第9話 パライバの夜明け
世界を変える宝石は、たいてい最初、石ころの顔をしている。
その青緑の欠片も、古い新聞紙に包まれて御影宝石鑑定室へやって来た。
前日に私の《処理期限》が見つかって以来、鑑定室の階下には黒百合商会の護衛が二人いる。華乃は私を外へ出すなと言い、御影先生は「鑑定士から仕事まで奪えば、先に本人が暴走する」と言い返したらしい。
結果、私は仕事を続け、黒い車が窓の下で一日中こちらを見張るという、かなり居心地の悪い折衷案になった。
「ガラスだと言われました」
依頼人の深見早苗さんは、申し訳なさそうに包みを開いた。
五十代半ば。港の商店街で、古い宝石店《青藍堂》を営んでいる。隣には娘の小春さん。高校を卒業したばかりらしく、父親の形見だという木箱を胸へ抱いていた。
新聞紙の中から現れたのは、親指の先ほどの青緑色の結晶だった。
研磨されていない。表面には土と雲母がこびりつき、一部は白く濁っている。
けれど、亀裂の奥から漏れる色だけが異様に明るい。
夜明け前の海へ、ネオンを一滴落としたような青。
澪が椅子を蹴って立ち上がった。
「触っていい?」
「だめ」
私と御影先生の声が重なる。
「まだ同意取ってない」
「物理的に見るだけ」
「目が触ってる」
「視覚は非接触」
澪はルーペを構えたまま、早苗さんへ身を乗り出した。
「これ、どこで手に入れました?」
「亡くなった夫の机からです。三十年くらい前、ブラジルから来たお客さんに代金代わりでもらったと聞いています」
「他の店では?」
「色をつけたガラスか、価値の低いトルマリンだと。店を畳む前に、最後に一度だけ見てもらおうと思って」
《青藍堂》は来月で創業八十二年になる。
しかし再開発で人通りが減り、早苗さんの夫が亡くなってから仕入れの借金も残った。今週中に三百万円を用意できなければ、店舗兼住宅を手放すという。
「これを売れば、店を残せますか」
早苗さんが訊く。
小春さんが、すぐに母親を見た。
「売るの?」
「そのために来たのよ」
「お父さんの形見でしょ」
「形見を守って、家を失ったら何が残るの」
「店を畳めばいいじゃない。借金までして続けろなんて、私、言ってない」
「あなたが継ぎたいって言ったからでしょう」
「お父さんが死んだ日に言ったこと、まだ本気にしてるの?」
言葉がぶつかり、二人とも黙った。
結晶は新聞紙の上で、何も知らないように光っている。
価値が分かれば救われる。
そんな単純な話ではない。
高価なら、売るか残すかで家族が割れる。
安価なら、希望を失う。
鑑定士が差し出す数字は、ときどき石より重い。
「まず、何かを決める前に正体を見ます」
私は言った。
「価格は、石をどうするか考える材料の一つです。答えではありません」
早苗さんと小春さんは、別々の方向を向いたままうなずいた。
結晶を洗浄すると、青緑の部分が想像以上に広かった。
比重はトルマリンの範囲。
偏光器の間で回すと明暗が変わる。単屈折のガラスではない。
二色鏡では、青と緑の異なる色が見えた。
「少なくともガラスではありません」
私が告げると、早苗さんの肩がわずかに下がった。
澪は顕微鏡へ顔を寄せている。
「液体包有物。細い成長管。表面の欠け方もトルマリンっぽい。で、この色」
「銅を含む可能性がある?」
「可能性どころか、私のオタク心が銅イオンの波長で発光してる」
「それは病院で診てもらって」
「鉱物科があるなら紹介して」
いわゆるパライバトルマリン。
電気を灯したような青緑色を示す、銅を含むトルマリンだ。最初に知られた原石の産地では、長く価値がないと思われていた土地から鮮烈な石が見つかり、周囲の暮らしを一変させたと語られている。
ただし、色が似ているだけでは名乗れない。
「銅とマンガンの確認が必要です。産地まで断定するには、さらに詳しい分析が要ります」
御影先生は協会の検査室へ連絡した。
通常なら数日かかる。だが、店の支払期限は明日。私はC級章を握り、緊急鑑定の理由へ《生活基盤の保全》と書いた。
夕方、携帯型蛍光X線分析の結果が届く。
銅、検出。
マンガンも、色へ影響する量が含まれていた。
結晶全体は二十一・六カラット。亀裂と濁りを避ければ、数カラットの鮮やかな石が二個以上取れる可能性がある。
ただし、原石の価値は完成品の値段を足したものではない。研磨で割れる危険がある。どの角度で切るかによって、色も歩留まりも変わる。
私は最低評価と最高評価を大きく分けて書いた。
「現段階の保守的な評価でも、三百万円を超える可能性は高いです」
早苗さんが口元を押さえた。
小春さんは石を見つめたまま動かない。
「凛香さんなら、お父さんが売りたかったか分かりますか」
不意に訊かれた。
小春さんの視線は、私の手に向いている。
触れて、父親の気持ちを読んでほしいのだ。
「分かりません」
「触っても?」
「残っている感情は読めるかもしれません。でも、お父様は今、読まれることへ同意できない。それに、一瞬の感情を人生最後の遺言みたいに扱うのは危険です」
小春さんがうつむく。
私は原石を包んでいた紙を示した。
「ただ、石を切らず、三十年保管したことは事実です。価値を知らなかったから放置したのか、いつか誰かに託すため残したのか。それは、石ではなく、お父様の記録とお二人の記憶から考えるべきだと思います」
「答えをくれないんですね」
「鑑定士が、ご家族の代わりに答えを作ったら、それは本物に見える偽物です」
小春さんは少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、前の店より信用できます。あそこは三万円って、すぐ答えたから」
「その答えは、かなり研磨し直したいですね」
「売れば、借金は返せますか」
「はい。ただし、急いで現金化すれば、相場より大幅に安くなるかもしれません」
「じゃあ、やっぱり売るのね」
小春さんの声が硬くなる。
「店を残すためよ」
「お父さんの石をなくしてまで?」
「店だって、お父さんの残したものよ!」
早苗さんの声が初めて大きくなった。
すぐに、自分で傷ついた顔をした。
「……ごめん」
小春さんは木箱を抱きしめた。
「私が継ぐって言ったから、お母さんが苦しいんでしょ」
「違う」
「同じだよ」
私は二人の間にある原石を見る。
一個の石へ、店、父親、借金、夢、後悔が載りすぎている。
売るか、残すか。
二択に見えるときは、たいてい鑑定書の欄が足りない。
「石を売らずに、資金へ変える方法があります」
二人が同時に私を見た。
「正式な評価書と保険をつけ、保税金庫へ預ける。石を担保に、短期の融資を受けます。すぐ研磨して売るのではなく、一年間、店の再建と買い戻しの時間を作るんです」
御影先生が続ける。
「高額原石では珍しくない。ただし、この評価幅では金融機関が慎重になる。上位鑑定士か、保証人が必要だ」
「私のC級では足りませんか」
「お前の署名を軽く言うな。足りないのではなく、負わせていい額を超える」
その通りだった。
C級になったばかりの私が、家一軒分の未来を一人で保証することはできない。
私は華乃へ連絡しようとして、手を止めた。
昨日、姉は私の名前が書かれた処理命令を見た。
今ごろ私がどこにいるか、知られない方がいい。
それでも、相談できるS級以上は他に思いつかなかった。
端末が震えた。
協会の保証システムから通知。
《本件評価に対し、匿名SS級鑑定士より上限一千万円の保証申請》
保証印は黒い百合。
添付された所見は、たった二行だった。
《原石の銅含有および天然起源を予備確認。過度な早期売却は所有者利益を損なう》
署名は伏せられている。
けれど、句読点の位置まで分かる。
華乃だ。
「姉さん……」
「監視されてるね」
澪が言った。
「言い方」
「じゃあ、過保護が高倍率」
早苗さんたちは、原石を一年間の担保へ入れることを選んだ。
融資で借金を整理し、その間に《青藍堂》の一角を小さな修理工房へ変える。小春さんは店を継ぐかどうか、一年かけて決める。
石を売らない。
店も、今すぐ畳まない。
どちらも永久の答えではない。
だからこそ、今の二人には必要な答えだった。
帰り際、小春さんが新聞紙をたたみ直した。
「あの、これも一緒に返してもらえますか。父がずっと、この紙で包んでたから」
「もちろんです」
私は紙を広げる。
古い新聞だと思っていた裏面に、薄い赤の印が残っていた。
ルーペの中へ、一滴の雫。
資格審査の夜に届いた招待状と同じ、母の私印。
その下には、褪せた文字。
《東雲雫 宝石と記憶の無料相談室》
「この紙、どこで?」
「父が昔、ある女性鑑定士に石を見てもらったそうです。値段は分からないけれど、“まだ切らないで”と言われたって」
紙の隅に相談番号がある。
〇七一四。
私は母の研究台帳を開いた。
巻末に、相談記録の索引が挟まっている。
〇七一四は深見俊明。青緑色トルマリン。保留。
その一つ前。
〇七一三。
相談者名を見た瞬間、指が止まった。
《神代澪 十一歳》
相談内容。
《家族喪失後の感情残留。記憶一時移送を希望》
「澪」
隣を見る。
いつもなら石へ向けている琥珀色の目が、台帳だけを見ていた。
顔から、全部の冗談が消えている。
「それ、閉じて」
「母さんの相談室にいたの?」
「閉じて、凛香」
澪の右手の火傷が、白く震えていた。




