第17話 手袋の鑑定士
他人の心へ触れられることと、触れていいことは、同じではない。
その違いを、私は澪に忘れられてから知った。
《東雲凛香へ向けた愛着、信頼、保護衝動の全て》
澪の申請書に書かれた一文は、翌朝になっても頭から離れなかった。
御影宝石鑑定室の机には、白い手袋が三種類並んでいる。
薄手の綿。
樹脂を重ねた検査用。
感情の残響をほとんど通さない、澪が作った厚手の手袋。
私は一番厚いものへ指を入れ、手首をテープで巻いた。
「朝からずいぶん重装備だな」
御影先生が眼鏡越しに見る。
「今日から、これで鑑定します」
「能力を使わないつもりか」
「許可がない限りは」
母の研究室で、澪の封筒を開いた。
《白妃の涙》へ触れ、澪の絶叫を読んだ。
どれも真実へ近づくために必要だったと思っている。
でも、必要だったことと、許されたことも同じではない。
私は澪の悲しみを知るたび、理解したつもりになった。
本人が忘れたいと願う可能性を、心のどこかで「間違い」と決めていた。
「極端に走るな」
御影先生は一枚の依頼書を差し出した。
「力を捨てるのと、使い方を決めるのは別だ。ちょうど、面倒な相手から実技の申し込みが来ている」
端末の画面で、宝生ルカが派手に手を振っていた。
『おはよう、炎上界の後輩。王冠館から条件が出たよ』
「条件?」
『あなたを《白妃の涙》の対立鑑定士として残すなら、感情読解なしでもB級相当の技術があると公開確認しろって。久世会長、昨日の検査でよほど腹が立ったみたい』
「公開?」
『非公開でやったら、あとで“霊感少女を特例で入れた”って言われる。だから私が相手する。三石、二十分。負けたら王冠館の上級区画へ入れない』
「勝ったら?」
ルカが赤い唇で笑う。
『あなたの異議申立てを、私のA級署名で保証する』
断る理由はなかった。
一時間後、鑑定士協会の公開検査室へ三個の青いサファイアが並べられた。
配信の視聴者数は、開始前から八十万人を超えている。
「本日の《オープン・ルーペ》は特別編!」
ルカがカメラへ指を立てる。
「テーマは、触れなくても鑑定士か。東雲凛香さんは、石の感情を読むという主張を封印し、通常鑑定だけで三石の正体と処理を見抜きます」
コメント欄が流れる。
《能力なしで何が残る?》
《逃げただけでは》
《華乃先生に勝てるわけない》
《能力を使わないなら、最初から普通の鑑定士》
その一行だけは、悪口に見えなかった。
普通の鑑定士。
ルーペを使い、測定し、間違えれば責任を負う。ずっとなりたかったものだ。力を失えば何も残らないと、自分で思い込んでいたのかもしれない。
私は両手をカメラへ見せた。
厚い手袋の手首には、御影先生の封印印。
「先に一つ、決めます」
マイクへ向かう。
「私はこれから、持ち主本人の許可なく、石に残った心の履歴を読みません」
会場が静かになった。
「事件性があっても?」
ルカが問う。
「命に関わる緊急時は別です。でも、知りたいから触ることはしない。感情は証拠ではなく、その人のものです」
「そのせいで負けても?」
「負けた理由を、能力が使えなかったせいにはしません」
ルカの目から配信用の笑みが消える。
「了解。じゃあ、鑑定士同士でやろう」
開始のベル。
第一石は二・三カラットのオーバル。
透明度は高く、濃い青が中心から外へ伸びている。十倍ルーペでは、直線的な成長帯と細い針状包有物。偏光器の間で回すと、二色性がはっきり出た。
天然サファイア。
加熱を示す決定的な所見はない。
第二石は三・一カラット。
肉眼では第一石より鮮やかだが、液浸するとファセットの縁へ青色が濃く集まって見えた。表面近くにだけ、インクを染み込ませたような色帯がある。
「表面拡散」
ルカと声が重なる。
無色に近い天然コランダムの表面へ、着色元素を拡散させた処理。
再研磨すれば色が薄くなる可能性があり、開示が必要だ。
ルカは《処理開示のうえ流通可》と三秒で書いた。
私はガードルの小さな欠けを測り、《再研磨による色抜けの可能性を保証書へ追記》と加える。答えは同じでも、どこまで責任を負うかが違う。
「慎重すぎない?」
「高値で買ったあと、爪直しで色が消えたら誰が払うの」
「はい、東雲さんの保証額が一段上がりました」
ルカは軽く言いながら、自分の答案にも同じ注意書きを足した。勝負中でも、正しい指摘は取り込む。そこがこの人の強さだった。
ここまでは同点。
第三石は、二・八カラットのクッションカット。
均一な青。目立つ包有物はない。
紫外線反応は弱く、屈折率も天然サファイアの範囲。
ルカが顕微鏡を覗き、すぐに答案へ書く。
「合成。フラックス法」
私は急がなかった。
内部に見えるのは、薄い羽根状の筋と、小さな金属光沢の点。
フラックス法合成石に見える。
けれど羽根状の筋は、石の内部ではなく、表面へ沿っていた。
焦点を上げる。
筋の端が、研磨面のわずかな凹みに入り込んでいる。
「表面被膜」
「え?」
ルカが顔を上げる。
私は石を低い角度から照らした。
青い反射の一部が、油膜のように虹色へ変わる。
石そのものは天然の淡色サファイア。
表面へ青い薄膜を形成し、その上から合成石に見える包有物模様まで付けてある。
「天然石を合成石に見せた?」
ルカが眉を上げる。
「普通は逆でしょ」
「出品者が、相続税評価を下げるために合成石として申告した可能性があります。被膜を剥がせば、天然石の色と表面状態が変わる。現状のまま追加分析が必要」
私は答案へ書いた。
《天然サファイアの可能性が高い。青色被膜および模造包有物あり。破壊検査前に所有権・申告履歴を確認》
終了のベル。
ルカは自分の《フラックス法合成》という答案を見て、数秒黙った。
それからカメラの前で大きく息を吐く。
「宝生ルカ、第三石を誤鑑定。正解は東雲凛香」
コメント欄が止まり、次の瞬間に爆発した。
「どうして分かったの」
「包有物がきれいすぎたから」
「褒めてる?」
「本物の欠点は、見せたい場所に配置されません。合成石に見せるための傷は、全部カメラ映えする角度にあった」
澪なら、たぶんこう言った。
黒歴史を演出するな。解釈違い。
その声を思い出すと胸が痛む。
でも、痛むことを理由に勝手に取り戻してはいけない。
判定は、私の勝利。
審査員が被膜の一部を非破壊分光で確認すると、有機色素と薄い珪酸層の反応が出た。私の所見が確定した瞬間、コメント欄の《霊感だけ》という文字が一気に流れ去る。
代わりに、《じゃあ能力は何のため?》という質問が増えた。
「見えるものだけで足りないとき、仮説を立てるためです」
私はカメラへ答えた。
「でも、仮説を人の人生へ押しつけないために、通常鑑定と同意が要る。私の力は答えじゃありません」
力を否定したのではない。
ようやく、置く場所を決めた。
ルカはA級署名を保証書へ入れた。
「負けたのに、妙に嬉しそうだね」
「配信者としては大当たり。鑑定士としては三日へこむ」
「切り替え早い」
「へこむ予約を入れただけ。今は仕事」
ルカは課題石の提供記録を私へ見せた。
第三石の提供者欄には、《黒百合商会・過去の保険詐欺調査標本》とある。華乃は、私が感情を読まなくても見抜ける種類の嘘を、わざわざ勝負へ出していた。
「華乃先生からの伝言はなし」
「いつものこと」
「でも、課題の選び方はかなり過保護」
「姉さんの過保護は、だいたい崖から落としたあと下に網を張る」
「本人には網が見えないやつね」
ルカはマイクを切り、声を落とした。
「能力を使わないって宣言、華乃先生も見てた」
観察室の一番奥。
黒いコートの背中が、扉の向こうへ消えるところだった。
追いかける。
廊下には誰もいない。
代わりに窓際の台へ、黒いカードが一枚置かれていた。
《王冠館・女王管理区 上級通行証》
裏面には、黒百合の認証印。
華乃が置いたものだ。
「罠?」
追いついたルカが訊く。
「姉さんの罠は、もっと説明不足」
「信用してるんだ」
「信用してない。癖を知ってるだけ」
通行証は、王冠館地下の旧記録庫まで開けた。
そこには《白妃の涙》の三層目について、昨日は伏せられていた事故記録があった。
私は触れなかった。
華乃の許可なく、感情を読むつもりはない。
けれど記録庫へ入る権限を渡したのは、華乃自身だ。
母の筆跡で、緊急移送の所見が残されていた。
《第三負荷提供者 東雲華乃・十八歳》
《事故発生時、制御不能な感情反応を確認》
《主感情――母・東雲雫を失うことへの予期恐怖》
《本人は冷静状態を主張するが、心拍・握力・涙液反応と一致せず》
華乃が《白妃の涙》へ預けたのは、母が死んだあとの悲しみではなかった。
母を失う直前、怖いと叫ぶことさえできなかった、十八歳の姉の恐怖だった。
私はずっと、華乃が母の制止を無視して冷静にレバーを下ろしたと思っていた。
違う。
あの夜の姉は、誰より先に母を失うと分かって、誰にも見えない場所で壊れていた。




