第19話 返してほしい記憶
悲しみは、痛みだけでできていない。
失った人の声。笑い方。手の温度。
それらを愛していた証拠が、戻ってこない現実と触れたとき、悲しみになる。
だから悲しみだけを消そうとすれば、愛していた時間まで削れてしまう。
「最初は五パーセント」
澪が《白妃の涙》を固定具へ載せた。
「異常が出たら即時停止。心拍百四十、呼吸二十八、自己認識の混乱が三十秒以上。どれか一つで中断」
「説明が手術前みたい」
「人の脳へ七年前の感情を戻す。グミの味を変える実験じゃない」
「グミなら気楽だった」
「ルビー味を勝手に苺味へ変えたら訴える」
乳白色結晶をつけたままでも、澪の毒舌に少しずつ揺れが戻っている。
許可を出したことで、切り離した感情と現在の意思の境界が緩み始めたのかもしれない。
工房の扉を内側から封鎖する。
ルカが観察室で記録を取り、御影先生が通信越しに生体値を監督する。
華乃へは通知を送った。
返信はない。
「本当に始めるぞ」
御影先生の声がスピーカーから落ちる。
「凛香。お前は読むだけだ。返そうとするな」
「分かってます」
「今の間は、分かっていない者の間だ」
「師匠、弟子への信用が宝石相場より変動激しい」
「澪君。止める側が増えたと理解してくれ」
私は右手の手袋を外した。
左手は、澪の手を握るために残す。
「触るよ」
「確認しすぎ」
「同意は、一回取れば永久じゃないから」
澪が一度、深く息を吸う。
「許可する」
指先を《白妃の涙》へ置いた。
冷たさの直後、炎が来た。
黒い煙。
喉を焼く熱。
扉の向こうで、小さな男の子が泣いている。
『お姉ちゃん』
十一歳の澪は、右手で熱い取っ手をつかむ。
皮膚が焼ける匂い。
誰かが背後から抱き止める。
弟の声が遠くなる。
「澪、今どこにいる?」
私は現在へ声を投げた。
「王冠館、地下二階、調整工房」
「年齢は」
「十九」
「目の前にいるのは」
「触っただけで泣く、湿度の高い鑑定士」
「正常」
「悪口を基準にしないで」
第一段階、五パーセント。
澪の心拍は百二十六。
呼吸は速いが、自己認識は保たれている。
石の奥には、火だけではないものがあった。
朝、弟が焦がしたトースト。
父が下手な口笛で起こす音。
母が澪の髪を結ぶとき、左右をいつも間違えたこと。
家族を失った悲しみは、家族がいた幸福と同じ形をしている。
私は一度、石から指を離した。
澪の目から涙が落ちた。
乳白色結晶をつけてから、初めての涙だった。
「続ける?」
「……続ける」
「今の同意?」
「今の。聞き返すたび腹立つ程度には」
第二段階。
五パーセント。
研究室の白い壁。
母が十一歳の澪へ、透明な結晶を見せている。
『悲しい気持ちを、なくすんじゃないの』
『じゃあ、何するの』
『今のあなたには重すぎる分だけ、ここで預かる』
『いつ返すの』
『あなたが返してって言ったとき』
『言わなかったら?』
母は少し考えた。
『返してほしくないって、自分で決められるようになるまで待つ』
記憶の中の澪が泣きながら怒る。
『消してよ!』
『消すんじゃない』
母は小さな手を両手で包んだ。
『あなたが受け取れる日まで、預かるの』
現在の澪の指が、私の左手を強く握る。
心拍百三十八。
上限に近い。
「止める」
「まだ」
「二段階で十パーセント。今日はここまで」
「このまま終わったら、また破棄を選ぶ」
「選んでもいいって言った」
「今は、返してほしい」
初めて、澪の声に願いがあった。
「弟の顔が途中で切れてる。雫先生の声も。ここで止めたら、また失う」
「一度に戻したら、澪が壊れる」
「じゃあ、第二受取者を使う」
暗号の欠けた一行。
《単独返還を禁ず。第二受取者の――》
私の指へ負荷が流れた瞬間、制御端末が二人分の生体反応を認証した。暗号欄の封印が外れ、欠けていた続きが表示される。
《第二受取者の同意および現実定位を必須とする》
数字ではなかった。
安全値が記録から抜けていたのではない。悲しみの量は人ごとに違うから、母は固定の正解を作らなかったのだ。
第二受取者は、本人が今いる場所と、戻ってきた記憶の違いを一緒に確かめる。必要なら、あふれた負荷の一部を預かる。
母は最初から、感情を一人へ戻すつもりではなかった。
処置に立ち会い、戻ってきた痛みを現実につなぎ留める人。
記憶を同じ量だけ受け取るのではない。
負荷があふれたとき、一部を別の感情系へ逃がす緩衝者。
私の力は、石の感情を読む。
読むというのは、一方通行ではなかった。
これまでだって、石へ触れるたび、他人の悲しみが自分の痛みになった。
「私が受け取る」
御影先生の声が飛ぶ。
『駄目だ! 理論上の話と実行は別だ』
「私なら流れを感じられる」
『感じられるから危険なんだ。自分と他人の境界が――』
「先生」
澪がスピーカーへ言う。
「私が許可する。凛香も自分で決めてる。二人とも止められないなら、せめて数値を見て」
『君たちは、師匠の胃を担保に何を落札する気だ』
「私の記憶」
沈黙のあと、御影先生が低く息を吐いた。
『追加は三パーセントずつ。凛香の心拍も上限を設定する。異常が出たら私が電源を落とす』
私は澪と向き合った。
「本当にいい?」
「確認回数、もう課金していい?」
「あとで払う」
「高いよ」
もう一度、《白妃の涙》へ触れる。
今度は流れを止めず、自分の方へ少し開いた。
三パーセント。
澪が現在地と自分の名前を答え、心拍が百二十まで下がるのを待つ。
もう三パーセント。
今度は私が、御影先生の問いへ答える。自分の名前、年齢、ここへ来た目的。澪の記憶と私の記憶が混ざっていないことを、一つずつ確かめる。
最後に二パーセント。
返還率が合計十八パーセントへ達した瞬間、事故の奥に固まっていた負荷がほどけた。
火が胸へ入る。
弟の声。
助けられなかった右手の痛み。
白衣の母が倒れる光景。
澪の罪悪感が、私の記憶と重なった。
母を失ったのは、私も同じだ。
けれど、同じ悲しみではない。
私は娘として母を失った。
澪は、自分の願いが母を殺したと思って七年を生きた。
違う痛みを、同じだと奪わない。
ただ、隣で重さを持つ。
「凛香」
澪の声が遠い。
「ここにいる」
「名前は?」
「東雲凛香」
「私にとって?」
答えを私が決めてはいけない。
「それは澪が思い出して」
石の中で、事故の最後が開いた。
華乃が設定を百へ上げる。
母が戻ってきて、レバーへ手を伸ばす。
オルビスから送られた《白妃の涙》は、すでに別の感情で飽和している。
警告灯。
爆発音。
母は澪と華乃を隔離扉の外へ押し出した。
『雫先生!』
『私のせいで!』
『違う』
母は結晶を両手で固定した。
熱で白衣が焦げても、手を離さない。
『これは、私が選ぶの』
澪へ向けた最後の言葉だった。
『あなたのお願いを聞いたからじゃない。二人を生かしたいから、私が選ぶ』
華乃へ視線を移す。
『華乃、凛香を――』
光が全てを白く塗りつぶした。
私と澪は同時に手を離した。
工房の床へ座り込む。
右手の指先が自分のものではないように震え、口の中に煙の味が残っている。澪には見えていない弟の赤い靴が、私の視界の端を何度も横切った。
「それ、私の記憶」
澪が荒い息の間から言う。
「分かってる。赤い靴、玄関の左」
「違う。右。混ざり始めてる」
澪が私の頬を両手で挟んだ。
「ここは?」
「王冠館、地下二階」
「私は?」
「神代澪。十九歳。グミを食事扱いする」
「正常。最後の一個は余計」
今度は澪が、私を現実へつなぎ留める側になった。
呼吸が合わない。
涙と汗で、どちらの顔もひどいことになっていた。
澪が何度も息を吸い、右手の火傷を見つめる。
「私が、殺したんじゃない」
「うん」
「雫先生は、私のせいじゃなくて、自分で」
「選んだ」
「それ、救いみたいに言わないで。雫先生が死んだことは変わらない」
「分かってる」
「華乃が設定を変えた責任も」
「消えない」
澪は泣いたまま、少し笑った。
「そこ、きれいにまとめないの、あんたらしい」
「鑑定書なので」
「人のトラウマ十八パーセントくらい持ってくとか、距離感バグってるんだけど」
「半分じゃないから許して」
「割合の問題じゃない」
「返してほしい?」
「今は預ける」
その一言は、母の研究と同じ形をしていた。
消すのではなく、選んで預ける。
澪は首元の乳白色結晶を外した。
そこへ封じられていた私への感情が、緩やかに戻る。
琥珀色の目が揺れた。
次の瞬間、澪は私の肩を両手でつかむ。
「ばか!」
「戻って最初がそれ?」
「勝手に危険負荷を引き受けるな! 湿度どころか浸水! 脳内の排水工事から始めろ!」
「大切だった証拠、戻った?」
澪は真っ赤な目で睨む。
「今すぐ返品したい程度には!」
その怒鳴り声が嬉しくて、また泣きそうになった。
警報が鳴った。
《白妃の涙》を載せた固定台が、自動で床のレールへ沈み始める。
「何これ」
澪が制御盤へ飛びつく。
「中央結晶炉への搬送命令。管理者権限、東雲華乃」
観察窓の遮蔽板が閉じ、工房中の端末へ華乃の顔が映った。
『C―01への無許可返還を確認しました』
「許可ならある」
澪が署名端末を掲げる。
『管理者の安全承認がありません』
「姉さん、止めて!」
『夜明けまでにC―01の残留負荷を完全消去します。同時に、C―02からC―08までの全媒体を最終安定化する』
「完全消去したら、母さんの感情も、姉さんの恐怖も戻せない!」
『戻す必要はありません』
華乃の顔は、映像の中でも白かった。
『悲しみは、保管するから価値が生まれるものではない』
結晶炉の起動時刻が表示される。
午前五時四十分。
夜明けまで、あと六時間。
《白妃の涙》は暗い搬送路へ消えた。
澪の悲しみと、母の最後の選択と、華乃が泣けなかった恐怖を載せたまま。




