それから、顔を上げ、彼を、まっすぐに、見つめる。その目は、強く、真剣だった。小さな声なのに、一語一語が、はっきりと、聞こえた。
「私、これまでだって、ずっと、そんな風に、生きてきましたから」
そう言うと、彼女は、服の包みを、ぎゅっと、胸に、抱き直した。
新しい宿に着き、広めの部屋を、取った。扉を開け、暖炉に、火を入れる。しばらくすると、部屋中に、やわらかな温もりが、満ちていった。
レヴィテルは、新しい服の包みを、抱えたまま、奥の間へと、ぱたぱたと、走っていく。衣擦れの音が、しばらく、続いた。
やがて、彼女が、戻ってきた。黄色と生成りの、厚い綿入れを、着て、襟元には、やわらかな毛が、ふわりと、のぞいている。頭には、うさぎの毛の、小さな編み帽子。
時燼の視線を、感じると、その場で、くるくると、何度も、回ってみせた。それから、服の裾を、かるく、つまんで、小声で、聞いた。
「わ、私……これ、似合ってますか……?」
時燼は、しばらく、彼女を、見ていた。それから、ほんの少し、口調を、やわらかくして、言った。
「ああ。ちゃんと、合ってる。温かそうだ。……よく、似合ってる」
「似合ってる」という言葉を、聞いた瞬間、レヴィテルは、ぱっと、顔を、輝かせた。部屋の中で、かるく、二度、三度、跳ねる。小さな帽子が、ふわりと、揺れ、龍の角まで、嬉しそうに、ぴくぴくと、動いた。
部屋の温もりが、まだ、消えない、その時。時燼は、不意に、声の調子を、重くした。
「俺についてくれば、明日の、朝日さえ、見られないかもしれない。それでも、ついてくる気か」
レヴィテルの、跳ねる足が、止まった。彼女は、彼を、じっと、見上げる。その赤い瞳には、微塵の迷いも、なかった。
「……今まで、私に、こんなに、よくしてくれた人、いなかった。あなたが、私に、よくしてくれるなら、たとえ、死んでも、私は、あなたに、ついていきたい」
その言葉が、胸に、落ちてくる。時燼は、長く、息を、吐き出した。あの龍主の、横顔が、胸の奥で、ゆらりと、浮かぶ。
言い残した、あの言葉。果たせなかった、あの想い。それが、次々と、頭の中を、満たしていく。
彼は、卓の端、暖炉の灯りを、じっと、見つめていた。
「……また、一人の旅だと、そう、思っていた。まさか、俺が、他人の代わりを、することになるとはな」
時燼は、眉間を、かるく、押さえ、それから、レヴィテルへと、目を、戻した。彼女は、まだ、そこに、立っている。きらきらした目で、彼を、まっすぐに、見つめていた。
次の瞬間だった。
深い緑の魔力が、四方の壁から、一斉に、溢れ出し、部屋全体を、すっぽりと、包み込んでいった。
時燼は、抵抗を、しなかった。最後に、レヴィテルを、ひと目、見た。それから、ゆっくりと、目を、閉じた。
再び、目を開けた時、そこは、見渡す限りの、青い草原だった。
風が、草の葉を、やわらかな波に、変えていく。草原の、真ん中に、一脚の、木の机。その横に、素色の、日よけの傘。机の前には、二脚の、竹の椅子が、置かれている。
青枝浮夢の持ち主が、すでに、一方の椅子に、腰かけていた。手の傍らに、青磁の茶壺。
時燼が、降り立つのを、見ると、彼女は、静かに、茶壺を、手に取った。澄んだ茶が、壺の口から、二つの白磁の杯へと、細く、落ちていく。その動きは、ゆるやかで、表情は、凪いでいた。
「どうぞ」
時燼は、胸元から、あのネックレスを、引き出し、掌に、ぎゅっと、握りしめた。
それから、木の机へと、歩み寄り、一言も、言わずに、腰を下ろした。
彼女の、茶を淹れる手は、止まらない。青磁の注ぎ口から、こぼれる茶が、白磁の杯に、浅く、波紋を、広げる。茶の香りが、草原の風に、ふわりと、混ざっていった。
彼女は、顔を上げ、時燼を、まっすぐに、見た。
「私は、オシダナと、いう」
「いつから、つけていた」
「仕立て屋から、宿まで」
そう言うと、彼女は、淹れたばかりの茶を、時燼の前に、静かに、押しやった。磁器の杯が、木の机に触れ、かり、と、小さく、鳴った。
「お前にも、見えているのだろう。私が、青枝浮夢の、持ち主だ。しがない、二百と少しの、エルフだ」
オシダナは、遠く、うねる草の波へと、目を向けた。
「青枝浮夢の、予言の力で、もう、見てしまっている。幾日か後に、私は、お前の手に、死ぬ」
彼女は、時燼を、見た。その瞳に、恐怖は、一片も、なかった。二百余年の、歳月を、くぐり抜けてきた、静かな凪だけが、あった。
「お前を、この幻へ、引き込んだのは、逃げるためではない。ただ、心のうちに、いくつか、問いたいことが、あった。どうしても、面と向かって、聞いておきたかった」
「どうか、答えてほしい。たとえ、あの結末に、なるとしても、私は、悔いなく、死ねる」
オシダナは、深い緑の瞳を、時燼へと、向けた。
「ひとつ、分からないのだ。お前は、なぜ、神器の持ち主を、狩る」
「強くなるためだ」
「……だとしても、神器の持ち主を、そこまで、執着して、殺すことは、ないはずだ」
彼女は、わずかに、間を置き、声を、沈めた。
「青枝浮夢で、お前を、視た。お前の、身にまとわる、命の数は、万を、とうに、超えている。……百万に、届くほどだ」
「お前は、この幻の中で、私を、傷つけられると思うか」
オシダナの、その目は、どこまでも、静かだった。
「私の本体は、ここには、ない。お前が、どれほどの力を持とうと、私に、傷ひとつ、つけられはしない。たとえ、お前が——」
言い終わる前に、時燼の全身から、魔力が、どっと、溢れ出した。それが、幻の壁を、内側から、何度も、激しく、叩く。
彼は、虚空に向かって、手を、突き上げ、草原を、震わせる声で、叫んだ。
「枯石大刀!」




