第8話 履歴のない黄色い石
同じ色、同じ重さ、同じ形。
それでも、片方だけが人を殺せる。
《黒百合商会》の特別鑑定室に並べられた二個の黄色いダイヤモンドを見て、依頼人はそう言った。
「物騒な比喩ですね」
華乃は眉一つ動かさない。
「比喩ではない」
男の名は鷹栖宗吾。港湾地区で複数の倉庫会社を経営し、表向きは文化財の輸送にも関わっている。どこまでが表なのかは、聞かない方がよさそうだった。
黒いスーツ。灰色の手袋。右頬に古い傷。
護衛を三人連れてきたのに、石を置く手だけが震えている。
「一つは妻が正規に相続した《黄陽》。もう一つは、先月死んだ男の金庫から出た石だ。盗難品か、密輸品か、保険金詐欺の道具かもしれん」
円形のトレーに、二個のペアシェイプが並んでいる。
どちらも約三カラット。濃い蜂蜜のような黄色。肉眼では、同じ原石から切り分けられた双子にしか見えない。
「なぜ混ざったのです」
「保管担当が消えた。ケースだけ残してな」
「警察へ届けるべき案件です」
「届ける前に、どちらが私の石か知りたい」
鷹栖は私を見た。
「妹さんは、触れば分かるそうだな」
秘密競売から一夜しか経っていない。
私が《紅王妃》の売却を止めた話は、もう灰色市場へ流れていた。事実より、使えそうな部分だけが速く広がる。
「私が読めるのは、石に残った感情の残響です」
「十分だ。妻の喜びが入っている方を選べ」
「もう一方は、あなたの所有物だと確定していません。保管しているだけの人から、読解の許可は受けられません」
「元の持ち主は死んでいる」
「死亡しても、所有権まで消えるわけではありません。相続人か、本来の所有者がいる可能性があります」
鷹栖の目が細くなる。
「金なら払う」
「心の履歴は、鑑定料金に含まれません」
声が震えなかったことに、少し驚いた。
あの公開プロポーズの夜の私は、救うためなら読んでいいと思っていた。《蒼哭》の鑑定では、恐怖を読んで呪いだと信じかけた。
力を使わないことも、鑑定の一部なのだ。
「生意気な子だ」
「未熟ではあります」
華乃が横から言った。
「ですが、今の拒否は正しい。私は物質と来歴を鑑定します。妹へ強要するなら、依頼は終了です」
鷹栖が黙った。
姉が私を庇った。
そう思った瞬間、華乃が付け加える。
「無資格の読心に頼る依頼人を、信用する理由がないだけです」
温まった胸へ、きれいに冷水をかけられた。
澪は鑑定台の端で、笑いをこらえている。
「姉妹そろって湿度調整が極端」
「聞こえています」
「聞かせてます」
華乃は無視して、二個の石を《左》《右》と仮称した。
最初に重量。
左、三・一八七カラット。
右、三・一九一カラット。
寸法差は〇・〇二ミリ以内。
分光では、どちらも窒素に由来する吸収を示した。天然のファンシー・イエローである可能性が高い。
「同じ原石ですか」
私が訊く。
「断定はしません。ただし、色帯の方向と窒素の集まり方が近い。少なくとも、似せるために選ばれた二石です」
華乃は左の石を黒い紙の上へ置き、斜めから光を入れた。
ガードルに、四か所の摩耗。
古い爪で長年留められていた跡だ。
右にも似た摩耗がある。だが、よく見ると深さが均一すぎる。
「右の爪痕は人工的につけられています」
「なぜ分かるの」
「宝飾品は、人間の生活に合わせて傷つくからです」
華乃は右の石を回した。
「本物の爪痕なら、利き手側、指輪の外側、衣服に触れる側で摩耗量が変わる。これは四方向が同じ深さです。裸石へ治具を当て、古い使用痕を模倣している」
鷹栖の護衛が顔を見合わせた。
姉は左のパビリオンを観察する。
「こちらには、赤い繊維が一片。絹です」
「妻の実家では、代々、赤い絹張りの箱に保管していた」
「それだけでは証拠になりません」
華乃は過去の保険写真を表示した。
《黄陽》が古い金のブローチへ留められている。石の中、七時方向に小さな羽根状の包有物。
左の石にも、同じ位置、同じ角度で白い羽根がある。
「左が《黄陽》です」
「間違いないな」
「現時点で確認できる資料上は。右は別石。正体は天然ダイヤモンドですが、来歴と所有権は保証しません」
澪が右の石へライトを当てた。
「こっち、偶然似てたんじゃないね」
「どうして?」
「ガードルの一部だけ、研磨が新しい。たぶん元のレーザー刻印を消した。なのに、古く見せるための爪痕は残してる」
華乃がうなずく。
「二石が混ざったのではありません。《黄陽》と入れ替える目的で、色、重量、寸法の近い石を用意した。右のファセット配置も、過去の保険写真へ近づけるよう再研磨されています」
「そこまでして、どうして二個ともケースに?」
「選ばせるためです」
姉の視線が私へ向いた。
「通常鑑定で区別できなければ、鷹栖氏はあなたに読ませる。誰かは、東雲凛香が同意を無視して能力を使うか試したかった」
背中が冷えた。
依頼ではない。試験だった。
石の真贋ではなく、私がどこまで他人の心へ踏み込む人間かを測るための。
もし触れていたら、結果が何であれ、私の能力と倫理の境界を相手へ教えていた。
鷹栖は左を手に取りかけた。
「触らないでください」
華乃の声に、手が止まる。
「まだ処理の確認が終わっていません」
姉が石をピンセットで挟んだとき、ガードルの一部が薄い手袋を裂いた。
赤い血が、華乃の人差し指に丸く浮いた。
「姉さん、手」
「続けます」
「切れてる」
「見れば分かります」
華乃は血を拭き、何事もなかったようにルーペを当てた。
眉も動かない。
痛みを我慢している顔ではなかった。
痛みそのものを、受け取っていない顔。
黒百合商会を訪ねた日、姉は紅茶に砂糖を四個入れていた。
甘さを感じていなかった。
今度は、傷の痛みまで。
「華乃先生」
鷹栖が苛立った声を出す。
「妻の石だと分かった。もう十分だ」
「不十分です」
華乃はガードルの裏側を示した。
針より小さな刻印。
C―06。
息が止まる。
王冠競売へ出る七個のうち、一つ。
「《黄陽》は、黒百合商会で履歴洗浄を受けています」
「凛香」
華乃の声が鋭くなる。
「管理番号は処理の事実を示します。処理理由まで、あなたが決めてはいけない」
「でも、消したんでしょ」
「ええ。依頼人本人の署名と、二度の意思確認を経て」
姉はそれ以上を話さなかった。
犯罪の痕跡を隠すためだけではない。自分から、石に残った何かを遠ざけてほしいと願った人もいる。
その事実は、華乃のしていることを正しくはしない。けれど、全部を同じ悪と呼ぶこともできなくした。
鷹栖が姉を睨んだ。
「どういうことだ」
「契約内容は、依頼人本人以外へ開示できません」
「依頼人は妻か」
「守秘義務があります」
「妻は半年前に死んだ!」
鷹栖の拳が鑑定台を叩いた。
左の石がわずかに跳ねる。
私は反射的に両手で受け止めた。
手袋越しでは、何も聞こえない。
所有権は鷹栖へ移っている。本人からの同意もある。
私は華乃を見る。
姉は止めなかった。
手袋を外し、《黄陽》へ触れる。
冷たい。
それだけだった。
結婚した日の喜びも、妻が父から受け取った誇りも、亡くなる前の恐怖もない。
長く人の手にあった石とは思えない、完全な空白。
「消えてる」
私は指を離した。
「奥様の感情は、一つも残っていません」
鷹栖の顔から怒りが抜けた。
「なぜだ」
華乃は答えない。
代わりに、石をケースへ戻した。
「この鑑定は終了します。右の石は警察と保険会社へ引き渡してください」
「待て。妻は何を消した」
「私が鑑定するのは石だけです」
「人間には興味がない、か」
「契約者の意思には興味があります」
一瞬だけ、華乃の声に温度が戻った。
「だから、死後も勝手には話しません」
鷹栖は何も言わず、護衛とともに部屋を出た。
扉が閉まったあと、私は姉の指へ消毒綿を押しつけた。
「痛くないの」
「質問の必要性が分かりません」
「必要だよ」
「鑑定に?」
「姉さんに」
華乃は手を引こうとした。
私は離さなかった。
傷は浅い。けれど、押さえても顔色一つ変わらないことの方が怖い。
「C―00のせい?」
「あなたには関係ありません」
「味も、痛みも消してるの?」
「帰りなさい」
姉の拒絶は、いつもより速かった。
そのとき、澪が黄色い石を入れていた革ケースを持ち上げた。
「これ、重さが変」
「何をしているのです」
「空のケースにしては、底が厚い」
澪は内張りの端へ薄いヘラを差し込む。
二重底の下から、小さな耐水紙が出てきた。
鷹栖が持ち込んだ二石の番号と、王冠競売の出品一覧。
その下に、処理手順らしい短い文章が印字されている。
《C―02〜C―08の移送完了を確認後、読取対象を処理》
《対象 東雲凛香》
《実行期限 王冠競売閉幕後》
喉が鳴った。
「処理って、どの意味」
澪の声から冗談が消えている。
華乃は紙を奪い、火へかざすように照明の前で透かした。
隅に、オルビスの透かし。
久世玄冬の会社だ。
「姉さん、知ってたの」
華乃は否定しなかった。
血の止まらない指で、紙を握りつぶす。
「これで分かったでしょう」
黒い瞳が、初めて隠さず恐れていた。
「王冠競売から手を引きなさい。あれは警告ではありません」
姉は私の名前が書かれた紙を見た。
「期限です」




