第18話 澪は私を忘れる
人を忘れることと、その人へ向けた感情を失うことは、同じではない。
名前も、声も、好きな菓子も覚えている。
ただ、その全部が自分にとって大切だった理由だけが消える。
それは記憶喪失より、ずっと精密な別れだった。
華乃が残した上級通行証で、私は王冠館地下の調整工房へ入った。
競売まで二十六時間。
結晶炉は低い唸りを響かせ、C―02からC―08までの七石が透明な固定具へ並んでいる。
その奥で、澪が《白妃の涙》の接合装置を調整していた。
白い作業着。銀色の髪は後ろで束ねられ、首元の乳白色結晶が一定の間隔で淡く光っている。
「無断入室」
澪は振り向かずに言った。
「通行証が開けた」
「鍵が開くことと、歓迎されてることは別」
「今日、それを学んでるところ」
作業台へ近づくと、澪が反射的に私の右手をつかんだ。
「素手で固定具へ触らないで。残留負荷が漏れてる」
厚手の手袋を引き出しから取り、私の手首へ巻く。
指先を二重にして、テープの端を内側へ折る。
C級資格審査の朝と、まったく同じ巻き方だった。
作業が終わると、澪は自分の手を見た。
「何」
「私が聞きたい」
「手順を覚えてただけ」
「私がテープの端でかぶれることも?」
「データとして知ってる」
「どうして知ろうと思ったかは?」
「残ってない」
「初めて会った場所は?」
「玻璃ヶ浦国際競売場。《白妃の涙》を返せと言った」
「私の第一印象」
「触っただけで倒れる、鑑定士として運用難度の高い人間」
「今と変わらないね」
「評価を更新する感情がない」
「私が泣いたとき、いつもどうした?」
澪は数秒考えた。
「水を渡す。手袋を確認する。視界に入る人間を追い払う」
「慰めたことは?」
「記録上、ない」
「そこは正しい」
思わず笑うと、澪は理由が分からない顔をした。
事実は全部残っている。
でも、二人で同じ出来事を笑った空気だけがない。
澪は平らに答え、装置へ戻る。
机の隅には、赤いルビーグミが二袋あった。
一袋は開封済み。
もう一袋には、油性ペンで《湿度対策用》と書かれている。
「それ、私の?」
「購入履歴では二袋買う習慣があった。理由は不明」
「一袋、いつも私に押しつけてたから」
「非効率」
「自分でやってたんだよ」
「感情がある人間の行動、費用対効果が低すぎ」
悪口だけは変わらない。
でも以前の澪なら、自分で言って先に笑った。
今は正しい文章を読んだだけの顔をしている。
私は申請書の写しを作業台へ置いた。
「C―01を永久破棄したいって、本気?」
「署名時も、移送後も同じ回答」
「どうして」
「理由は三つ。第一に、七年前の負荷を返せば私は再び日常生活を失う可能性がある。第二に、《白妃の涙》へ残る感情はオルビスに狙われている。第三に、あなたが追う」
澪はオルビスの内部指示を端末へ出した。
《読取対象・東雲凛香》。
《王冠競売閉幕後に処理》。
《C―01が残存する場合、対象は回収を継続すると予測》。
久世は、私の性格まで取引資料にしていた。
「私?」
「C―01が残る限り、東雲凛香は危険な場所へ来る。《黄陽》の鑑定で処理期限まで設定されたのに、学習しない」
「そこまで分かってるなら、来ないように説得すればいい」
「説得で止まる人間なら、《白妃の涙》へ素手で触って世界配信されてない」
「事故です」
「その後は全部、自発的な事故」
少しだけ、以前の澪が覗いた気がした。
けれど琥珀色の目は冷えたまま。
「私を守るために、私を大切だと思う気持ちを外したの?」
「その感情が残ったままでは、あなたを守りたいから破棄するのか、自分が思い出したくないから破棄するのか、区別できない」
「区別した結果は?」
「どちらも正しい。だから破棄する」
「それ、華乃に言われた?」
「華乃は反対した」
予想していなかった答えだった。
「姉さんが?」
「二十四時間の一時移送までしか許可しない。永久破棄には、元の感情を戻した状態で三度目の署名が必要だと言った」
「じゃあ、どうして今の処置を」
「私が無断でC―01を切ろうとしたから。華乃は刃を取り上げて、“感情に追い詰められた状態の永久決定は認めない”って」
母が十一歳の澪へ言った言葉と、ほとんど同じだった。
華乃は母の技術をねじ曲げた。
それでも、母から受け継いだ境界を全部捨ててはいない。
華乃は澪の感情を奪ったのではない。
澪が自分で選ぼうとする時間を、危険な方法で作った。
だからこそ、簡単に「元へ戻せばいい」と言えなくなる。
「返還値を取りに行くって言ってたよね」
「入手した」
澪は端末へ数式を表示した。
移送率七十三パーセント。
返還は一度に五パーセント以下。
各段階で心拍、呼吸、自己認識を確認。
ただし最後の一行だけが暗号化されている。
《単独返還を禁ず。第二受取者の――》
続きが欠けていた。
「第二受取者?」
「雫先生は、私一人へ戻すつもりじゃなかった可能性がある」
「誰と分けるの」
「記録がない。だから安全に返せない。破棄が合理的」
「分からないから捨てるのは、母さんのやり方じゃない」
「雫先生はもういない」
短い言葉が、鋭く刺さった。
「死者の思想を守って、生きている人間が壊れる必要はない」
「でも、今の澪は悲しみだけじゃなくて、私との時間まで外してる」
「一時的」
「その状態で永久破棄を決めるの?」
「だから二度確認した」
澪は装置横の細長いケースを開く。
中に、宝石用の切断刃が収められていた。
ダイヤモンドを固定層ごと薄く切るための、円形の刃。
C―01を破壊するなら、それを使う。
「どいて」
私は装置の前に立った。
「どかない」
「現在の管理責任者は私」
「《白妃の涙》の二重立会人は私」
「面倒な資格を取ったね」
「澪がいなくなった日にね」
首元の乳白色結晶へ手を伸ばす。
あれを外せば、澪の感情は戻る。
そう思った瞬間、冷たい金属が私の喉元へ向けられた。
澪が切断刃の柄を握っている。
刃は回転していない。
それでも、一歩進めば皮膚へ届く距離だった。
「外さないで」
声は平らなのに、握る指だけが白い。
「澪」
「私は脅されてない。洗脳もされてない。今の私は、思い出さない方を選んだ」
「今のあなたは、選ぶための感情を外されてる」
「昔の私の感情だけを本物扱いして、今の私を偽物にするの?」
答えられなかった。
宝石なら、処理前の状態が原型とは限らない。
加熱されたルビーも、再カットされたダイヤも、その後の姿を偽物とは呼ばない。
けれど処理を隠せば、鑑定書は不完全になる。加熱後の石を本物と呼ぶには、何を受け、何が変わったかを知ったうえで、持ち主が選べなければならない。
澪はいま、自分に処理が施されていることを知っている。
それでも、処理前の自分だけを原型として押しつける権利が、私にあるのか。
人間だけ、以前の感情を持つ姿が「本当」だと決めていいのか。
「私があんたを大切だったことは、記録にある」
澪が言う。
「でも記録は命令じゃない。戻すかどうかは、今の私が決める」
私は首元へ伸ばした手を下ろした。
「分かった」
「諦める?」
「勝手には戻さない」
澪の指が、ほんの少し緩む。
「その代わり、今のあなたが本当に望んでることを確認させて」
「確認済み」
「華乃の書式で二回。私のやり方では、まだ一回も」
「心を読むつもり?」
「許可なくは読まないって、今日宣言した」
「配信、見た」
「感想は?」
「第三石を見抜くまで十一分四十秒。遅い」
「そこ?」
「でも、誤鑑定よりはまし」
澪は切断刃をケースへ戻した。
その直後、結晶炉の警告灯が点滅した。
澪は考えるより早く私の前へ出て、熱を持った固定具から遠ざける。自分の左腕を盾にする位置だった。
「危ない」
「それ、私の台詞」
澪は自分の動きを見下ろした。
私を守りたい感情は結晶へ移したはずなのに、体は守る順番を覚えている。
「行動記憶の残存」
澪は分析するように呟く。
「それだけ?」
「今は」
乳白色結晶へ指を触れる。
その仕草だけ、わずかに迷っていた。
「感情を戻したら、私はまたC―01を破棄したくなくなるかもしれない」
「うん」
「火事を思い出して、眠れなくなるかもしれない」
「うん」
「雫先生を死なせたと思って、あんたの隣にいられなくなるかもしれない」
「それでも、選ぶのは澪」
「戻さない選択も認める?」
喉が詰まった。
それでも、頷いた。
「認める。嫌だけど」
「顔に出すぎ」
「感情があるので」
「湿度高い」
その言葉に、初めてほんの少しだけ、澪の口元が歪んだ。
笑ったのか、筋肉が過去の形を覚えていただけかは分からない。
澪は乳白色結晶を外さなかった。
代わりに、《白妃の涙》の固定ケースを私たちの間へ滑らせる。
「C―01に残ってる私を見て」
「いいの?」
「申請書へ追加する」
澪は端末を開き、自分の署名を入れた。
《感情残留情報の読取および返還可否の鑑定を、東雲凛香へ依頼する》
それから私をまっすぐ見た。
「私を鑑定して」
琥珀色の目に、まだ温度はない。
「今度は、私が許可する」




