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第10話 溶けない真珠

 真珠は、宝石の中では珍しく、生き物が痛みから作る。


 貝の中へ入った異物を、何層もの真珠層で包む。取り出せない傷なら、せめて自分の一部で覆ってしまおうとするように。


 だから母は、真珠が好きだった。


「それ、閉じて」


 台帳の《神代澪 十一歳》という文字を見た澪は、もう一度言った。


 御影宝石鑑定室の窓に、夕方の海が映っている。


 私はページへ指を置いたまま、動けなかった。


「母さんの最後の弟子だったの?」


「今、答えないとだめ?」


「だめじゃない」


 言葉にすると、胸の奥が痛んだ。


 知りたい。


 七年前、母と澪の間に何があったのか。C―01へ何を移したのか。なぜ母が死んだのか。


 けれど黄色い二石の鑑定で、私は知らない死者の記憶を読むことを拒んだ。


 それなのに、相手が澪なら答えを奪っていいはずがない。


「話せるときに話して」


 私は台帳を閉じた。


 澪の目が少しだけ見開かれる。


「……気持ち悪い」


「何が」


「凛香が成長してる。偽物?」


「心配して損した」


「本物なら、なおさら厄介」


 澪は椅子から立ち、窓へ向かった。


 逃げるのかと思った。


「相談室の住所、裏表紙にある」


「行くの?」


「一人で行ったら、あんた絶対ついてくるでしょ」


「うん」


「即答するな、湿度」


 母の《宝石と記憶の無料相談室》は、港から路面電車で二十分ほどの旧市街にあった。


 御影先生へ行き先を告げると、階下の黒百合商会の護衛も無言でついてきた。澪は「尾行のセンスが低い」と三度撒こうとし、三度とも私に止められた。命を狙われている人間が、護衛との鬼ごっこで先に遭難するのは笑えない。


 細い坂道の途中。閉館した写真館の二階。


 曇ったガラス扉には、剥がれかけた金文字が残っている。


 《石を売る前に、石について話したい方へ》


 鑑定所でも、病院でもない。


 母らしい、曖昧な看板だった。


「七年前から閉まってるはず」


 澪は錆びた鍵穴へ細い工具を入れた。


「それ、犯罪じゃない?」


「鍵は預かってる」


「最初から使って」


「固着して入らない」


「宝石オタクの一般教養に、解錠まで含まれてるの?」


「これは鍵への救命措置」


 三十秒後、扉が開いた。


 一般教養の範囲が広すぎる。


 室内は、時間だけを七年間閉じ込めていた。


 丸い相談机。二脚の椅子。壁には、宝石の価格表ではなく、手書きのカードが並んでいる。


 《売りたくないと言っていい》


 《値段を知っても、手放す義務はない》


 《思い出せないことも、持ち主の選択》


 母の字だ。


 机の隅には、白いカップが二つ。片方の縁に、薄い紅茶の跡が残っている。


 母が今でも奥の部屋にいて、「遅かったね」と出てきそうだった。


 胸へ上がってきたものを、私は飲み込む。


 澪は何も言わず、窓を開けた。


 埃の匂いが、冬の空気と入れ替わる。


「ここで、母さんの手伝いを?」


「掃除と記録整理。あと、石を見て興奮しすぎる患者の鎮静」


「患者?」


「相談者。雫先生は患者って呼ぶなって怒った」


 澪が、ほんの少し笑った。


 その呼び方。


 《雫先生》。


 母を知っていた人の声だった。


 奥の研究室は、相談室よりずっと狭い。


 小型の分光器。結晶育成用の炉。石を固定するための治具。壁には組成試験用の透明な結晶片が、《S―01》から《S―09》まで並べられていた。


 その下に、完成媒体用の保管箱がある。


 C―00とC―01。二つの場所だけが空いていた。


「これは?」


「合成記憶結晶の試作媒体」


 澪はもう隠さなかった。


「石に残った強い感情を、いったん別の結晶へ移す。完全に消すんじゃない。距離を置くための技術」


「距離?」


「遺品に触るたび倒れる人がいる。事件の石を見ただけで、呼吸できなくなる人も。雫先生は、抱えきれない間だけ、感情を預かろうとした」


 私は透明な試験片S―03を見る。


 石の中に、薄い曇りが浮いている。


「あとで戻すの?」


「本人が望めば。少しずつ」


「望まなければ?」


「保管する」


「捨てないの?」


「捨てる決定を、雫先生は一度も他人に許さなかった」


 華乃とは違う。


 姉は石の履歴を洗い、完璧な資産へ変えている。


 母は悲しみをなくすのではなく、持ち主がもう一度触れられる日まで預かっていた。


 同じ技術。


 正反対の使い方。


 棚の中央に、小さなガラス瓶があった。


 琥珀色の液体の底へ、一粒の真珠が沈んでいる。


 ラベルには《酢酸・浸漬開始》と日付。七年前だ。


「クレオパトラの真珠」


 澪が言った。


「伝説では、女王が世界一豪華な宴を証明するため、巨大な真珠を酢に溶かして飲んだ。価値あるものを、一晩で消した」


「七年も浸けた真珠が、どうして残ってるの」


 瓶の中の真珠は、今も白い光を返している。


 本物の真珠層なら、酸で艶を失い、少なくとも表面は侵されているはずだ。


 澪は瓶をライトへかざした。


「外側を見て」


 真珠の周囲に、透明な境界がある。


 薄い合成結晶の殻。


 母は真珠そのものを、透明な媒体で覆っていた。


「酸に触れてない」


「うん。溶かす実験じゃない。守る実験」


 瓶の裏に、小さな紙が貼られている。


 母の字。


 《価値を壊すのは、一晩でできる》


 《守るには、境界と時間が要る》


 《感情も同じ》


 喉の奥が熱くなる。


 母は、痛みを真珠のように包もうとした。


 溶かすのではなく、酸が届かない場所へ一時的に置く。


 それなのに華乃は、透明な殻を、過去を見えなくするために使っている。


「母さんは、姉さんが技術を使うことに反対してた?」


「永久消去には」


「事故の日、何があったの」


 澪は瓶を棚へ戻した。


 右手の火傷を左手で覆う。


「その前に、見せるものがある」


 机の下に、鍵つきの引き出しがある。


 澪が古い鍵を差した。


 中には相談者ごとの封筒が並んでいた。


 家族を亡くした人。


 犯罪被害に遭った人。


 婚約指輪を見るたび、別れた日の声を思い出す人。


 母は石の種類ではなく、人の名前で記録を分けていた。


 《神代澪》の封筒は、一番奥にあった。


 澪はすぐには触れない。


「私の家、火事で全員死んだ」


 声は平らだった。


「父親と、母親と、弟。私は外へ出たあと、弟を助けようとして戻った。右手だけ焼いて、何もできなかった」


 指が、古い火傷の上で震える。


「目を閉じると、毎晩、扉の向こうで弟が呼ぶ。起きてても煙の匂いがした。食べても味がしない。寝たら火事を見るから、三日くらい起きてた」


 十一歳の澪。


 今より小さな体で、今より大きな悲しみを抱えていた。


「雫先生のところへ連れてこられて、私は頼んだ」


 澪が私を見る。


「全部、消してって」


 《白妃の涙》から聞いた声が戻る。


『いや。消さないで。やっぱり、返して』


「母さんは?」


「断った。忘れたら弟が二度死ぬとか、きれいごと言わなかった。ただ、“今のあなたに、永久の決定をさせられない”って」


 母らしいと思った。


 十一歳の澪へ、悲しみを抱えろとも、忘れるなとも命じない。


 決められる日まで、決定を預かる。


「だから一時移送を?」


「最初は一部だけ。眠れる程度に。私はそのあと、ここへ通った。結晶の扱いを覚えた。雫先生の最後の弟子になった」


「どうして私に言わなかったの」


 澪は笑おうとした。


 失敗した。


「雫先生が死んだ夜、私がここにいたから」


 胸の奥が冷える。


「私が、もっと消してって頼んだから」


「それで母さんが死んだの?」


「……今は、そこまでしか言えない」


 また、扉が閉じる。


 けれど黒百合商会で問い詰めたときとは違った。


 澪は私を拒んでいるのではない。


 自分が崩れない幅だけ、扉を開けている。


「分かった」


「怒らないの」


「怒ってる」


「どっち」


「話してくれなかったことには怒ってる。でも、十一歳のあなたが助けてって言ったことは、悪くない」


 澪の唇が震えた。


「雫先生は、私のせいで」


「まだ鑑定結果が出てない」


 私は封筒へ手を伸ばす。


「感情だけで、自分を犯人にしないで。《蒼哭》のとき、あなたが私に教えたことでしょ」


 澪はしばらく黙り、鼻をすすった。


「人の台詞を返してくるの、性格悪い」


「誰に習ったと思ってるの」


「私はもっと上品」


「それは偽物」


 ようやく、澪が少し笑った。


 封筒を開く。


 最初の紙には、母の手書き記録。


 《神代澪 十一歳》


 《家族喪失に伴う急性の感情負荷》


 《本人希望 永久消去》


 その文字には、赤い線が引かれている。


 横に母の追記。


 《永久消去は実施しない》


 《本人が選び直せる日まで、一時保管》


 二枚目は、事故当日の管理票だった。


 《管理番号 C―01》


 《名称 ファースト・クラリティ》


 《記憶提供者 神代澪》


 《移送率 七十三パーセント》


 《返還予定 段階実施》


 その下だけ、別の筆跡で書き足されている。


 華乃の字だ。


 《保管期限超過》


 《返還未完了》


 《保管媒体C―01 事故後所在不明》


 私は紙から顔を上げた。


 C―01なら、知っている。


 旧王家のダイヤモンド《白妃の涙》に刻まれていた番号。


 公開プロポーズの夜に聞いた絶叫は、澪が母を殺した夜の記憶ではなかった。


 母が澪から預かり、まだ返せていない、七十三パーセントの悲しみだった。


 そして、その悲しみを封じた石は二週間あまり後、《王冠競売》でもう一度売られる。


 澪の人生ごと、最高値をつけた誰かへ。


「真珠だけが持つ”生き物の傷”」

宝石の多くは鉱物ですが、真珠だけは貝という生き物が作る唯一の宝石です。体内に入った異物を、幾重にも重なる真珠層(ナクレ)で包み込むことで生まれます。つまり真珠は「痛みからできた宝石」。クレオパトラが酢に溶かして飲んだという伝説も、真珠の主成分である炭酸カルシウムが酸に弱いという実際の性質があってこそ成立する逸話です。美しさの裏に脆さがある、というのが真珠の面白いところです。

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