第4話 真贋の魔女
母が亡くなった夜の記憶
澪の言葉は、刃物より鈍く、だから深く残った。
何をしたのかと尋ねても、彼女は「まだ話せない」としか言わなかった。怒鳴れば吐くと思った。泣けば抱えているものを渡してくれるかもしれないとも思った。
けれど母は、人の心を鑑定台へ無理やり載せてはいけないと教えた。
私は澪を責める代わりに、姉のもとへ行った。
玻璃ヶ浦の丘に建つ《黒百合商会》は、宝石店というより静かな要塞だった。黒い石壁。窓の細い鉄格子。正面には百合をかたどった銀の紋章がある。
受付で名前を告げると、白手袋の女性が一度だけ目を見開いた。
入口には空港より厳しい検査装置があり、持ち込んだ金属製品はすべて記録された。石を盗ませないためだけではない。ここへ来る客の中には、鑑定結果を盗みたい者も、書き換えたい者もいる。
壁には信用階級ごとの認証章が並ぶ。D、C、B、A、S。そして、最上段に黒い百合を刻んだSS級の章。
階級は才能の順位ではない。どれだけ大きな損失へ、自分の署名で責任を負えるかの順位だ。
私はまだ最下段。姉は、その制度の天井にいた。
「東雲凛香様。ご予約は」
「ありません。姉に会いに来ました」
「華乃代表は現在、三件の特別鑑定中です」
「待ちます」
通された待合室には、同じ場所にいるはずのない人々が並んでいた。
国立美術館の学芸員。高級スーツの老婦人。首元まで刺青を隠した大柄な男と、その護衛二人。
姉は依頼人を選ばない。
美術館も王族も、保険会社も灰色市場の仲介人も、同じ料金表と同じ鑑定基準で石を持ち込む。
「私が鑑定するのは石だけ。持ち主の善悪ではありません」
その言葉で、裏側の客からも《先生》と呼ばれている。
やがて奥の扉が開いた。
「全員、鑑定室へ」
華乃は私を見ても驚かなかった。
三組の依頼人と、なぜか私まで、一つの長い鑑定台の前へ座らされる。白い照明の下に、三つのトレーが並んだ。
第一の石は、深い緑のエメラルド。
美術館員が説明する。
「十七世紀の聖杯に使われた石です。売却前の報告書では、天然、コロンビア産、軽度のオイル処理のみ」
第二は、鳩の血を思わせる赤いルビー。
老婦人は震える手でブローチを置いた。
「夫が生前、非加熱だと言って購入したものです。相続のために確認を」
第三は、星の浮かぶ青いサファイア。
刺青の男がケースごと押し出した。
「本物か。それだけ見ろ」
姉は返事をせず、三つの石へ順に光を当てた。
エメラルドを顕微鏡へ。ルビーをペンライトへ。サファイアを指先で回転させる。
普通なら一件に一時間はかける鑑定を、姉は並行して進めていた。
「エメラルドは天然。産地特徴はコロンビアと矛盾しません。ただし、オイルではなく高分子樹脂による広範囲の充填があります」
姉は亀裂へ光を斜めから入れる。青紫の閃光が、細い傷の中を走った。
「過去の洗浄で樹脂が変色しています。現状のまま展示照明へ置けば、二年以内に外観が変わる可能性が高い。売却を止め、再処置を」
美術館員が青ざめてメモを取る。
姉はもうルビーを見ていた。
「天然コランダム。加熱痕あり。表面に達する亀裂へ鉛ガラス充填。非加熱という前鑑定は誤りです」
「そんな……夫は、絶対に本物だと」
「石は本物です」
姉は老婦人へ視線を合わせた。
「処理を隠した売り手が偽物だっただけです。ご主人の思い出まで偽物にはなりません」
一瞬だけ、声がやわらかかった。
私は姉の横顔を見た。冷たい人だと思っていた。その方が、捨てられた理由を整理しやすかった。
第三の男が苛立って指を鳴らす。
「俺のは」
「天然スターサファイア。拡散処理なし。重量二十八・四カラット」
「なら問題ないな」
「いいえ」
姉は台座の裏を拡大し、モニターへ映した。石の縁に、古い爪で擦れた三日月形の摩耗がある。
「この摩耗と再研磨の位置は、昨年ジュネーヴで盗難届が出た《冬星》の保険写真と一致します」
護衛の肩が動いた。
「持ち主の善悪には興味がないんじゃなかったか」
「ええ」
姉は鑑定書を男の前へ滑らせた。
「だから、あなたを犯罪者とは鑑定しません。ただし、この石は盗品の疑いが極めて高い。所有権が確定するまで、当商会の保全庫で預かります」
「断ったら?」
「この部屋の扉が、警察の到着まで開かないだけです」
姉は微笑みもしなかった。
男はしばらく姉を睨み、やがて舌打ちして椅子へ戻った。
三件、十七分。
美術館員も老婦人も、危険な男でさえ、姉の言葉に従った。
退室前、老婦人が受付で鑑定料を尋ね、顔色を変えた。相続税のために石を手放す可能性があるらしい。
「請求先は、前鑑定を発行した販売会社へ」
華乃は書類から目を上げずに言った。
「処理を隠した鑑定書には保証責任があります。支払いを拒む場合、黒百合商会が訴訟費用を負担します」
「でも、私の夫はもう……」
「ご主人が信じた石を、あなたまで疑う必要はありません。疑うべきは、説明を省いた人間です」
老婦人は何度も頭を下げた。
次に姉は秘書へ、盗難サファイアを警察ではなく保険会社の保全担当へ引き渡すよう指示した。持ち込んだ男が盗んだと決めつけず、石だけを正しい手順へ戻すためだ。
冷酷なのではない。
姉は、感情を挟まなくても人を守れる制度を信じている。
そのことが、かえって私を苦しくさせた。
それがSS級。
信用階級の頂点。世界に五人。日本には一人だけ。
強いからではない。姉が署名した鑑定書なら、国家も保険会社も競売場も損失を引き受ける。その責任の重さが、人を黙らせる。
「用件は」
三組が退室したあと、姉は手袋を外した。
「母さんの研究について聞きたい」
「帰りなさい」
「C―01って何?」
姉のまぶたが、ごくわずかに動く。
「宝生ルカとの公開鑑定は見た。《白妃の涙》には、未知の層がある。修復責任者は母さん。備考には感情負荷の一時移送って書いてあった」
「公開を許可されていない記録です」
「母さんの名前を口にするなって、どうして?」
「死者の研究を、炎上の燃料にさせないため」
「本当にそれだけ?」
姉は答えず、隣室へ移った。私は追う。
そこは応接室だった。窓から港が見え、黒い海に夕方の光が一本だけ伸びている。秘書が紅茶を置くと、姉は角砂糖を一つ、二つ、三つ、四つと入れた。
「そんなに甘いの、好きだった?」
「疲れているだけです」
姉は一口飲み、何の表情も見せない。
私は自分のカップへ一つ入れた。十分甘い。姉の紅茶は、たぶん菓子より甘いはずだった。
子どもの頃の華乃は、苦いものが好きだった。母が焼いた焦げ気味のクッキーを私が残すと、いつも代わりに食べた。砂糖を入れた紅茶を「香りが死ぬ」と嫌っていた。
「いつから?」
「何がです」
「甘さが分からなくなったの」
姉はカップを置いた。
「質問の意味が分かりません」
否定ではなかった。
「澪が、母さんを殺したって言った」
角砂糖をつまむ姉の指が止まる。
「神代澪から離れなさい」
「知ってるんだね」
「あの子の言葉を信じてはいけない」
「姉さんの言葉なら信じられると思う?」
黒い瞳が私を射抜いた。
七年間、聞きたかったことが喉まで上がる。
「母さんが死んだあと、どうして私を置いていったの」
「必要だったからです」
「何に?」
「あなたを生かすために」
「分かるように言って」
「分からなくていい」
その言い方が、昔と同じだった。
父が破産した夜も、母の葬儀の日も、姉は何も説明しなかった。正しい答えだけを選び、私が納得する権利を置き去りにした。
「石の履歴を消してるの?」
私は訊いた。
「《白妃の涙》みたいに、持ち主の感情を削って、完璧な石にして売ってる?」
「推測を事実の形で口にしないで」
「じゃあ否定して」
沈黙。
姉の胸元で、黒いペンダントが揺れた。
昨日から気になっていた。黒曜石のように見えるが、光の吸い方が不自然だ。表面に傷一つなく、《白妃の涙》と同じ、冷たい完璧さを持っている。
留め金の脇に、微細な刻印があった。
C―00。
「それも、母さんの研究?」
「触らないで」
姉が言うより先に、私はペンダントへ指を伸ばしていた。
素手ではない。薄い手袋越しだった。
それでも、声は洪水のように流れ込んだ。
暗い玄関。雨の匂い。幼い私は、旅行鞄を持つ華乃のコートをつかんでいる。
『姉さん、行かないで』
華乃は私の指を一本ずつ外した。
『ここにいれば安全だから』
『私を置いていかないで』
胸を裂いたのは、私自身の泣き声だった。
けれど石の奥には、もう一つの感情があった。
私より激しく泣いているのに、一滴も涙を流せない誰かの絶望。
雨の中、華乃は門を出たあと、何度も振り返っていた。幼い私は玄関で泣き崩れ、顔を上げなかったから知らなかった。
『帰りたい』
『でも、戻ればあの子まで連れていかれる』
『私を嫌いになって。そうすれば、追ってこない』
言葉ではない。石へ押し込められた決意と恐怖が、意味になって胸へ流れ込む。
華乃の感情だ。
姉は私の手を払い、ペンダントを握りしめた。白い指に力が入りすぎて、関節が青くなる。
「二度と触らないで」
初めて、姉の声が震えた。
私は息を整えながら、C―00を見る。
《白妃の涙》がC―01。
なら、これはその前に作られたもの。
「姉さん」
喉が乾いて、声がうまく出ない。
「その石、私の記憶を消すためのものなの?」
華乃は答えなかった。
ただ、砂糖を四つ入れた紅茶を飲んだ。
甘さを感じていない人の顔で。
専門用語の補足説明
• 再研磨
ー傷を消すために石を削り直す処理。美しくなるが、来歴が消えるという重大な欠点がある。
• 合成ダイヤ(CVD/HPHT)
ー人工的に作られたダイヤ。天然




