第5話 呪いは青く笑う
青いダイヤモンドには、呪いがよく似合う。
無色の石なら「永遠の愛」と呼ばれるのに、青くなっただけで人はそこへ血と破滅の物語を欲しがる。ホープ・ダイヤモンドも、持ち主を不幸にした石として語られてきた。
けれど澪は、その手の話を聞くと必ず鼻で笑う。
「呪いって便利なんだよ。原因を石に押しつければ、人間の欲と判断ミスを鑑定しなくて済むから」
華乃の商会を訪ねた翌日、私たちの前に置かれた石も、深い夜のような青をしていた。
依頼人は榊原家の長男・榊原冬也。三十代半ば、仕立てのよいスーツに、寝不足を隠せない目。
「祖父が残した《蒼哭》です」
彼は御影宝石鑑定室の机へ、プラチナの指輪を置いた。
二・八カラットほどのクッションカット。石の中に、青い炎を閉じ込めたような色が揺れる。
「一か月前、相続のため金庫から出して以来、家族に事故が続いています。弟は階段から落ち、母は車で接触事故。妻は夜中に石を見て、知らない女の声がすると……」
「医師には?」
「診てもらいました。疲労だろうと。ですが、昨日、妻が浴室で手首を切ろうとした」
御影先生の表情が険しくなる。
「まず石を隔離します。奥様には継続して医療機関の支援を。鑑定は、事故の原因を石だと断定するものではありません」
「分かっています。でも、処分するにしても、本物かどうかだけは知りたい」
冬也は私を見た。
「あなたなら、石に何が残っているか分かると聞きました」
炎上動画の影響は、こんな形でも届く。
私は手袋をしたまま答えた。
「許可なく感情を読むことはしません。それに、読み取れるのは事実ではなく残響です」
「私が許可します」
「所有者全員の同意が必要です」
冬也の口元が硬くなる。
以前の私なら、困っている人を救うためだと自分に言い聞かせ、触れていたかもしれない。けれど華乃のペンダントから、自分の記憶を無断で見せられた痛みがまだ残っている。
心の履歴は、鑑定士の所有物ではない。
「まず通常鑑定をします」
私たちはその日の午後、榊原家の屋敷も確認した。
丘の上にある洋館は、窓という窓を厚いカーテンで閉ざしていた。玄関には清め塩、廊下には護符、金庫室の前には新しい防犯カメラ。呪いを信じていないと言いながら、人は恐怖へ形を与えずにいられない。
冬也の妻・茉莉は、毛布を肩へかけて応接室に座っていた。手首には白い包帯が巻かれている。
「動画が届く前から、石が怖かったんですか」
私が尋ねると、茉莉はゆっくり首を振った。
「きれいだと思っていました。祖父が大切にしていたから、家族を守る石だとも。でも、動画を見た夜から、青い光が女の目みたいに見えて……。怖いと思うほど、見ないではいられなくなったんです」
私は石ではなく、彼女の顔を見た。
「触れれば、恐怖が残っているかもしれません。ただ、それを知っても原因が分かるとは限りません。途中でやめることもできます」
「お願いします。私が弱かっただけなのか、それだけ知りたい」
「弱さの鑑定はしません」
思わず、きっぱり言っていた。
「怖がったことは事実です。でも、それがあなたの価値を下げることはありません」
茉莉は包帯の上へ手を置き、小さくうなずいた。
金庫室では、指輪ケースの蝶番に新しい傷が見つかった。青いベルベットの内側だけ、周囲より埃が少ない。最近、別のケースへ入れ替えられた可能性がある。
呪いの前に、人の手が動いていた。
御影先生の監督下で、私は石を観察した。
比重、熱伝導、分光。ダイヤモンドであることに間違いはない。だが、青色の原因を示す吸収線が不自然だった。
「天然の青色ではなく、照射処理の可能性があります」
「祖父は、希少な天然ブルーダイヤだと」
「断定には追加検査が必要です。ただ、少なくとも過去の鑑定書と今の石では、寸法が〇・一ミリ違う」
「誤差では?」
澪が横から指輪を覗き込む。
「〇・一ミリを誤差で済ませるなら、爪も髪もまとめて切って体重計に乗れば?」
「澪」
「丁寧に言うと、別の石か、再カットされてます」
冬也は青ざめた。
家族全員の同意が届いたのは、その日の夕方だった。
私は石へ素手で触れる。
冷たい。
次の瞬間、何人もの恐怖が重なった。
青いドレスの女が廊下に立っている。
階段の上から誰かが見ている。
浴室の鏡に、血で文字が書かれている。
『返せ』
『次はお前だ』
『蒼哭を持つ者は、家族を失う』
心臓が速くなる。指を離しても、耳元で囁きが続いた。
「怖がってる」
私は呼吸を整えた。
「少なくとも三人。石を見るたび、同じ青い女を想像してる」
「やはり呪いが……」
「違う」
澪が即座に切った。
「凛香、その青い女、三人とも同じ角度で立ってた?」
私は記憶をたどる。
「同じ。左肩を前にして、顔が見えない」
思い返せば、恐怖の質までよく似ていた。人によって怖がり方は違うはずなのに、三人とも同じ瞬間に息を止め、同じ言葉を待っている。
私は石から受け取った感情を、石が発したものだと思いかけていた。
怖いものが見えたから、呪いだと名づけた。
それは、昨日まで私を笑っていた配信コメントと同じくらい雑な鑑定だった。
「階段も浴室も?」
「背景は違うけど、女の姿は同じ」
「じゃあ石が見せたんじゃない。全員が同じ絵を見せられた」
澪は冬也へ向き直る。
「ご家族に、呪いの画像か動画を送りつけた人がいる。青い女の元ネタを探せば、石より先に人間が出る」
調べると、家族の端末には一週間前から匿名の短い動画が届いていた。暗い廊下に青いドレスの女が立ち、《蒼哭を手放せ》という文字が浮かぶ。
恐怖は本物だった。
でも、石が生んだ恐怖ではない。人間が作った物語を、石が受け止めただけだ。
私は自分の背中が冷えるのを感じた。
感情を読めるからといって、その解釈まで正しいわけではない。
母が「声は手がかり」と言った意味を、ようやく少しだけ理解した。
匿名動画の青い女は、榊原家に伝わる肖像画を加工したものだった。冬也の曾祖母が舞踏会で着ていた青いドレス。家族なら一度は見たことがある姿だから、初めて見る怪異より深く心へ入り込む。
匿名動画の送信元は、榊原家の別荘にある古い通信端末だった。使用記録から、冬也の従弟・榊原直人が浮かぶ。
直人は家族信託の管理補助をしており、《蒼哭》の売却に反対する家族へ、呪いの噂を流していた。市場価格を下げ、知人の会社に安く買わせるつもりだったのだ。
警察の聞き取りで、直人は私を見るなり笑った。
「石が呪われていると言ったのは、そっちでしょう。動画で見ましたよ。触れば過去が分かるんでしたっけ」
「私は、この石が人を不幸にしたとは言っていません」
「でも恐怖は入っていた」
「ええ。あなたが入れた恐怖です」
言い切れたのは、澪が止めてくれたからだ。感情だけを読んでいたら、私は直人が用意した物語に、鑑定士の署名を与えていた。
直人の笑みが消える。
「石は嘘をつきません。でも、人は石に嘘を着せられる」
その言葉が、初めて自分の中で形になった。
だが、それだけでは説明できない。
「直人さんが動画を送ったのは認めました。でも、この指輪をすり替えたことは否定しています」
御影先生が報告書を置く。
照射処理された現在の石は、過去の鑑定書にある《蒼哭》ではない。
本物はどこにあるのか。
照射処理石を留めた台座には、爪を開閉した新しい工具痕があった。内側には、元の石よりわずかに薄い石を固定するため、透明な樹脂が足されている。すり替えは、専門の研磨業者なしには難しい。
さらに、直人の会社が二か月前、国外向け宝飾品の保険へ加入していたことが分かった。対象品の寸法は、過去の《蒼哭》の鑑定書と一致する。
その夜、直人が契約していた貸金庫を警察立ち会いで開けることになった。中から現れたのは、同じクッションカットの青いダイヤモンドだった。
携帯型分光器を当てる。
「Ⅱb型。ホウ素由来の吸収があります」
御影先生が低く言った。
「こちらが天然色の《蒼哭》だ」
直人は保険金詐欺も計画していた。照射処理石を“呪われた本物”として破損させ、保険金を受け取り、本物は国外で売る。呪いの噂は、家族が破壊や売却へ同意するよう追い込むためだった。
「最低」
私は呟いた。
「人間の欲を石に押しつけた、標準的な呪い」
澪は言いながらも、目は本物の《蒼哭》から離れない。
「凛香。これ、触ってみて」
「所有者の同意が――」
「警察と榊原家全員の確認は取れてる。問題はそこじゃない」
私は手袋を外し、本物へ触れた。
何もない。
恐怖も、喜びも、祖父が石を手に入れた日の高揚も。何十年も家族の金庫にあったはずなのに、指先へ返るのは、磨かれたガラスより静かな無だけだった。
《白妃の涙》と同じ。
不自然なほど、完璧な空白。
「履歴が消されてる」
私はガードルをルーペで追った。
肉眼では見えない位置に、小さな刻印がある。
C―04。
澪の顔から表情が消えた。
「C―01じゃない」
「四番目……?」
貸金庫には、加工費の請求書も入っていた。発行元は《黒百合商会》ではない。港の倉庫街にある小さな研磨業者だ。
ただし、請求書の備考欄には、同じ処理を受けた石の管理番号が並んでいた。
C―02。C―03。C―04。C―05。C―06。C―07。C―08。
計七個。
全件、処理項目は《履歴洗浄済み》。出荷先は同じだった。
三週間後に開かれる、玻璃ヶ浦最大の国際競売。
《王冠競売》。
その最終出品者欄には、東雲華乃の署名があった。
「ホープ・ダイヤモンドと”血の色に光る石”」
実在するホープ・ダイヤモンドは、紫外線を当てると、光を消したあとも数秒間赤く燐光を放つという珍しい性質を持っています。原因は石に含まれるごく微量のホウ素。この不純物のせいで石は青く発色し、同時にこの不思議な発光現象も生まれます。作中の《蒼哭》のように「青いダイヤには呪いが似合う」と語られがちですが、その正体はたいてい科学的に説明できる不純物の仕業——というのが、本作のこだわりどころです。




